第一章 杖の音
本郷坂下の朝は、坂の上から降りてくる光よりも先に、店の戸を開ける音で始まった。
庄作は、まだ冷たさの残る板戸を左右へ滑らせ、外気を店の中へ通した。
夜のあいだ棚の隅に溜まっていた紙と墨の匂いが、朝の湿りを含んだ空気に押し出される。
外では、豆腐屋が遠くで声を張り上げ、坂の下では車夫が車輪の軋みを立てていた。
店先へ小さな机を出し、学童用の帳面と石盤と鉛筆を並べる。
春とも夏ともつかぬ時分で、陽はもう強いのに、朝の土だけがまだ少し冷えている。
庄作は帳面の角を揃えながら、奥へ声をかけた。
「千代さん、包み紙、もう一束出してくれるか」
奥から返事のかわりに、足音だけがきびきびと近づいてきた。
千代は紙の束を庄作に渡すと、店先を一目見てすぐ眉を寄せた。
「またそんな積み方をして。風が出たらすぐ飛ぶじゃありませんか」
「飛んだら拾えばいい」
「拾うのはたいてい私です」
そう言いながら、千代の手はもう動いていた。
帳面の束を半寸ほど奥へ寄せ、文房具の箱を少し低い位置へ移し、客が手を伸ばしやすいように並べ直す。
こういうことは、庄作より千代のほうが早かった。
店を回しているのは表向き庄作でも、細かなところまで目を光らせているのは結局この女であると、近所の者は皆知っていた。
奥から、紙をめくる音がした。京子である。女学校へ持って行く教科書を風呂敷へ包んでいるらしい。
「京子、御飯を食べてからにしなさい。あとで腹が減ったって言っても知らないよ」
「今食べるわ」
娘の声は、まだ寝起きのやわらかさを少し残していた。
千代は店先の掃き掃除を始めながら、ふと坂の上のほうを見た。誰かが下りてくる。
最初はただ、人影が朝の白さの中で揺れているだけに見えた。
それがもう少し近づくと、片側にわずかに傾いた肩と、石畳を突く杖の音が、坂の空気の中からはっきりしてきた。
千代は箒を止めた。
「来たわね」
庄作も顔を上げた。
坂の上から、黒っぽい羽織に袴とも洋服ともつかぬ妙な取り合わせの男が、いかにも不機嫌そうな顔で下りてくる。
杖は細身の洋杖だった。
持ち方が慣れているようでいて、どこか喧嘩腰にも見える。
男は店の前まで来ると、戸口を見るより先に、まず看板を見上げた。
「まだ潰れてないのか」
千代が箒の柄を立てたまま言った。
「朝っぱらから縁起でもないことを言うんじゃないよ」
「安心しろ。そう簡単にゃ潰れん。お前の気性が先に家を壊すだろうさ」
「減らず口だけは達者だこと」
久世省吾は返事のかわりに鼻を鳴らし、杖の先で敷居を軽く叩いてから中へ入った。
顔色はよくない。旅の埃もついている。
だが、目だけは妙に冴えていて、何かにつけて人の腹の底を覗こうとする時のいやな光を、朝からもう宿していた。
京子が奥から出てきて、風呂敷を抱えたまま立ち止まった。
「おじさま」
「何だ、その顔は。化け物でも見たみたいに」
「しばらくお帰りがなかったから、少しは野垂れ死にでもしたかと思っていたの」
「いい娘だ。母親の仕込みがよく行き届いてる。いや遺伝か?」
京子は唇だけで笑った。
省吾はその顔を見て、ほんのわずか、目元の険しさを緩めたが、すぐまた元に戻した。
庄作が店の中から声をかけた。
「まあ上がりたまえ。朝飯はまだだろう」
「食ってきた」
「嘘だね」と千代が言った。
「顔が飢えてる」
「勝手に俺の顔で、腹の中まで探るな」
「分かるんだよ。あんたの顔は昔から、金がない時とろくなことをしてない時だけは顔に出るんだから」
省吾はそれには答えず、店の隅へ置いてあった小机の脇へ腰を下ろした。
座る時、足を少しかばう癖がある。
本人は気づかれぬようにしているつもりだが、家の者は皆知っていた。
千代は知っていて見ないふりをし、庄作は知っていて何も言わない。京子だけが、時々ちらりとそちらを見て、すぐ目を逸らす。
