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第十章 芝居小屋の裏口

 女学校から戻って二、三日ばかり、省吾は妙に静かだった。


 静かといっても、柔らかくなったわけではない。店へ出る客にいちいち嫌なことを言う癖は変わらず、京子の英語の教科書へ目をやっては、


「そんな文句を覚えて、どこの馬鹿と話すつもりだ」


 などと口を出す。

 だが、前のように自分から長々と腐し立てはしなかった。

 黙っている時間が少し長くなったので、千代などは、「気味が悪いわね。山の空気か、学校の娘たちにでも化かされたか」と本気半分に言ったほどである。


 その午後、表の戸が勢いよく開いて、佐伯が入ってきた。

 暑さのせいか髪が少し乱れている。いつもの人のよい顔ではあるが、どこか急いでいるようでもあった。


「いるな」


「見れば分かる」


「結構結構。今度は、少し面白い話だ」


「前もそんなことを言ってたな」


「前よりましだ。少なくとも、校長先生はいない」


 省吾は小机の前で煙草へ火をつけたまま、顔も上げずに言った。


「それは、結構だ」


 佐伯は懐から紙を二、三枚出し、帳場へひろげた。

 色刷りの半端な刷物で、役者の名や演目が並んでいる。女の横顔を描いた挿絵があり、そこだけ妙に気取っている。


「芝居だよ」と佐伯が言った。「新派だ。口上と筋書の文句を少し直したい。今のままだと、どうにも田舎臭い」


 庄作が帳場から覗きこんだ。


「芝居小屋ですか」


「ええ。知り合いの興行主がね、文の分かる人間を欲しがっていて。役者は口が回るが、いざ紙へ載せると、皆ひどい」


 千代が包み紙を折りながら言う。


「それで、またこの人を引っぱり出すんですか」


「この人しか、ひどいものをひどいと言えないですからなあ」


「余計なことまで言うけどね」


「そこが少し困る」


 省吾は刷物を手に取った。

 たしかに書かれている文句が悪い。情死だの運命だの涙だの、安っぽい言葉ばかりが並んでいる。悪くない芝居まで安く見せる文だ、と一目で分かる程度には、省吾にもそういう勘があった。


「書き直せばいいのか」


「そうだ。今夜、一度小屋へ来い。稽古のあとに打ち合わせをする」


「夜か」


「夜だ。芝居小屋が昼間から似合うものか」


「似合わんものを似合う顔で並べるのが、ああいう商売だろう」


 佐伯は笑った。


「その通りだ。だから君が要る」


 京子が奥から顔を出した。


「芝居小屋?」


「お前はいつも食いつくな」と省吾が言った。


「だって、面白そうじゃない」


「人の面白そうは、大抵ひどい目に合う前触れだ」


 京子はむっとしたが、目だけは輝いていた。


「どんなお芝居なの、おじさま」


「まだ知らん」


「見ていらっしゃるの?」


「文句を直しに行くだけだ」


「それでも見られるでしょう」


 省吾は答えなかった。

 見られるだろう。そう思ったからこそ、引き受ける気になっていたところもある。


 その晩、日がすっかり落ちてから、省吾は佐伯に連れられて芝居小屋へ向かった。


 場所は日本橋から少し外れたあたりで、表通りは賑やかだが、一筋入ると急に裏手の匂いがする所だった。

 人力車が行き交い、屋台の火が揺れ、どこかの寄席から笑い声が漏れている。

 その雑多が混じるあたりに、小屋は立っていた。


 正面には提灯がいくつも掛かり、役者の名が染め抜かれた幟が揺れている。客の出入りはもう落ち着いていたが、裏へ回ると別の賑わいがあった。

 大道具が壁へ立てかけられ、裏口には煙草の吸殻が散り、白粉と汗と油の匂いが一緒になって漂う。

 東京の夜の中でも、こういう匂いを持つ場所は限られている。


「嫌いじゃない顔をしてるぞ」と佐伯が言った。


「お前の顔ほど下品じゃない」


「結構。ようやく元気が戻った」


 裏口から入ると、廊下は狭く、どこからともなく三味線の音が聞こえる。

 衣装の裾をからげた女が急ぎ足で横切り、役者らしい男が鏡の前で口髭を直し、黒衣が無言で小道具を運ぶ。

 誰もが忙しそうで、しかしその忙しさの見せ方まで身につけている。


 奥の小部屋に、興行主の岡島という男がいた。四十を少し越えたくらい、腹の出かかりを羽織で隠している。人の機嫌を取ることに慣れた顔で、佐伯を見るなり手を揉んだ。


「いやあ、待ってました。こちらが」


「そうだ」と佐伯が言った。「文句だけは達者な男だ。紙には役に立つ」


 岡島は省吾を値踏みするように見たが、すぐ笑顔に戻った。


「学士先生にこういう所までお運び願うとは恐縮で」


「先生はよせ」


「では久世さん。こちらの筋書をひとつ見ていただきたくてね。どうも、芝居は悪くないんですが、売り文句がいま一つ締まらん」


「締まらんどころか、腐ってるな」


 岡島は苦笑した。


「いやあ、手厳しい」


 そこへ、部屋の外で女の声がした。


「岡島さん、まだ終わらないの。次の幕の口上、誰が読むんだい」


 声が近づき、襖代わりの板戸が半ば開く。その隙間から女がひょいと顔を出した。


 背はそう高くない。だが、立つと自然に人の目がそちらへ行く。化粧はまだ落としていないらしく、目元がくっきりしている。着物は舞台の衣装ではなく、稽古着のような簡素なものだったが、それでも身の置き方が華やかだった。

