第三章 避暑地の門
昼を少し過ぎた頃、汽車はようやく山のほうへ着いた。
停車場へ降りた途端、東京の空気とは別のものが胸へ入ってきた。
冷たいというほどではない。けれど、肌へまとわりつく湿り気が薄く、息を吸うと肺の奥が少し広くなる。
陽は同じように空の高いところから落ちてくるのに、地面の匂いも木の影も、どこか町のそれより輪郭が明るかった。
佐伯は改札を出ながら帽子の縁を指で押した。
「どうだ」
「何が」
「空気だよ。少しは機嫌が直るかと思って」
「直らん。空気のせいで人間がましになるなら、山奥は聖人だらけだ」
「相変わらずだな」
省吾は杖をつき、砂利のまじった地面へ足を移した。
東京の石畳より柔らかいぶん、歩きやすいようでいて、かえって力のかけ具合が曖昧になる。
悪い足はそういう曖昧さを好まなかった。
硬いなら硬いで腹を括れるのに、柔らかいと余計に癪に障るのである。
停車場の前には迎えの馬車が待っていた。
屋根付きの小ぶりなもので、馬もよく手入れされている。
御者のほかに、紺の服を着た若い男が一人立っていて、省吾を見ると、どこか心得たような顔で頭を下げた。
「久世様でいらっしゃいますね。朝倉より迎えに参りました」
「様はよせ」と省吾が言った。
男は少しだけ面食らった顔をしたが、すぐ「はい」と答えた。
東京の家なら、こういう手合いはもう少し角の立たぬ受け答えをする。
山の別荘地は上品ぶっていても、その上品さがまだ身体に馴染んでいないのだろうと、省吾は思った。
佐伯が横で笑った。
「じゃあ、私はここまでだ。帰りは向こうから手紙でも寄越せ」
「書かん」
「知ってるよ。だから催促してるんだ」
省吾は返事の代わりに手をひらひらさせた。
佐伯はもう慣れたものらしく、それ以上何も言わず、軽く肩を叩いて別れた。
馬車へ乗り込む時、迎えの男がまた手を出しかけた。
省吾はそれを一瞥し、男が自分で引っ込めるのを待ってから車へ上がった。
こういう気づまりは、もう何度味わったか分からない。
だが、何度味わっても慣れないものは慣れない。
馬車は停車場を離れ、白っぽい道をゆっくり進んだ。
道の両側には、背の高い木立が続いている。
幹の色は乾いて明るく、枝葉の間から洩れ出る陽の光は、東京の庭の木洩れ日よりも広かった。
時々、門の奥に洋館めいた建物が見えた。
屋根の勾配が急で、窓が大きく、どれもどこか外国の絵葉書を真似たような顔つきをしている。
そのくせ、庭の端には和服の女中が立っていたり、門柱の脇に石の灯籠が据えてあったりして、妙に落ち着かない。
「立派なものだな」と省吾が言った。
御者ではなく、脇に座っていた迎えの男が振り向いた。
「はい。夏のあいだだけでも、多くの方がお見えになりますので」
「夏のあいだだけ、か」
「は」
「結構な暮らしだ。暑くなれば山へ逃げ、寒くなれば町へ戻る。人間も蝶とちっとも変わらん」
男は困ったように笑った。
相槌を打てばよいのか黙ればよいのか分からぬ時の顔である。
省吾はそれを見ると、余計に何か言いたくなる癖があった。
「朝倉の婆さんは、どれくらい悪いんだ?」
「いえ、命に別条があるようなことではございません。少々お身体が弱られて、気鬱もおありで――」
「気鬱」
「はい」
「便利な言葉だな。医者が分からん時にも、親類が面倒くさい時にも使える」
男は、今度は笑いもしなかった。いよいよ返す言葉が見つからぬらしい。
馬車の車輪が小石を踏み、乾いた音を立てる。その間だけ、会話が切れた。
しばらくして、道の脇に浅い溝があり、そこを越えたあたりで馬車が少し揺れた。
省吾は思わず右足へ力を入れ損ね、顔をしかめた。
ほんの一瞬だったが、迎えの男はそれを見たらしい。
目が省吾の足元へ落ち、すぐ外へ逸れた。その丁寧な遠慮が、かえって鬱陶しい。
道の先に、ようやく朝倉の別荘が見えてきた。
高い木立の向こうに、白っぽい壁と深い色の屋根が覗く。
門は黒く、思ったより重々しい。