朝飯の膳が運ばれてくると、省吾は「食ってきた」と言った舌の根も乾かぬうちに箸を取った。
焼き魚を半身、味噌汁を二口、漬物を二切れ食べたところで、ようやく人心地ついたらしい顔になる。
千代はそれを見て、しかし別に笑いもせず、帳場の引き出しを開けて前日の売り上げを見始めた。
「今度はどこにいたの」
「色々だ」
「色々じゃ分からないよ」
「分からなくて困ることがあるか」
「ないね。ないけど、借金取りでも来た時のために聞いてるんだよ」
「来たらいないと言っておけ。そういう嘘は得意だろ」
「得意だよ。けど、追い返す前に一発くらいはあんたの頭を叩きたいね」
京子が笑いを噛み殺した。
省吾は味噌汁を啜りながら、横目でそれを見た。
「学校はどうした」
「これからよ」
「まだ行ってるのか」
「やめろっておっしゃるの」
「別に。ああいう所は、馬鹿を上品にするには都合がいい」
「それ、褒めてるのかしら」
「半分な」
「嫌な半分ね」
庄作が帳場へ入ってきて、眼鏡を少し押し上げた。
「女学校を腐すのは構わないが、今月の月謝は結構きついんだ。もう少しありがたがってくれてもいい」
省吾は魚の骨を皿の端に揃えながら言った。
「ならやめればいい。教養なんてものは、あると余計に不幸になる」
「それは君という見本が悪すぎるからだ」
千代が思わず噴き出しそうになって、それを隠すように咳払いした。
京子は今度は遠慮なく笑った。省吾は不機嫌そうに眉を寄せたが、庄作には返す言葉をすぐには持てないらしかった。
その時、店の外から甲高い声がした。近所の子供が二人、店先へ来て帳面を見ている。
ひとりがふざけて足を引きずるような真似をし、もうひとりが笑った。ほんの一瞬のことだった。だが省吾は箸を置いた。
音を立てずに立ち上がり、杖をついて店の前へ出る。
子供たちはまだこちらを見ていない。片方がまた真似をしようとしたところで、省吾が低い声を出した。
「面白いか」
子供はびくりとして振り向いた。
目の前にいた男の顔色が悪く、目つきが思ったより鋭かったので、たちまち笑いが消えた。
「な、何でもないよ」
「何でもないなら、何で笑った」
黙る。
もう一人が友達の袖を引いた。省吾は杖の先で石畳を軽く鳴らした。
「人の歩き方が珍しいなら、自分の頭の中身も人に見せて歩け。そっちのほうがよほど見物になるぞ?」
子供は赤くなって、逃げるように坂を下りていった。
千代がすぐ後ろまで来ていた。
「よしなさいよ、大人げない」
「ああ、俺は大人じゃない。大人ぶって見逃してやるほど出来た性分でもない」
「まるで子供だよ」
「そう言っているだろう。ああいうのは言ってやらないと誰にも殴られないまま大きくなるものだ。親切心てやつだよ」
千代は何か言いかけたが、結局言わなかった。
省吾の顔つきが、子供に腹を立てたというより、別の何かに切れているようだったからである。
京子は店の中からそのやり取りを見ていたが、やがてそっと視線を外し、風呂敷を抱え直した。
「行ってきます」
「お帰りはまっすぐだよ」と千代が言った。
「分かってるわ」
京子は戸口まで来て、省吾の脇を通る時だけ少し歩みを緩めた。
「おじさま」
「何だ」
「そんなに怒らなくてもよかったのに」
「怒ってない」
「怒ってたわ」
「なら、怒ってたことにしてやる」
「ひどい返事」
「学校に遅れるぞ」
京子は口を尖らせたが、結局それ以上は何も言わず、坂を上って行った。
紺の袴の裾が朝の光に少し明るく見えた。
省吾はその背を見送りかけ、途中でやめて店の中へ戻った。
午前の客がぽつぽつ来る。
下駄箱の脇で近所の小学校教師が赤鉛筆を二本買い、寺の小僧が帳面を一冊買い、しばらくすると、向かいの薬屋の妻が封筒を求めに来た。
省吾は手伝うでもなく店先の椅子に座って煙草をくゆらせていたが、客が帰るたびに、いちいち余計なことを言った。
