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第二章 坂の上の車

 明け方の本郷は、まだ夜の名残を少し持っていた。


 戸の隙から入る空気に湿りがあり、井戸端で汲み上げた水の冷たさが、そのまま朝の肌へ移ってくるようだった。

 千代はいつもより早く起きて、台所の火を起こした。

 米の匂いが立ち、味噌汁の鍋が小さく鳴る。

 庄作は表の戸を半分だけ開け、誰もいない坂を一度見上げてから、また静かに閉めた。


 奥の間では、まだ省吾の気配がない。


「起きてるのかね、あれは」


 千代が言うと、庄作は台所の敷居にもたれて、少し笑った。


「起きていても返事はしないだろうな」


「そういうのを性根が悪いって言うんだよ」


「いまさらだよ」


 庄作のその言葉に、笑いそうになるのを堪えて、千代は盆の上へ握り飯を二つ置いた。

 梅を一つ、昆布を一つ。

 海苔はまだ湿る時分には早いと思ったか、巻かずに別に包んでいる。

 その手つきには、送り出す者の気の立ちがあった。口では厄介払いのようなことを言っていても、旅に出すとなると結局こうなる。


 やがて、襖の向こうで何かがぶつかる鈍い音がした。

 行李の蓋でも閉め損ねたのかもしれない。

 次いで、床板を一度強く打つ杖の音がして、省吾が顔を出した。

 意外なことにもう着替えていた。黒い羽織の下は洋袴で、首元だけ少しだらしなく崩れていた。


「何だい、その顔は」と千代が言った。「夜通し睨み合いでもしてたのかい、自分の影と」


「朝からうるさいな」


「うるさく言わなきゃ、口をきかないじゃないか」


 省吾は返事のかわりに膳の前へ座った。

 目の下が少し青い。

 どうせ寝つきが悪かったのだろう。

 京子はもう起きていて、髪を結いながら奥から出てきた。

 いつもより少し早い時刻の静けさが、家の中を薄く包んでいた。


「おじさま、本当に行くのね」


「今さら取りやめると、お前の母親がうるさいからな」


「行っても、向こうで喧嘩しないでちょうだいね」


「それは相手次第だ」


「そういうところが駄目なのよ」


「朝から説教するな。女学校ででも習ったのか」


 京子は口を尖らせたが、その目には、叔父が家を出て行く時の、あの少し胸の空くような、しかし妙に気になる感じがあった。

 省吾はそれを見て見ぬふりをし、味噌汁を口へ運んだ。


 朝飯が終わる頃、表から車夫の声がした。頼んでおいた人力車が来たのである。


 千代は、握り飯の包みを盆から取って省吾の前へ置いた。


「これ、道中で食べな」


「いらん」


「いらなくても持って行くんだよ」


「子供じゃない」


「子供より始末が悪いって昨日言ったばかりだろう」


 庄作が荷を持ち上げて言った。


「佐伯君とは停車場で落ち合うんだったね」


「そうだ」


「なら、あまり待たせないほうがいい。あの人は気が長そうでいて、時計のことになると妙に細かいから」


「編集屋は皆そうだ。人の原稿は遅れてもいいが、自分が待つのは嫌がる」