避暑地の建物というと、もっと軽いものを想像していたが、ここは見せびらかすというより、内と外をはっきり分けている顔だった。
金はある。だが、くつろぎよりも体面のほうが先に立っている。そういう家に見えた。
門を入ると、砂利道の両側に低い花が植えられている。
色は穏やかなのに、植え方が妙に整いすぎていた。花まで行儀よく並ばされている。省吾はそういう庭が好きではない。
玄関には年嵩の女中が出てきた。
迎えの男が荷を渡し、声を潜めて何か言う。
女中は省吾へ一礼すると、あまり多くを言わずに中へ案内した。
廊下は板張りで、歩くと木の乾いた鳴りがする。
窓は広い。
どこからも光が入るように作られているのに、家の中の空気は妙に静まり返っていた。
人の数は少なくないはずなのに、息を潜めて暮らしているような気配がある。
通された客間には、朝倉の老婦人が寝椅子に凭れていた。
年は七十に近いだろうか。
痩せているが、痩せ方までどこか気位を残している。顔色は白く、手の甲の血管が浮いていた。
だが目はまだよく生きていて、ただの病人の目ではない。
省吾が入ると、その目がまず杖へ落ち、それから顔へ上がった。その順番の早さで、この女が何も見落とさずに年を取ってきたことが知れた。
「あなたが久世さん」
「そうだ」
女中の気配が一瞬だけ固まった。
初対面の老婦人へ「そうだ」で返す男は、この家には多分いないのだろう。だが老婦人は、かえって少し面白そうに口元を動かした。
「佐伯さんのお友達は、もっと愛想のよい方かと思っていましたよ」
「それは向こうの見込み違いだ」
「でしょうね」
その一言で、老婦人に幾分かの胆力があると分かった。
省吾は椅子を勧められる前に、杖を脇へ立てて腰を下ろした。
そこへ、襖ではなく西洋風の扉が静かに開いて、一人の女が入ってきた。
喪服ではない。だが、色の落ち着いた着物をきちんと着て、帯も飾り気がない。
年は二十代の半ばから後半くらいだろうか。
顔立ちは整っているが、それを自分で承知して見せるような女ではない。
むしろ、そういうことと離れたところで長く神経を使ってきた顔をしていた。
手には、茶の盆を載せている。
女はまず老婦人のそばへ盆を置き、それから省吾へ目を向けた。
向けたというより、必要だから見た、というだけの短い視線だった。
「志保さん」と老婦人が言った。「こちら、久世さん。佐伯さんがお寄越しくだすったの」
志保は軽く頭を下げた。
「ようこそおいでくださいました」
声は静かだが、柔らかいというほどでもない。
客を迎える言い方ではあるが、その内側に、あなたが誰であろうと私にはまだ関係がありません、という冷たさが一枚ある。
省吾は茶碗へ手を伸ばしながら言った。
「ずいぶん静かな家だな。誰も彼も病人みたいな顔をしてる」
志保の眉がほんのわずかに動いた。老婦人は喉の奥で小さく笑った。
「あなたは、初めての家でもそういうことを仰るのね」
「初めてだから言えるんだろう」
「二度目には?」
「追い出されてる」
老婦人は今度ははっきり笑った。女中は笑わない。志保は笑うかわりに、茶を注ぐ手つきを少しだけきちんとし直した。
「ご気分を悪くなさいませんように」と彼女は老婦人へ言った。
「悪くなんてならないよ。久しぶりに生きた声を聞いた」
老婦人がそう言うと、志保は少しだけ黙った。
省吾はその沈黙を見逃さなかった。
この家では多分、老婦人がこうして勝手なことを言うたびに、周りの者が先回りして空気を整えてきたのだろう。
志保も、その役目を何度も繰り返してきた顔をしている。
それからしばらく、当たり障りのない話が続いた。
軽井沢の気候、今年の雨の具合、道中のこと。
省吾は当たり障りなく答える気が初めからないので、返事はみな少しずつ刺があったが、老婦人はむしろそれを楽しんでいるようだった。
「東京は暑かったでしょう」
「人間が多すぎる」
「こちらはその逆よ。夏だけ急に人が増えて、それ以外は木ばかり」
「木のほうが静かでいい」
「人と暮らすのがお嫌い?」
