第四章 守られる女
翌朝、目が覚めた時、窓の外はまだ淡い曇りを帯びていた。
山の朝は、東京のように物音から始まらない。
人より先に空気が起き、鳥が一声か二声、試すように鳴いてから、やっと人の気配が少しずつ家の隅へ戻ってくる。
省吾は寝台の上でしばらく目を開けたまま天井を見ていた。
板の目がまっすぐ走っている。
そのまっすぐさが、寝覚めの頭には少しうるさい。
起き上がる時、悪い足がすでに冷えていた。
山の空気は胸にはましでも、関節にはそう都合よくはない。
彼は顔をしかめ、掛物を脇へ押しやってから杖を探った。
階下へ降りると、家はもう朝食の支度が済んでいた。
客間ではなく、昨夜とは別の小さな食堂へ通される。
窓は大きく、庭の木が斜めに見える。卓の上には白い布が掛けられ、食器はどれも控えめに上等だった。
避暑地の別荘というものは、何もかもが「さりげない」顔をしているが、そのさりげなさのほうが金がかかっているのだろう。
老婦人はまだ来ていなかった。代わりに志保が既にそこにいて、女中へ何か指図をしていた。
昨夜より色の薄い着物を着ている。
帯も簡素で、朝の明るさの中では、かえって人の顔つきだけがよく見えた。
化粧気はほとんどない。
そういうところまで、死んだ家の中にいる未亡人として過不足のない姿に整えているのだろうと、省吾は思った。
志保は省吾に気づくと、ただ会釈をした。
「よくお休みになれましたか」
「静かすぎて腹が立った」
「それはお気の毒」
昨夜より少しだけ受け答えが短い。
客として丁寧には扱うが、好意は一寸も足さない、という線をきちんと引いたらしい。
そこへ敬介が入ってきた。
朝から洋服で、髪に軽く香油の匂いがある。
こういう避暑地へ来る男には、都会の匂いを持ち歩きたがる者が少なくない。
「おはようございます、久世さん。こちらの朝は少し涼しいでしょう」
「東京ほど人が腐ってないからな」
敬介は笑って受け流したつもりの顔をしたが、その笑い方が昨日より少し硬い。
志保は皿を置く女中の手元を見ているふりで、こちらを見ない。
やがて老婦人が女中に支えられて入ってきた。
支えられてはいるが、支えられ方まで自分で決めている顔である。
椅子へ落ち着くと、まず省吾を見た。
「あなた、朝から嫌なことを言う元気はあるのね」
「嫌なことしか頭に浮かばん時もある」
「結構。病人の周りはね、やさしい顔とつまらない話ばかりになるから、時々風通しが要るのよ」
志保が静かに言った。
「叔母さま、朝からそのようなことを仰るものではありません」
「お前はすぐそう言う。だから皆、私を病人にしてしまうんだよ」
志保は何も返さなかった。ただパンの籠を老婦人の側へ寄せる手つきが、少しだけきちんとしすぎた。
食事が始まると、会話は自然と家のことへ流れた。
東京から届いた便りは、近くの別荘で催される音楽会の噂、道が雨でぬかるみやすくなっていることなどだった。
敬介はこういう取りとめのない話を器用に継ぐ才能があるようで、気づけば自分だけ滑らかに喋っている。
老婦人は聞いているようで、半分しか聞いていない。
志保はその隙間を埋めるように、茶を足し、皿を見、女中へ目を配る。
省吾は食卓の上よりも、その目配りの行方を見ていた。
「あなたはよく働くわね」と老婦人がふいに志保へ言った。
「皆がそう仰います」
「そういう言い方は、少し刺があるわね」
「叔母さまの真似かもしれません」
老婦人が笑った。敬介も笑った。
しかしその笑いの輪の外で、志保の口元だけはわずかに動いたきりである。
敬介がナプキンで指先を拭いながら言った。
「志保さんは本当に気がつきますからね。叔母の薬、食事、庭師の手配、女中のことまで、ひと通り目を通してくださる。こちらとしては大助かりです」