「君も似たようなものじゃないか」


「俺は原稿も待たせる」


「なお悪いよ」


 省吾は鼻を鳴らしただけで、立ち上がった。

 立ち上がる時、右足へかける重みがほんの一瞬、遅れる。

 千代は横目でそれを見たが、何も言わなかった。

 京子だけが行李を持とうとして、すぐ母に目で止められた。


 表へ出ると、朝の坂はまだ人が少なかった。

 霧というほどではないが、白い薄さが遠くにかかっていて、坂の上も下も少しずつ曖昧に見える。

 人力車の赤い車輪だけが妙にはっきりしていた。


 車夫は日に焼けた男で、省吾の顔と杖を見比べて、すぐに愛想よく頭を下げた。


「停車場まででございますね」


「そうだ」


「荷は後ろへ」


 省吾は車へ乗り込もうとして、一度、足を板に掛けたまま止まった。

 車の縁は僅かな高さしかない。だが、その僅かがいつも嫌だった。

 片足に重みを乗せ、杖を支えにして体を上げる、その一連の動きの中で、自分の不格好がいちばん露わになるからである。


 車夫が、ごく自然に手を出しかけた。


 省吾はそれを見もしないで言った。


「よせ」


 手はすぐ引っ込んだ。車夫は「へい」とだけ言ったが、その一瞬の気づまりを、千代は敏く感じ取った。


「気をつけて行きな」と彼女はわざと大きな声で言った。「向こうで風邪なんかひくんじゃないよ」


「そんな柔な出来なら、とっくに死んでる」


「憎まれ口を叩く元気があるなら大丈夫だね」


 京子が戸口から一歩出て、少し笑いながら言った。


「おじさま、帰ったら軽井沢がどんなところか聞かせて」


「くだらん。行く前から面白くもない顔をしてる土地だ」


「まだ着いてもいないのに」


「行く先なんて、大抵そうだ」


 人力車が動き出した。

 庄作が軽く手を挙げ、千代は腕を組んだまま見送り、京子は戸口の柱に手を添えて立っていた。

 省吾は振り返らなかった。振り返ると妙に芝居じみる気がしたし、そういうものが癪に障る朝だった。


 車輪は石畳を拾いながら、坂を上る。


 人力車は、乗ってしまえば案外静かなものである。音はあるが、その音はいつしか耳に馴染む。

 むしろ嫌なのは、折々に車がわずかに傾く時、自分の身体も一緒に揺られて、足の奥に鈍い痛みが目を覚ますことであった。

 省吾は膝の上へ杖を置き、握りのところへ片手をかけた。指先だけがわずかに白くなる。


 坂の途中で、学生が二人、洋書を抱えて下りてきた。

 片方は鼻眼鏡をかけ、もう片方は寝不足らしく欠伸をしている。

 二人とも、省吾の車を見て、ちらりと顔を向けたきり通り過ぎた。

 その一瞥が何でもないものであるほど、省吾はかえって腹立たしかった。自分で勝手にそう思うのだと分かっていても、目が一度でも杖や足元に落ちると、それがもう嫌なのである。


 車は大通りへ出た。

 荷車、馬車、豆腐屋、新聞売り、通学の子供、袴に下駄の書生、洋装の役人らしい男。朝の東京はまだ煤けて見えたが、それでも昨日より今日のほうが少しだけ新しい顔をしている。