「好きならここへ来てない」
老婦人がまた笑う。志保は笑わずに、茶の差し替えをした。
やがて、廊下の向こうで男の声がした。
やや高く、よく通る声である。続いて、洋靴の踵が板を打つ音。扉が開き、三十代の半ばほどの男が入ってきた。
髪をきれいに撫でつけ、口髭を細く整え、洋装がよく似合うように見せている。だが、その似合い方が少し努力の匂いを帯びていた。
「ああ、久世さんですか」
男はにこやかに言った。「勝手ながら、私は叔母の甥にあたります朝倉敬介と申します」
「そうか」
省吾がそれだけしか言わなかったので、敬介は一瞬だけ笑みを留めたが、すぐ持ち直した。
「いや、叔母も少し退屈しておりましてね。こうしてお話し相手においでくださるのは、本当にありがたい」
「そういうことになってるらしいな」
「ええ。志保さんもお一人でお世話が大変でしょうし」
その言い方に、志保の指先が一瞬だけ止まった。ほんの僅かである。だが止まった。省吾はそれを見た。
敬介は気づかないふりで続けた。
「女手だけでは、どうしても行き届かぬことがありますからね。もっとも、志保さんは実によくやってくださっている。亡くなった従兄も、きっと安心していることでしょう」
言葉だけ聞けば、行き届いた親類の挨拶である。
だが、省吾にはその行き届きが、むしろ志保を一つの役へ押し込めているように聞こえた。
よくやっている未亡人。
亡夫の家に尽くして当然の女。
そういう札を胸へ貼って、皆が彼女を見ている。
省吾は茶碗を置いた。
「大変だな」
敬介が振り向く。
「は?」
「死んだ男まで安心させなきゃならんとは、忙しいことだ」
部屋の空気が、一度、紙のように薄くなった。
女中が目を伏せる。敬介の顔から笑みが半寸だけ剥がれた。老婦人だけが、眉のあたりを動かした。
「……はは、面白いことを仰る」
「面白くない。実に面倒な話だ」
志保は初めて、はっきりと省吾を見た。
その目には、さっきまでのよそよそしさに加えて、ほとんど不快と呼んでよい色があった。
だが省吾は、それで怯むような男ではない。むしろ相手がそういう目をした時のほうが、言葉は滑らかになる。
「未亡人ってのは、便利だな」と彼は言った。「皆が勝手に親切になる」
今度こそ、志保の表情が動いた。
白く整った顔に、さっと熱が上る。怒りがまず来て、そのあとで、それを抑えようとする理性が遅れて追いつく。そういう動きだった。
「久世さん」と老婦人がたしなめるように言ったが、声にはまだ笑いが残っていた。
「いや、そうだろう。誰も彼も、志保さんのため、志保さんのためと言ってる。便利な言葉だ。本人が何をしたいかは、後回しで済む」
敬介が口を開きかけたが、志保のほうが先だった。
「初めていらした家で、ずいぶんよくお分かりになるのね」
声は静かだった。だが、静かなぶんだけ冷えた。
「分かりやすいからな」
「そう。でしたら、さぞお目がよろしいのでしょう」
「悪くはない」
「結構なことです。でも、見えることと口に出してよいことは、同じではありません」
この言葉には、怒りだけではなく、家を守るための習慣が混じっていた。
ここで騒ぎを大きくしない、老婦人を疲れさせない、親類の面目も立てる、その全部を一息でやろうとしている。
省吾はそれを聞きながら、ますますこの女が気に入らないと思った。省吾が気に入らないというのは、興味が出た時に近いものだった。
「同じじゃないな」と彼は言った。「だが黙ってると、皆もっと勝手になる」
志保はもう返さなかった。ただ盆を持ち上げ、老婦人の茶を改めて見た。その横顔は先ほどよりも硬かった。
やがて敬介が、気まずさを笑顔で綴じ合わせるように、夕食の時刻だの、近くの散策路だのを話し始めた。
省吾はろくに相槌も打たずに聞いていたが、老婦人は時々わざと別の話題を挟んで、部屋の空気を自分の手元へ戻していた。
そのさじ加減の巧さから、この人が家の中心にいた時分は、ずっと強く家を支配していたのだろうと察せられた。
