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第十一章 口上

 筆を入れてしまうと、仕事は案外早かった。


 悪い文句というのは、悪いところがはっきりしているぶん、削るのに迷いが少ない。

 省吾は机の端へ肘をつき、筋書の紙を一枚ずつ繰りながら、余計な涙と運命を切り捨てていった。

 恋だの契りだの、客がもう聞き飽きている言葉を並べるより、雪の晩に戸口へ立つ女の冷えや、帰る家を持ちながら帰れぬ男の背の寒さを、一つ二つ置いてやるほうがまだましである。


 岡島は最初、机の向こうでひやひやしていたが、書き直された紙を一枚読むごとに顔色を変えた。


「なるほど……」


「何がなるほどだ」と省吾は言った。「元がひどいだけだ」


「いや、しかし、こうも変わるものかと」


「変わったように見えるだけだ。客は大して読まん」


「読みますよ。少なくとも、あれよりは」


 岡島は元の刷物をつまんで、まるで人の古傷でも見るような顔をした。


 佐伯は壁にもたれて煙草を吸いながら、半分笑っている。


「岡島さん、感心するなら今のうちだ。あとで彼は機嫌を悪くして、自分でも何を書いたか忘れた顔をする」


「お前はうるさいな」


「図星らしい」


 そこへ幕間のざわめきが近づいた。

 廊下の向こうで役者の声が飛び交い、黒衣が走る足音がする。

 菊栄が戻ってきたのは、その少しあとだった。カツラを外しかけていたらしく、髪の生え際に白粉が少し残っている。舞台の熱がまだ頬にある顔で、戸口へ入るなり机の紙をひったくった。


「どれ」


 省吾は取り返さなかった。菊栄は立ったまま読みはじめる。最初の二、三行で眉が動き、次で口元が上がり、最後まで来ると紙を裏返してまた表へ返した。


「へえ」


「何だ」


「少しは客へ売る気になったじゃないか」


「元が腐ってただけだ」


「それは知ってるよ。けど、学士様は、女が寒い夜に戸口へ立つところだけは分かるらしいね」


「お前方が安っぽくしすぎなんだよ」


「お前方、か」


 菊栄は紙を机へ戻した。


「いいね、その言い方。芝居小屋の人間を、最初からまとめて見下してる顔だ」


「見下してるんじゃない。まとめてるだけだ」


「なお悪い」


 岡島が慌てて取りなすように言った。


「いやいや、初瀬さん、久世さんはそういう口なんですよ」


「知ってるよ」


 菊栄はそう言ってから、省吾の手元を見た。


「でも、紙に乗ると少し違うね」


「何が」


「口だよ。生で喋ると角ばかり立つくせに、字にすると少しは奥行きが出る」


 佐伯が吹き出した。


「そこまで言われると、褒められてるのか貶されてるのか、本人も分からないだろう」


「分からんで結構だ」と省吾が言った。


 菊栄は笑って、化粧台のほうへ腰を下ろした。鏡の前で櫛を入れるその手元を、省吾は何とはなしに見た。

 舞台に立つ女の手は、もっと作り物めいているかと思っていたが、案外、働く女の手だった。

 指先に力があり、無駄がない。帯の締め方一つ、簪を抜く早さ一つ、皆、自分で稼ぐ人間の動きである。


 次の幕の呼び声がかかると、菊栄はすぐ立った。

 さっきまで部屋の中で笑っていた女が、廊下へ出る一歩手前で、顔の筋を変える。華やかになるのではない。むしろ、余分なものが落ちて、そこへ舞台に必要な気配だけが乗る。


 省吾はその変わり目を見た。


 こういうものを目の前で見ると、最初に思っていた「看板女優」という言葉の安さが少し剥がれる。

 人前へ立つ仕事は、どれも似たようなところがある。

 出る前に呼吸を整え、出たら一歩先の空気まで自分のものにしなければならない。その一歩が取れぬ者は、どれほど容色があっても客席の目を集めきれない。


 菊栄は振り向きもせずに言った。


「学士様、あたしの出るところ、少し見ていきな」


「何でだ」


「文句を書いたなら、その言葉がどう売られるかくらい、見といたほうがいい」


 省吾は少し考えてから立ち上がった。考えたというより、断る理由を探すのが面倒だっただけかもしれない。


 舞台袖は暗い。暗いのに、人の気配だけがぎっしり詰まっている。

 囃子方がひそひそと音を合わせ、黒衣が足音を殺して走り、舞台の上では客席へ向けた声だけが明るく通る。その明るさの裏に立つと、芝居というものが、いかに綱渡りじみた手際の上へ乗っているかがよく分かった。