 その新しさの中へ、自分だけがどこにもぴたりと嵌らず、杖を持ったまま乗り込んでいる気がした。


 停車場の近くまで来ると、人が急に増えた。

 汽車に乗る者、見送る者、荷を運ぶ者、声を張る者。車はそのあいだを縫うように進む。

 降りる段になると、またあの僅かな高さが目の前へ立ちはだかった。


 車夫が今度は手を出さなかった。さっき一度拒まれて、心得たのである。

 省吾はそれに妙な感謝を覚えたが、口にはしなかった。

 杖を先に下ろし、次いで体を移す。その動きを、誰も見ていない顔でやるのがいちばん骨が折れる。


 佐伯はもう来ていた。柱のそばに立ち、新聞を広げている。省吾を見ると、すぐに畳んで笑った。


「時間通りだな。奇跡かと思った」


「人を遅刻魔の様に言うな」


「君は約束の時刻に現れるだけで、多少の奇跡だ」


 佐伯は省吾の荷を見て、眉を上げた。


「少ないな」


「四、五日分だ。骨を埋める気はない」


「先方が聞いたら泣くぞ」


「泣かせとけ」


 佐伯は笑いながら切符を取り出した。


「二等車にしておいた」


「それは、結構な御身分だな」


「君に三等はきついだろうと思ってな」


 その言い方には、わずかにためらいがあった。

 足のことへ直接触れないようにしながら、それでも触れてしまう、あのぎこちなさである。

 省吾はすぐそれを嗅いだ。


「親切そうな顔をしやがって」


「してない」


「してる」


「してないよ。車中で君の機嫌が悪いと面倒だから、金で静かにしてもらうだけだ」


「そっちの言い方のほうがまだましだ」


 佐伯は肩をすくめた。


 改札を抜け、プラットホームへ出る。

 煙が、薄く漂っていた。鉄の匂いと石炭の焦げる匂いが混じって、朝の空気を少し荒くしていた。

 向こうの線路にはもう汽車が入っている。黒い車体の側面に、曇った陽が鈍く映っている。


 乗り込む前に、佐伯がふと思い出したように言った。


「先方の話を少ししておく」


「今か」


「今だ。着いてから文句を言われても困る」


「文句は言う」


「聞くだけ聞け。老婦人は朝倉というおばあさんで、夫君はもう亡くなってる。夏は軽井沢に籠るのが常だが、今年は身体を崩して退屈している。親類は多いが、皆、気を遣いすぎるか、金の話ばかりするか、どちらからしい」


「結構な一族だな」


「どこの一族も似たようなものさ。そこへ若い未亡人が一人いる」


 省吾がちらりと佐伯を見た。


「それを先に言え」


「やっぱり、食いついたな」


「食いついてはいない。くだらん顔をしてるんだろうなと思っただけだ」


「君の口からそう言われると、世の大半の女が気の毒になる」


「なら全員を弔ってやれ」


 佐伯は声を立てて笑った。


「その未亡人が、亡くなった親類の嫁さん筋でね。名を志保という。上品で、物静かだが、なかなか骨がある。多分、君とは合わん」


「最悪だな」


「だから頼むんだよ。合う相手の所へ君をやると、ろくなことにならない」


「お前は、俺を何だと思ってるんだ」


「使いづらいが、時々役に立つ男、かな」


「編集屋らしい物言いだ」


 汽車へ乗り込む。座席はまだ空いていたが、完全には静かでない。旅姿の商人、軍服の若い男、年配の夫婦、学校帰りかと思うほど若い新婚らしい男女――いや、学校帰りではあるまいが、どこかそういう初々しさの残る夫婦である。

 女は薄い色の着物で、男の袖口を時々そっと直してやる。その何でもない手つきが、省吾の目に入った。


 佐伯は窓側へ省吾を座らせ、自分は通路側に腰を下ろした。

 発車まで少し間がある。汽笛がまだ遠い。


「軽井沢へ着いたら、迎えが来てる。君は行って、老婦人の話を聞き、適当に相槌を打ち、たまに詩でも哲学でも口にしていればいい」


「俺を蓄音機かなにかと勘違いしていないか?」


「蓄音機の方がましだろうな。君は相手が嫌がると余計に喋る」


「嫌がる顔を見るのが面白いんだ」


「それをやめろと言ってるんだ」


「無理だな」


「分かってるよ」


 発車のベルが鳴った。車体がごくかすかに震える。

 窓の外で、見送りの者が何か言い、乗る者が最後の荷を放り込み、駅員が腕を上げる。動き出した瞬間、向かいの若い女が、夫の膝の上へ落ちかけた手袋を拾って渡した。男は笑いながら受け取り、何気なく女の肩を引き寄せる。ほんの一瞬のことだった。