客間を辞して二階の部屋へ通される頃には、陽が少し傾いていた。
窓を開けると、木立の匂いがそのまま入ってくる。
部屋は簡素だが、余計なものがないぶんだけ気持ちはよい。
机、寝台、洗面台、壁際の小さな書棚。東京の家より広いのに、妙に空いて見えるのは、ここで暮らす者がみな、自分のものをあまり表へ出さぬからかもしれない。
荷を置いた若い下男が下がると、省吾は一人になった。
窓の外では、風が一度だけ木々の間を渡り、そのあとまた静かになった。遠くで鳥が鳴く。
都会の耳には、その間の静けさがかえって耳につく。
しばらく机の前に立っていたが、やがて彼は杖を手に、また階下へ降りた。
じっと部屋にいる性分ではないし、知らぬ家というものは、知らぬ家であるほど構いなく歩きたくなる。
廊下の奥に、ガラス戸のついた広縁のような場所があった。
そこは外の木立へ向かって開いていて、夕方の明るさがまだ残っている。
志保が一人、低い机の前に座って何かを見ていた。
帳面らしい。さっきの茶の女ではなく、この家の金や手配や人の出入りまで見ている時の顔である。
省吾が入ると、志保は顔を上げた。露骨に嫌そうな顔はしない。だが歓迎もしない。
「散歩でもなさるのかと思ったわ」
「人の庭を歩き回ると、また親切な親類が増えるからな」
「それはお気の毒」
「そっちこそ忙しそうだな」
「見れば分かるでしょう」
「見れば分かることほど、皆言わん」
志保は帳面を閉じた。
「あなたは、何でも言えばよいと思っているのね」
「思ってはない。言わずに済む相手には何も言わん」
「では、私は言わずに済まぬ相手だと?」
「そうらしい」
志保はしばらく黙った。
その沈黙の間、外の木立が揺れた。日がもう斜めに落ちて、彼女の頬の片側だけを照らしている。
さっきまでの客間では見えなかった疲れが、その光の中で少し浮いた。
「久世さん」と彼女は言った。「あなたが何を見て何をお嫌いになるのか、まだ私はよく分からないわ。でも、ここへいらしたばかりで、あまり早く人を裁かないでください」
「裁いてない」
「そうかしら」
「見えたことを言っただけだ」
「人は、それを裁くと言うのよ」
省吾は笑わなかった。窓の外へ目をやったまま、言った。
「都合のいい言葉だな」
「何が」
「裁く、だ。言われたくない時に使う」
志保の目が、少し細くなる。
「あなたは、誰にも庇われたことがないのね」
その言葉は、軽い問いではなかった。
むしろ、相手を量るために静かに投げた石のようだった。省吾はそちらを向いた。ほんの短いあいだ、何も言わない。
それから、肩で笑うようにして答えた。
「あるさ。たいてい余計だった」
志保は返事をしなかった。省吾も続けなかった。
その時、屋敷の奥から老婦人の咳が聞こえた。
志保はすぐ立ち上がる。迷いのない立ち方である。
盆を持つ女の立ち方ではなく、呼ばれれば自分が行くと決まっている者の立ち方だった。
「失礼するわ」
「どうぞ」
志保は二歩ほど行きかけて、ふと振り向いた。
「あなた、嫌な方ね」
「知ってるよ」
「でも、叔母さまは少し退屈がおまぎれになるかもしれない」
「そりゃ結構だ」
「私は、そうは思わないけれど」
それだけ言って、彼女は去った。
広縁には、また静けさが戻った。
省吾は閉じられた帳面を見た。何気なく手を伸ばす気にはならなかった。
人の金勘定や人付き合いの跡がそこにあるのだろう。さっき一瞬だけ見えた志保の顔は、ああいう帳面の上で磨り減ってきた顔だった。
外では、木のあいだから夕空がのぞいている。
薄い黄金色が、枝葉の縁をかすかに染めていた。遠く西の彼方には、嫌になるほど濃い赤色があるのだろうか。
東京の夕方はもっと煤けていて、陽が落ちる時もどこか急くようでもある。しかし、ここでは落ちる前の余白が長い。その長さが、かえって人をいらだたせることもある。
省吾は杖を手に取り、床を一度だけ軽く鳴らした。
音は木の板へ細く響いて、それきり消えた。