 年は二十代の終わりか、その少し前か。笑えば愛嬌がありそうなのに、今は眉を上げて面倒そうな顔をしている。


「おや」と女が言った。「見慣れない顔だね」


 岡島が慌てて立つ。


「初瀬さん、ちょうどいい。こちら、文句を見てくださる久世さんだ」


「文句を見る? 顔の文句かい」


「違うよ、筋書の」


 女――初瀬菊栄は、戸口にもたれて省吾を見た。見たあとで、わざとらしく首をかしげた。


「へえ。ずいぶん不景気な顔の学士様だこと」


 佐伯が吹き出した。岡島は困ったように笑う。省吾だけは煙草をくわえ直しながら言った。


「そっちも大した景気の顔じゃないな」


 菊栄の目が少し細くなり、それから口元がふっと動いた。


「悪くないね」


「何が」


「返しがさ」


 彼女はそのまま部屋へ入ってきて、机の上の刷物をひょいと一枚取った。


「これだろう? ひどいんだよ。あたしが読んでも、読んでるこっちが恥ずかしい」


「分かってるなら直せ」


「直せりゃ、とっくに看板だけじゃなく文士にもなってるよ」


「なれないな」


「どうして」


「口が達者な女は、自分のこととなると案外古い文句が好きだ」


 菊栄は一瞬、省吾の顔を見た。

 からかわれたのに腹を立てるより先に、どこを見てそんなことを言うのだと量る目である。


「学士様」と彼女は言った。「あんた、女をよく知ってる顔をしてるが、実際はちっとも知らないだろう」


「結構だ。知ったところで碌なことがない」


「そりゃそうだ」


 その答えが早かったので、今度は省吾のほうが少しだけ面食らった。

 菊栄はその顔を見て、ようやくはっきり笑った。笑うと、舞台化粧の下の人間らしさが少し見える。


 岡島が助かったように言う。


「初瀬さんは、うちの看板でしてね」


「見れば分かる」


「それで、こういう口上の言い回しにも注文が多いんだ」


「当たり前だよ」と菊栄が言う。「客は芝居を観に来るが、その前に売り文句で腹を決めるんだ。そこが鈍いと、役者の汗が安くなる」


 省吾は彼女を見た。


 この女は、単に気が強いのではない。自分の商売を、客席からだけでなく裏口の汚れまで含めて知っている顔をしている。

 そういう顔を見ると、少し話してみたくなる。

 人を信用するのとは違う。ただ、退屈しのぎとしては上等だというだけだ。


「それで」と省吾が刷物を机へ戻しながら言った。「どの芝居だ」


 岡島がすぐ身を乗り出した。


「今度の新作で、『雪の夜の契り』という――」


「題からして駄目だな」


 菊栄が声を立てて笑った。


「岡島さん、あんた今夜は諦めな。学士様は、まず殴ってから話す口だよ」


「殴ってるつもりはない」


「つもりがないのが始末に負えないっての」


 佐伯が壁にもたれて言った。


「初瀬さん、彼に物を頼むときはそういう言い方でいい。褒めると逆に腐る」


「へえ、面白い男だね」


「面白くない」


「そういう顔ほど、時々ちっと面白いのさ」


 部屋の外で、次の幕の拍子木が鳴った。菊栄はその音へすぐ反応し、刷物を机へ放って立ち上がる。


「さあて、出番だ。学士様、あんたはそのひどい文句を少しはましにしといておくれ。あたしが舞台で恥をかくのは御免だからね」


「お前が読むのか」


「読むとも。客はあたしの顔に金を払い、あたしの声で腹を決めるんだ」


「大したもんだ」


「今のは半分くらい本気かい」


「半分な」


 菊栄は笑って、戸口で一度だけ振り返った。


「じゃあ、残り半分は、幕のあとで聞いてやる」


 そう言って、裾を捌いて出て行った。その身のこなしだけで、ただの気の強い女ではないと分かる。

 芝居小屋というものは、立ち方ひとつで人の値打ちが半分決まる場所だ。菊栄は、それを知り抜いて立っている。


 彼女が去ると、部屋の中に少し空気が残った。


 岡島が手を揉む。


「どうでしょう、久世さん。初瀬さん、なかなかのものでしょう」


「口が達者だな」


「それだけじゃありませんよ。舞台へ立てば、お客様の目が皆そちらへ行く」


「だろうな」


 省吾はそう言いながら、机の上の刷物を手に取った。

 紙の文句は相変わらず安く、舞台の匂いとは釣り合っていない。

 けれど、この小屋には、この紙よりはましなものが少しはあるらしい。その「少し」のために、人は夜ごと金を払い、裏では汗と白粉が混ざる。


 省吾は筆を取った。


 岡島がほっとして佐伯を見る。佐伯は肩をすくめて笑っただけだった。


 部屋の外では、幕が上がる気配がした。

 拍子木、三味線、人のざわめき、その向こうで、さっきの菊栄の声が一度だけ高く通る。

 芝居小屋の夜は、表から見えるよりずっと生き物めいていた。


 省吾は紙の上へ最初の一行を書いた。


 安っぽい情死の匂いを削り、泣き落としの言葉を捨て、残るのはせいぜい、雪の夜に女が一人立つ背の寒さだけでよいと思った。


 そういうものなら、舞台の上でもまだ嘘になりきらずに済む。

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