「あの教師、払う気のない顔してたな」
「ちゃんと払う人だよ」と庄作が言う。
「今月はな。来月は知らん」
また別の客が帰ると、
「あの薬屋の女房、封筒なんか買ってたが、あれは里へ泣き言を書く顔だ」
千代が帳場から睨む。
「あんたはどうして、何でもそう嫌なほうへ見るんだい」
「嫌なほうじゃない。事実だ」
「そう見えるからって、口に出す必要はないだろう」
「黙ってると、皆もっと立派な顔をする。虚像だ」
「立派な顔で済むなら、それでもいいのさ。店ってのはね」
「商売人は大変だな。嘘も笑って受け取るんだから」
庄作は笑った。
「その代わり、腹の立つ相手にも飯は売れる」
「そりゃ結構だ」
「結構だよ。君みたいに、腹の立つ相手を片っ端から切って歩いていたら、翌月には飢えてしまう」
「……だから飢えてる」
「ようく分かってるじゃないか」
省吾は煙草を灰皿に押しつけた。
むっとした顔をしたが、やはり返事はなかった。
昼近くになると、店の中に紙の乾いた匂いが濃くなった。
戸口から差し込む陽が棚の上に斜めに伸び、帳面の端だけ白く光る。
外では、荷車の車輪が砂を噛む音がして、坂の向こうで犬が一声鳴いた。
その頃、ふらりと背広姿の男が入ってきた。
年は省吾と同じくらいだが、顔つきがもっと丸く、歩き方にも迷いがない。帽子を脱いで、にこやかに言う。
「やあ、久世君。ちゃんと生きていたか」
佐伯俊太郎である。千代が「あら、佐伯さん」と声を明るくした。
「この人は生きてるんだか死んでるんだか分からない顔で、朝から魚を二人前食べてましたよ」
「そりゃ景気がいい」
佐伯は省吾の向かいへ腰を下ろした。
「少し顔を貸せ」
「いやだ」
「即答するな。金になる話だ」
「それを先に言え」
「言う前に断ったのは君だろう」
庄作が茶を出しながら言った。
「どうせ、また気楽な原稿の話じゃないんですか」
「原稿よりもう少し気楽です」と佐伯が言った。「軽井沢にね、知り合いの老婦人がいるんです。身体を悪くして、夏のあいだ退屈している。話し相手が要る。かといって、医者や親類では肩が凝る。少し知恵のある、口の悪い男がちょうどいい」
「死ねと言ってるのと大差ないな」と省吾が言った。
「報酬は出る」
「いくらだ」
佐伯が額を言うと、省吾は露骨に顔をしかめた。
「安い」
「君の相場を知らんからね。高等遊民様の口は高い」
「遊民に様をつけるな。みじめさが倍になるだろ」
「じゃあ学士様でどうだ」
「もっと悪い」
千代が帳場から口を挟んだ。
「行きなさい」
省吾が振り向いた。
「何でお前が決める」
「決めるよ。ここで煙ばかり立てられても迷惑だからね。それに、こういう話は受けておかないと、次から誰も持って来なくなる」
「なら来なくていい」
「そうして皆に見放されるのが、あんたの上等ってわけかい」
「別に……」
「別に、じゃないよ。金がないんだろう」
「俺の財布の話だ。お前には関係ない」
「この家の米櫃には関係ある話なんだよ」
庄作がやわらかく笑った。
「軽井沢は涼しいそうだ。足にも少しは楽かもしれない」
それを聞いた時だけ、省吾の眉がぴくりと動いた。
足のことを直接言われるのを嫌うくせに、今は否定しなかった。
朝からの重さが、実のところ足に来ているのを、本人が一番よく知っていたのである。
佐伯はそこを逃さなかった。
「三日でも四日でもいい。老婦人の相手をして、ついでに空気でも吸って来い。君が東京にいても、ろくなことを考えない」
「向こうに行っても考えん」
「それならなお結構だ」
省吾はしばらく黙っていた。
外では坂を上る車の音がして、店の前を一陣の風が通り、並べた帳面の端がかすかに鳴った。
千代はその帳面を押さえながら、省吾の返事を待った。庄作は何も言わず、茶碗を一つ拭いている。
「……いつ出る」