 省吾は視線を窓の外へ移した。


「どうした」と佐伯が言った。


「別に」


「景色はまだ停車場だぞ」


「停車場でも景色はある」


「機嫌が悪くなる理由を、もう少し工夫しろ」


「お前は黙ってろ」


 佐伯は新聞を広げ直したが、口元にはまだ笑いが残っていた。


 汽車は町を抜ける。

 屋根の列、煙突、洗濯物、寺の甍、川沿いの草、工場らしい建物、まだ眠そうな空き地。

 東京は、近くで見ると雑然としているくせに、こうして離れてゆく時だけ、妙に一まとまりの大きなものに見える。

 省吾は窓ガラスに頬杖をつき、その動いていく景色を見た。


 途中、佐伯が新聞を畳んでまた話し出した。


「向こうで、くだらん親類が何か言っても、いきなり噛みつくなよ」


「噛みつきはしない。事実を言うだけだ」


「君の事実は、刃物みたいなものだからな」


「鈍いよりいい」


「使いどころの話だ」


「編集屋がよく言うよ」


「そうだ。俺は使いどころで飯を食ってる」


 少し黙ってから、佐伯がふいに横目で省吾を見た。


「しかし、お前さんもずいぶん久しぶりじゃないか、こうしてちゃんと旅らしい旅をするのは」


「旅なんてものは、着く先に用がある時だけするもんだ」


「今回は用がある」


「退屈な婆さんの相手がな」


「それで金が出るんだ」


「そこだけは結構だ」


「足の具合はどうだ」


 その言葉は、ごく普通の調子で出された。

 深くもなく、重くもなく、ただ天気を問うように。佐伯なりにいちばん慎重な訊き方だったのだろう。

 だが省吾は、その慎重さごと鬱陶しく感じた。


「お前に報告する義理はない」


「そう怒るな。長く座ってると余計に痛むだろうと思っただけだ」


「思うな」


「無茶を言う」


「人の足なんか、忘れてろ」


 佐伯はそこで口をつぐんだ。新聞をもう一度開いたが、文字を読んでいる顔ではなかった。

 二人のあいだへ、車輪の響きだけが入り込む。


 しばらくして、車内の空気が少し緩んだ頃、通路を挟んだ席の小さな子供が、母親の手を離れてこちらへよろよろ来た。

 まだ言葉もはっきりしない年頃である。

 省吾の杖が珍しいのか、その握りへ手を伸ばしかけた。


 母親が慌てて呼ぶより早く、省吾がその子の顔を見た。


「触るな」


 子供はぴたりと止まった。

 泣くかと思ったが泣かなかった。ただ目を丸くしている。省吾は一つ息を吐いてから、杖を少し持ち上げ、先の金具を見せた。


「危ない。指を打つ」


 言い方は相変わらず愛想がなかったが、声の底は少し低くなっていた。

 子供は頷いたような、そうでもないような顔をして母親の所へ戻った。佐伯が新聞の陰からそれを見ていた。


「今のは優しいな」


「どこがだ」


「怒鳴らなかった」


「相手が子供だからだ」


「それを優しいと言うんだよ」


「お前の辞書は随分と薄いんだな」


 だが佐伯はもう何も返さなかった。

 省吾のそういうところを知っているからである。露骨に弱い者をいたぶるような真似はしない。

 ただ、その代わりに自分より少しでも近い所まで来た相手には、容赦なくなる。


 昼に近づくと、日が窓へ回ってきた。千代が持たせた包みを、佐伯が勝手に引き寄せる。


「食うぞ」


「俺のだ!」


「君はこういうものを持たされると、意地で食わない時がある」


「余計なお世話だ」


「そうか。じゃあ昆布のほうは俺がもらう」


 省吾は無言で包みを奪い返した。

 紐を解き、握り飯を一つ手に取る。まだ朝の温みが少し残っている気がして、そのことにまたわずかに腹が立つ。

 東京の家から持たされた飯が、ここまでついてくるのが気に食わないのである。

 だが食べる。佐伯はそれを見て、何も言わずに自分の弁当を広げた。


 窓の外は、いつのまにか町より田の色が多くなっていた。

 陽に照らされた水田が、ところどころ白く光る。遠くに山のかたちが見え始めると、車内の空気まで少し薄くなったようだった。


 省吾は食べ終えた紙を畳み、窓の外へ目をやった。

 映り込む自分の顔が、外の景色に重なって見える。頬が少しこけ、眉のあたりばかり妙に険しい。窓の向こうの山へ向かっている男の顔には見えず、どこかから逃げる途中で、たまたま同じ車内へ乗り合わせた客のようにも見えた。


 彼はしばらく、その顔を見ていた。


 見ていて、ふと鼻で笑った。笑ったつもりだったが、唇はほとんど動かなかった。


「何だ」と佐伯が言った。


「別に」


「今日はその返事ばかりだな」


「今日はじゃない。いつもだ」


「そうか。じゃあ安心した」


 省吾は窓に映る自分から目を外した。

 外では、雲の影が田の上をゆっくり渡っていた。

 車輪は相変わらず同じ調子で鳴っている。進んでいるのか、戻っているのか、その音だけではよく分からなかった。


 ただ、列車は確かに、東京を遠ざけてい

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