「こちら、とは誰だ」と省吾が言った。
敬介は一瞬、何を問われたのか分からぬ顔をした。
「ええ、ですから……家の者一同と申しますか」
「便利な言い方だな」
「は?」
「家の者一同。誰の手も汚れん」
老婦人が茶碗の縁を指で撫でた。
志保は顔を上げない。
敬介だけが、愛想と不快の中間の顔になった。
「久世さんは、言葉に細かい」
「細かくない。雑な言い方が気に障るだけだ」
敬介は笑って済ませようとした。
「いや、しかし、志保さんには本当に感謝しております。若いのに、よく辛抱して――」
「辛抱」
省吾はパンを皿の上へ戻した。
「今度はその言葉か。大したものだ。昨日から聞いてると、この家は志保さんとやらの上に、親切と感謝と辛抱ばかり積んでる」
志保が初めて省吾を見た。
真っ向から、というほど強い視線ではない。だが、黙っていてくれませんか、という気持ちだけは十分にあった。
敬介は咳払いをした。
「辛抱というのは、別に悪い意味では……」
「知ってる。悪気がないのが一番面倒だ」
老婦人が低く言った。
「省吾さん」
名前を呼び捨てにしたのは初めてだった。
省吾はそこでようやく口を閉じた。老婦人は少しだけ目を細めたが、怒ってはいなかった。むしろ、部屋の空気の行き先を一度こちらへ戻すための声だった。
「食事ぐらい、静かにおし」
「静かにすると、皆が立派な顔をする」
「立派な顔をさせておくのも、時には慈悲だよ」
「俺にはない」
「見れば分かるわ」
志保がそれを聞いて、ほんの少しだけ目元を動かした。
笑いではない。
だが、叔母の言葉で省吾が初めて黙らされたことに、意外を感じたらしかった。
食後、老婦人は居間で新聞を読ませろと言い出した。
目はまだ悪くないはずなのに、人に読ませるほうが面白いのだろう。
敬介は所用があると言って早々に出て行き、志保は一度女中部屋のほうへ姿を消した。省吾は老婦人の前に腰を下ろし、新聞を広げた。
記事は東京の政争だの、株価だの、どこかの火事だの、あまり今ここに要らぬことばかりである。
省吾は無造作に読み上げたが、老婦人は意外によく聞いていた。
「あなた、読む声は悪くないのね」と言う。
「悪い顔の男は、声ぐらいましでないと困るだろ」
「そこまで自分で言うなら、いっそ可愛げがあるわ」
「可愛げで人を雇う家か」
「今どきはどこもそうかもしれない」
志保が戻ってきて、窓際の小机に帳面を広げた。
どうもこの家では、老婦人のそばに人が一人いることが習いになっているらしい。
看病というほどではない。だが目を離さぬ。老婦人はその習いに甘えているようでいて、同時に窮屈にも感じている。
その微妙な揺れが、時々一言の端に出る。
新聞を読み終えると、老婦人は今度は昔の話を始めた。
若い頃、上州の山道で馬が暴れたこと、夫の赴任に伴って長く京に滞在したこと、洋行帰りの親戚が最初に持ち込んだ珈琲の不味さのこと。話はあちこちへ飛んだが、志保は口を挟まずに聞いていた。彼女が一番よく知っている話もあるだろうし、初めて聞く話もあるだろう。
けれどその聞き方には、飽きてもいないし、夢中にもなっていない、長く同じ役を務める人の癖があった。
老婦人が一度咳き込み、水を求めると、志保はすぐに立った。
女中を呼ばない。自分で注ぐ。そういう身のこなしがあまり滑らかすぎて、逆に痛々しいと省吾は思った。
滑らかすぎる動きは、長く何かに従ってきた証でもある。
「あんた、番頭のほうが向いてるな」と省吾は水を受け取る志保の手元を見て言った。
志保は怪訝そうに眉を寄せた。
「何の話かしら」
「この家のことだ。人の機嫌も、台所も、帳面も、全部お前が見てる」
「余計なお気づきようで」
「気づかれるのが嫌か」
「嫌というより、驚くわ。二日もいない方に言われる筋合いはないもの」
「二日もいれば充分だ」
