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第十二章 夏の散財

 芝居小屋へ顔を出すのが、いつのまにか二度三度では済まなくなった。


 最初は筋書の文句を手直しするだけのはずだった。

 ところが、一度直した紙が客に受けると、岡島は次もその次も持って来る。新しい演目の惹句、役者の名を並べる順、地方へ回す時の触れ文句まで、いちいち


「久世さん、ひとつだけ」


 と言って持ち込む。その「ひとつ」が大抵三つ四つあるのは、最初から分かっていた。


 省吾も、最初のうちは嫌がる顔をしながら、結局は机へ向かった。

 文をいじること自体は嫌いでない。

 役者の汗や興行主の鼻息が紙の上で安っぽくなるのを見るのは腹が立つが、それを少しましにしてやるのは、妙な話、痛み止めに似ていた。治るわけではないが、少しは息がしやすくなる。


 それに、菊栄がいた。


 いるから通う、と認めるのは癪だが、いないと言い切るほど鈍くもなかった。


 菊栄は毎夜のように看板へ出た。

 笑うところで笑い、凄むところで凄み、客が今日はこれを見に来たのだと思える瞬間を、きちんと作った。

 舞台の上でそういうことが出来る人間は多くない。

 声が出る、顔が利く、姿がよい、だがそれだけでは足りない。その夜その夜で客の気配に、自分の呼吸を合わせられるかどうかだ。菊栄はそこが上手かった。


 だから余計に、省吾には岡島のやり口が気に障った。


 最初は小さなことだった。約束した祝儀が今日でなく明日になる。衣装代を一部持ちにする。地方回りの話を曖昧にしたまま、「今の入りが続けば」と笑う。

 どれも、それだけならよくある話なのだろう。だが、よくある話ほど、人をじわじわ安くする。


 ある晩、省吾が裏の帳場へ行くと、岡島が番頭と小声で何か勘定していた。机の上には当日の札止めの記録と、祝儀袋の控えが広げてある。

 省吾は見ようと思って見たのではない。ただ、岡島が慌てて紙を裏返したので、かえって目に入った。


「何だ」と彼は言った。


 岡島は愛想よく笑った。


「いや、何でも。今夜はなかなかの入りで」


「それは見れば分かる」


「初瀬さんも機嫌がよくてね」


「金を払えばもっとよくなるだろうな」


 岡島の笑いが、半寸だけ動きを止めた。


「いや、もちろん、そのあたりはちゃんとしておりますよ」


「ちゃんとしてる男は、紙を隠さん」


 番頭が目を伏せた。岡島は苦笑して、


「学士さんは、本当に嫌なところへ目が行きますね」


 と言った。


「お前の紙の置き方が下手なだけだ」


 その場はそれで済んだが、済んでいないことは、皆の顔が知っていた。


 菊栄は、そのあと裏口で煙草を吸いながら、


「見たのかい」


 とだけ訊いた。


「半分な」


「じゃあ、もう半分もそのうち見えるよ」


「もう見えてるって顔だな」


 菊栄は笑わなかった。


「役者の口はね、舞台の上で大きく開いてりゃいいんだ。帳場の前でまで開くと、たいてい損をするから」


「知ってて黙ってるのか」


「知ってるからだよ」


 省吾はそれが気に食わなかった。


 志保の黙り方とも、佐和の堪え方とも違う。菊栄のそれは、腹を括った人間の顔だった。

 括ったぶんだけ、手が早く傷む。


 小屋は相変わらず客が入った。省吾の直した筋書が効いたかどうかは知らない。だが少なくとも、客席で配られる紙が前よりはましになったことだけは確かだった。

 岡島は機嫌がよく、役者たちにも時々酒を振る舞い、表では景気のいい顔をした。


 裏では、相変わらず渋かった。


 八月の終わりに近い夜、芝居が跳ねたあとで、菊栄が小さな口論をしているのを省吾は聞いた。


 楽屋の端、鏡台の前である。相手は岡島ではなく、岡島の女房らしい中年の女で、帯の結び方まで帳場のにおいがする。


「ですから、今月分のうち、地方の仕込みに回る分がありまして」


「それはそっちの都合だろう」と菊栄が言った。


「都合と言われましても、小屋は皆で回しているのですから」


「またそれか」


 鏡の前の白粉がまだ半分落ちた顔で、菊栄は笑ってもいなかった。


「皆で回してるなら、皆の稼ぎも同じにしとくれ。あたしだけ看板で出して、勘定の時だけ皆になるのは御免だよ」


 女房は困ったように口をへの字にした。


「初瀬さん、そう強く仰らずに」