 菊栄の出は、場面の半ばからだった。


 それまで舞台の上では、男の役者が大仰な身振りで身の上話をし、婆役が嘆いていた。客席は見えぬが、声の落ちる具合で、入りは悪くないらしい。笑うところで笑い、静まるところで静まる。岡島の言う通り、ああいう呼吸は、看板の顔が一枚あるかないかでずいぶん変わるのだろう。


 やがて菊栄が舞台へ出ると、客席の空気が一つ寄った。


 大袈裟なほどではない。ただ、それまで舞台の上に散っていた視線が、すっと一人のほうへ集まる感じがある。

 立って、袖を少し直し、声を出すまでの、その間で、もう半分は取ってしまう。

 これが華というものかと、省吾は思った。人を眩ませるより先に、人の目を止めてしまう力である。


 彼女が口上に当たる台詞へ来た時、さっき省吾が直した言葉が、舞台の上で別のものになった。


 紙の上では、冷えた夜気のように置いた一文が、菊栄の口へ乗ると、女の意地にも聞こえ、客の胸へ刺さる売り文句にもなった。

 書いた時には、そこまで見込んではいなかった。文は文でしかないが、読む人間が違えば、文は妙に余計な血を得ることがある。


 舞台袖で岡島が低く囁いた。


「ほら、ご覧なさい」


「うるさい」


「お分かりでしょう」


「分かったから黙れ」


 岡島はそれでも嬉しそうだった。


 幕が下りると、小屋の裏はいっそう慌ただしくなった。衣装を脱ぐ、カツラを外す、水を運ぶ、次の幕の道具を入れ替える。

 皆が動きながら、同時にそれぞれ自分の顔を保っている。

 役者は役者であり続け、裏方は裏方のまま走る。そういう職分の分かれ方は、女学校の整い方とは別の意味で息苦しい。

 だが、こちらの息苦しさは、少なくとも客の歓声や金に直結しているぶん、まだ正直だった。


 菊栄は舞台から戻るなり、帯を緩める前に岡島へ言った。


「今夜の入りはどうだい」


「悪くないよ」


「悪くない、じゃ困るんだ」


「昨日よりはいい」


「昨日はもっとひどかったろう」


 そのやり取りを聞いて、省吾は少し眉を動かした。

 岡島は菊栄へ笑顔を向けているが、その笑顔の奥で、金の勘定ばかりしている男の目をしている。

 さっき舞台袖で見た手際のよさは認めてもよい。だが、認めることと信用することは別だ。


 菊栄が化粧を落としながら省吾へ言った。


「どうだい、少しは見る目が変わったか」


「少しな」


「残り半分は?」


「客が勝手だ」


「それは今さらだよ。客が勝手じゃなきゃ、こっちが食えない」


「食えてるのか」


 菊栄の手が一瞬だけ止まった。止まって、また動いた。


「食えてるように見えるかい」


「見せてる」


「見せなきゃ、岡島さんがすぐ次を探す」


 岡島が苦笑した。


「初瀬さん、そんな言い方をされると困るなあ」


「困るくらいなら、昨日の祝儀をもう少しはずんどくれ」


「いや、それは帳場と相談で……」


「帳場は毎回渋い」


 省吾は岡島の顔を見た。


「大した看板だな」


「でしょう」と岡島は言いかけて、すぐ菊栄のほうを気にした。「いや、もちろん、うちは皆で――」


「皆で、か」


 岡島は口をつぐんだ。


 それからしばらく、省吾は裏で筋書の細かな直しをしながら、小屋の内側を見ていた。

 役者の中には、菊栄へ露骨にへつらう者もいるし、人気を妬んで鼻白む者もいる。

 だが本人は、そういう視線をいちいち拾わずに動いていた。

 拾えば仕事にならぬと知っているのだろう。

 そういう女を見ると、省吾は少し腹が立つ。

 立派すぎるからではない。

 周りが勝手に彼女を使っているのに、当人までそれを承知して働いてしまう顔が、志保の時と違う形で気に障るのである。


 夜更けに近くなって、ようやく小屋の熱が少し引いた。


 最後の客が出て、表の提灯が一つ二つ消される。

 裏では、脱いだ衣装が畳まれ、舞台の道具が端へ寄せられ、役者たちも三々五々帰り支度を始める。

 そういう時刻になると、さっきまでの華やかさは急に煤けて見えた。白粉は落ち、汗の塩だけが肌へ残り、人の声も少し素になる。


 菊栄は小屋の裏手にある細い路地へ出て、煙草へ火をつけた。表通りの灯はまだ遠く届くが、ここは半分闇である。

 酒屋の裏口があり、空樽が積んである。

 夜の熱が板壁へ残っていて、煙草の先だけが小さく赤かった。


 省吾も、佐伯がどこかへ消えたあと、一人でそこへ出た。菊栄は気づいたが、追い払わない。