老婦人が扇子を膝に置いた。
「志保はね、気がつきすぎるんだよ。気がつく者は、気がつかぬ者の尻拭いまで引き受けてしまうから」
志保がややきつい声で言った。
「叔母さま」
「本当のことよ」
「そのような言い方は……」
「お前が一番嫌うわね。誰かに言われるのが」
志保はそこで黙った。黙ったが、その黙り方には、素直に引いたのではなく、これ以上叔母を疲れさせまいとして口を閉じた色があった。
省吾は、その色の正体が少し見えた気がした。
彼女はこの家の人々のために黙っているのではない。
むしろ、皆の顔の前で自分の心持ちが乱れることそのものを嫌っているのだ。
昼過ぎになると、空がさらに重くなった。
木立の向こうで風が立ち、葉の裏が一度だけ白く返る。
やがて細かい雨が降り始めた。避暑地の雨は都会のように土埃を抑えるためではなく、最初からそこにあった緑をさらに濃くするように落ちてくる。
老婦人は「外の匂いだけでも吸いたい」と言い出し、志保は困ったような、しかし拒めぬような顔をした。
「少しだけにしておきましょう」
「少しでいいよ。檻の鳥じゃあるまいし」
「鳥は外へ出したら飛んで行きます」
「私は足が遅いから大丈夫さ」
省吾は思わず鼻で笑った。
老婦人はそれを聞きつけて、扇子の先を彼へ向けた。
「あなたもおいで。こういう時、一人増えると皆が安心した顔をするものだから」
「俺が行くと余計に面倒になるぞ」
「それも分かってるわ」
結局、三人で広い縁側の先にある石段まで出た。
雨は本降りではない。霧雨に近い細かさで、木々の匂いが一層はっきりする。庭の奥には小さな東屋があり、そこまでなら老婦人も歩けそうだった。
志保は老婦人の腕を取り、ゆっくり石段を下りる。
省吾はその少し後ろからついて行った。
石は雨で濡れて、色が深くなっている。
足元は用心しなければならない。
そういう場所は、悪い足にはすぐ分かる。先に目が計算しても、身体が従いきらないことがある。
老婦人が東屋へ落ち着くと、志保は立ったまま周りを見た。
誰かを呼ぼうとしたのかもしれないが、結局やめた。省吾も柱にもたれて外を見た。雨粒が木の葉の先から落ち、苔の上で消える。その単純な景色が、かえって人の気をしんとさせる。
「静かね」と志保が言った。
「やっと少しは生き物の気配が消えたな」と省吾が答えた。
「人間がお嫌いなのね」
「好きなら東京で役人にでもなってる」
「それは極端だわ」
「そうか」
「そうよ。世の中には、嫌いでも折り合って暮らす人のほうが多いの」
「立派だな」
「皮肉で言ってるの」
「俺だって半分は皮肉だ」
志保はそこで少し笑いそうになって、それを抑えた。
口元の形がほんの僅か変わっただけだが、省吾は見た。
見ると、かえってその顔が気に食わなくなる。柔らかくなりかけたものを、どこかで元へ戻したくなるのである。
「お前は」と省吾は言った。「好きに決められるほど自由じゃないんだろうな」
雨の音が、一瞬だけ耳についた。
志保はすぐには返さなかった。東屋の柱の向こうで、老婦人が目を閉じている。眠ったのか、眠ったふりをしているのか分からない。
「……どういう意味かしら」
「そのままだ。誰と会うか、どこまで出るか、何を断るか、全部、お前一人じゃ決められん顔をしている」
「顔でそこまで分かるの」
「大したことじゃない」
「あなたには、ずいぶん人が単純に見えるのね」
「単純じゃないから面倒なんだろう」
志保は東屋の外へ目を向けたまま言った。
「あなたは、誰かに決められたことがないように仰る」
「あるさ。大抵ろくでもなかった」
「でしたら、少しは他人の都合も分かりそうなものね」
「分かるから言っている」
「言えば済むことばかりではないわ」
「黙って済ませてきた結果が、それだ」
省吾は彼女の帯のあたりを軽く顎で示した。