ようやく省吾が言うと、佐伯は口元をゆるめた。
「明後日の朝だ」
「勝手に決めてやがる」
「断る顔じゃなかったからな」
「うるさい」
千代が、ほっとしたとも呆れたともつかぬ息をついた。
「じゃあ、明日は着物を少し見繕わないとね。あんた、その羽織じゃ別荘地で門前払いだよ」
「結構だ。門前払いなら話し相手をしなくて済む」
「そういう口を、先方で利くんじゃないよ」
「保証はしない」
「しなさい」
「しない!」
京子が女学校から戻ったのは、その少し後だった。
頬の色が朝より明るかった。
戸口へ入るなり、千代が言う。
「おじさま、軽井沢へ行くことになったよ」
京子は目を丸くして省吾を見た。
「本当に?」
「何だ、その面白がった顔は」
「だって、おじさまが避暑地なんて、似合わないもの」
「言うじゃないか。だが今回ばかりは同感だ」
「じゃあ、向こうの人たちが気の毒ね」
「気の毒なのは俺の方だ」
京子は笑いながら風呂敷を置いた。それから少しだけ真顔になって、省吾の足元へ視線を落としたが、すぐ顔を上げた。
「でも、涼しい所はいいかもしれないわ」
省吾の顔が一瞬だけ硬くなった。
「その言い方はやめろ」
京子ははっとしたように黙った。千代がすぐ間に入る。
「京子、手を洗っていらっしゃい」
娘が奥へ引くと、店先の空気が少しだけ冷えたようだった。
省吾は何でもないような顔で煙草を探したが、指先がほんの少し荒れている。
庄作が何気なく火を差し出すと、省吾はそれを見ずに受け取った。
午後の陽はゆっくり西へ傾いた。
客足が途切れる時間になると、坂の上から吹く風が紙の匂いを奥へ押しやった。
京子は宿題を広げ、千代は夕飯の支度へ立ち、庄作は帳面を繰っている。
省吾だけが、店先の椅子に身を沈めたまま、ぼんやり外を見ていた。
人が上り、人が下る。
学生、教師、物売り、車夫、女中。皆どこかへ向かっている。向かう先がある顔をしている。
省吾はそれを見ていたが、やがて視線を自分の杖へ落とした。所々汚れていて、握りのところだけ妙に手に馴染んでいる。
夕方、店を閉めるころになって、京子が省吾の机の脇へ来た。
何も言わず、その杖を持って奥へ引っ込む。千代が見ていたが、止めなかった。
しばらくして戻ってきた杖は、柄のところだけ少し艶を増していた。
省吾はそれを見て、眉を寄せた。
「何をした」
「別に。少し拭いただけ」
「そんな暇があるなら勉強しろ」
「したわよ」
「足りん」
「おじさまみたいになると困るものね」
省吾は杖を手に取った。磨かれたところへ親指が触れる。
何か言おうとして、結局、口を閉じた。
店の戸が閉まり、外の音が少し遠くなる。
夜の気配が、紙の匂いの中へ静かに下りてきた。
千代が膳を並べながら、何気ない調子で言った。
「明後日、早いんだから、寝坊するんじゃないよ」
「俺は子供じゃない」
「子供より始末が悪いんだよ、あんたは」
庄作が笑う。京子も笑う。
省吾は顔をしかめたまま飯の椀を取ったが、その顔つきは朝よりいくらか柔らかかった。
ただ、夜が更けて皆が寝静まったあと、一人だけまだ起きていた。
省吾は机の前に座り、行李の中身をろくに整えもせず、手紙とも原稿ともつかぬ紙を二、三枚引っぱり出しては、また戻した。開け放った窓の外で、坂の下を夜回りの拍子木が通ってゆく。
遠い音だった。
彼はふと、昼間、店先で子供が自分の歩き方を真似た時の顔を思い出した。
笑っていた。
何も知らず、ただ面白がっていた。
省吾はそこで初めて、自分があの子供に腹を立てたのではなく、その顔を見て、もっとずっと昔の別の何かを思い出していたのだと気づいた。
だが、気づいたところで何になるものでもない。
彼は舌打ちして、紙を丸め、灯を吹き消した。
暗い部屋の中で、磨かれた杖の柄だけが、窓から入る薄い月の気配をわずかに返していた。