「学士様」と彼女が言う。「女の吸う煙草は嫌いかい」


「別に」


「じゃあ立ってな」


 省吾は壁へもたれた。足の具合は、朝から動き回ったせいであまりよくない。けれど、今さら座る場所もないし、菊栄の前で疲れた顔を見せるのも癪だった。


「今日は少し売れたよ」と菊栄が言った。


「そうか」


「お前さんの文句も、多少は役に立ったかもしれない」


「お前の顔だろう」


「そりゃあるね」


 菊栄は煙を吐き、少し笑った。


「でも、顔だけじゃ客は次へ繋がらないんだ。最初に目を引いて、次に声で留めて、最後は話で金を落とさせる。どこか一つ腐ると、すぐ岡島さんが顔を曇らせる」


「よく知ってるな」


「知らなきゃ食えない」


「そう言って、よく笑ってられる」


 菊栄は煙草を指のあいだで回した。


「笑ってなきゃ、客が金を出さないからさ」


 その答えは軽い調子だったが、軽く言えば済むことばかりが人生ではない。省吾はそれを聞いて、なぜだか胸の奥に小さく棘のようなものを感じた。

 芝居小屋の看板として、笑って立ち続けること。笑わぬ役者はすぐ替えが利くと知っている女だけが、ああいう言い方をする。


「お前、稼ぎはどうなってる」と彼は訊いた。


 菊栄が省吾を見た。


「急だね」


「答えられないのか」


「答えられるさ。固定の金が少し、祝儀が少し。売れてる夜でも、半分は小屋と着附けとらしゃめんに消える。残りで家賃と飯だ」


「馬鹿だな」


「そうかもしれない」


「辞めろ」


「何を」


「こんな所」


 菊栄は少しだけ笑い、それから首を振った。


「お前さん、女学校の先生みたいなことを言うね」


「俺は先生じゃない」


「そうだった。じゃあ、気まぐれな学士様の説教か」


「説教じゃない。損な商売だと言ってる」


「損でも、向いてることがあるんだよ」


 その言い方には、志保や佐和の時とは違う居直りがあった。自分が何に向いているかを、良くも悪くも引き受けてしまった女の声だった。

 省吾はそれを聞いて、ますます腹が立った。向いているからといって、搾られていいことにはならない。


「岡島はお前を安く使ってる」


「皆そう言う」


「皆?」


「たまに飲みに連れて行く男とか、惚れたふりをする客とか、昔の役者仲間とか。皆、あたしのためを思って言う」


 菊栄はそこで、わざと省吾の顔を覗きこんだ。


「ほら。学士様と同じ顔だ」


 省吾は舌打ちした。


「一緒にするな」


「違うのかい」


「俺は、お前のためなんて言ってない」


「そうだね。そこだけは少し信用できる」


 その一言が妙に胸へ残った。


 路地の奥で、酒屋の戸が閉まる音がした。

 夜風が少しだけ通り、菊栄の髪の生え際に残っていた白粉が、ようやく肌の色へ馴染む。舞台の上では看板女優でも、こうして立っていると、年の頃相応に疲れた女の顔が見える。

 だが、その疲れを省吾は口にしなかった。口にすれば、多分、それもまた相手を安くすると思ったからである。


「お前」と彼は言った。「自分の値打ちくらい、もう少し高く見積もれ」


 菊栄は煙草の火を地面へ落として、靴の先で揉み消した。


「見積もってるよ」


「嘘つけ」


「嘘じゃない。高く見積もって、それでも今のとこにいるんだ」


「なお悪い」


「そうかもしれないね」


 そう言って菊栄は笑った。笑ったが、その笑いの奥に少し暗いものがあった。自分でも分かっていることを、人に言われた時の笑いである。


 省吾はその顔を見て、これ以上何か言うのをやめた。ここで言えば、また余計なところまで踏み込む。踏み込んで壊すのは簡単だが、壊したあと自分が残らないことも、もう知っている。


「学士様」と菊栄が言った。「今夜は少しだけましな顔してるよ」


「気のせいだ」


「そうかね。あたしには、人が舞台を下りたあとの顔は少し分かる」


「大したもんだ」


「今度は、半分より本気だろう」


 省吾は返事をしなかった。返事の代わりに煙草へ火をつけたが、火が一度でつかず、二度目でやっと赤くなった。


 裏口の向こうでは、芝居小屋の灯がまた一つ消えた。

 夜が少しだけ、深くなる。

 その深さの中で、二人とも同じようなところへ立っている気がしなくもなかったが、そう思ったところで、何も始まりはしない。

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