未亡人としての慎ましさ、家に残る嫁の分別、そういうものが、言葉にしなくても装いのどこかへ染みついている。
そのことを指摘されたと知って、志保の顔色が変わった。
「あなた、本当に失礼な方ね」
「知っているよ」
「知っていて直さないの」
「直して得をする相手なら考える」
志保は今度こそ省吾を真っ直ぐ見た。
怒っていた。だが怒りだけではなく、どこか別の場所を突かれた時の、身じろぎできない感じも混じっていた。
「あなたは、誰かを助けるつもりでそんなことを言うの」
「違うな。助ける気があるなら、もっとましな言い方をするものだ」
老婦人が、その時、目を開けた。
「なるほど」と言う。「それは正直ね」
志保は小さく息を吐いた。
叔母が加勢したと思ったのではない。むしろ、この二人を同じ場所へ置いておくと、自分の心が余計に摩耗すると悟ったような顔だった。
「そろそろ戻りましょう、叔母さま」
「そうだね。雨が強くなる前に」
志保が老婦人の腕を取って立たせる。
省吾も柱から身を離した。
東屋から母屋までは、わずかな石段を上るだけである。だが濡れた石は滑りやすい。老婦人を先にし、志保がその横につく。
省吾は少し間を置いて後ろから上がろうとした。
一段目はよかった。
二段目で、右足が思ったより石を捉え損ねた。滑ったわけではない。ただ、踏み込みが半寸ずれた。
その半寸を埋めるために体勢がわずかに崩れ、杖が石を強く打った。
音は小さかった。だが志保はすぐ振り返った。
「――」
何か言いかけた。
省吾は顔を上げた。
痛みそのものよりも、その瞬間を見られたことのほうが先に腹へ来たのだった。
志保はまだ老婦人を支えている。こちらへ走り寄るわけにもゆかない。その困ったような、しかし放ってもおけぬような顔が、かえって癪だった。
「何でもない」と省吾は先に言った。
志保は一歩だけこちらへ寄ろうとしたが、老婦人がいるのでそれもできない。
彼女は唇を引き結び、それでもなお言った。
「お足が――」
「よせ」
声は低かった。
怒鳴ったわけではない。
だが、その一語で志保は足を止めた。
止めたまま、省吾の顔を見た。
顔色が悪いのは元からだが、今はその悪さが雨の白さの中でいっそう際立っているように見えた。
「お足が、どうしたって?」と老婦人が後ろから言った。
「何でもありません」と志保がすぐ答えた。
省吾はその答え方まで気に食わなかった。
庇うような口ぶりが、自分を一段低いところへ置く気がしたからである。
しかし一方で、老婦人の前で余計な騒ぎを立てなかったその手際には、妙な安堵もあった。
母屋へ戻るまで、誰も口を利かなかった。
広縁へ入ってから、老婦人が椅子へ落ち着き、女中がタオルを持ってくる。
志保は濡れた袖を軽く拭いながら、さっきの言葉を引きずらぬようにしていた。
省吾は杖の先についた泥を、敷居の外で二度ほど軽く払った。動きはいつも通りに見せているつもりでも、自分で分かる程度にはぎこちなかった。
志保が老婦人へ毛布を掛け終えると、ふと省吾のほうを見た。
もう同情の顔ではなかった。
代わりに、昨夜より少しだけ複雑な目をしていた。
不快だけではない。
理解でもない。
多分、そのどちらにもまだ行き着かぬ途中の色だった。
「お茶をお持ちします」と彼女は言った。
「いらん」
「叔母さまにです」
省吾は黙った。老婦人がふっと笑った。
「あなたたち、仲が悪いのに、妙に気が合うね」
「冗談じゃないわ」と志保が言った。
「冗談ではない」と省吾が言った。
二人の声がほとんど同時に重なったので、老婦人はまた笑った。
志保はそれを聞いて、ようやくほんのわずかに頬を緩めたが、すぐに表情を戻して部屋を出て行った。
残された雨の匂いだけが、まだ縁側の板に薄く残っていた。