「強くしなきゃ聞かないだろう」


 そこへ省吾が入って行くと、女房は露骨に顔をしかめた。余計な口を出す男が来た、という顔である。


「何だ」と省吾が言った。


「いえ、別に」と女房が先に言う。「ちょっとした勘定のことで」


「ちょっと、か」


「そうですよ」


「看板の顔があれだけ怒ってるのに」


 女房は返事に詰まり、すぐ「岡島に言っておきます」とだけ言って去った。


 菊栄は鏡の中の省吾を見た。


「今のは余計だったね」


「知っている」


「分かっててやるね」


「そういう性分だからな」


 菊栄は白粉を拭き取る布を机へ放った。


「気分のいいものじゃないよ。助けてもらうのも、助けた顔をされるのも」


「助けていない」


「じゃあ何だい」


「腹が立っただけだ」


 それを聞いて、菊栄はほんの少しだけ笑った。笑ったが、その笑いは疲れていた。


「それなら、まだましだ」


 数日後、地方巡業の話が持ち上がった。

 岡島は役者たちを集めて、秋口から北関東を回ると言う。言い方だけは景気がいい。

 だが、条件のところになると急に曖昧になる。宿は先方持ち、祝儀は入り次第、看板は状況を見て、云々。


 菊栄は黙って聞いていた。聞いていたが、目だけが冷えていた。省吾はその顔を横から見て、ああまた同じことをする気だなと思った。岡島は地方で菊栄の名を客寄せに使う。そのくせ、金はまとめて動かし、分け前はあとで濁す。そういう顔で喋っている。


 話が済んで、人が散ったあとで、省吾は岡島の机の前へ立った。


「お前」と彼は言った。「巡業の条件、紙にしろ」


 岡島が笑う。


「いやあ、そうきっちりしなくても、長い付き合いですから」


「長い付き合いで渋ってきたんだろう」


「何を仰る。私は皆を大事にして――」


「大事にしてるなら、初瀬の取り分を今ここで決めろ」


 岡島の顔がわずかに曇る。


「久世さん、あなたは部外者だ」


「便利な言葉だな」


「本当のことです」


「本当のことなら、なお言う。部外の人間に見えるくらい、お前の勘定は汚い」


 岡島はそこで、初めて愛想を引っ込めた。


「言い過ぎでしょう」


「言い足りん」


「あなたは芸のことを何も知らない」


「知ってるさ。小屋の入り、筋書の刷り、祝儀袋の控え、地方の掛け取り。全部知る必要はない。看板へ払う金だけが、いつも曖昧だって分かれば足りる」


 そこへ、ちょうど番頭が入ってきた。顔を見るなり、気まずそうに立ち止まる。岡島が舌打ちした。


「お前、余計なことを」


「俺は何も言ってません」と番頭はすぐ言ったが、その早さが余計に白状していた。


 奥から菊栄も来た。何事かと思って来たのだろうが、二人の顔を見た途端に事情は読めたらしい。


「よしな」と彼女は言った。「学士様、あんた、そこまでやると面倒になるよ」


「もう面倒だろう」


「面倒の種類が違うのさ」


 岡島は、その言葉を待っていたように言う。


「ほら、ご本人だってそう仰る。初瀬さんは分かってるんですよ。興行というものを」


「分かってるから腹が立つんだ」と省吾は返した。


 岡島の机の上には、巡業先の一覧と、役者の名を並べた紙があった。そこに、菊栄の名だけが一番大きく書かれている。だが分け前の欄は空いていた。


 省吾はその紙をつまみ上げた。


「これを持って客を呼ぶんだろう」


「当たり前だ」


「なら、先に埋めろ」


「勝手な真似をするな」と岡島が手を伸ばした。


 省吾は紙を離さず言った。


「埋めないなら、今夜の看板へはこの出来損ないの話を回す」


「脅しか」


「事実だ」


 岡島の顔色が変わった。菊栄が舌打ちした。


「まったく……」


 しかし、その舌打ちの先が、岡島へ向いたのか省吾へ向いたのかは、曖昧だった。


「初瀬さん」と岡島が言った。「あなたからも言ってください。この男は――」


「この男は嫌なやつだよ」と菊栄が言った。「でも、嘘は言ってない」


 沈黙が落ちた。


 番頭は息を潜め、楽屋の向こうで誰かが笑う声だけが遠くする。小屋の表では、まだ次の回の客が提灯の下へ集まり始めている頃だろう。

 裏ではこうして、金の話が人の値打ちを量っている。


 岡島はしばらく黙っていたが、やがて紙を机へ引き寄せた。


「……分かったよ」と言った。「地方の取り分、今ここで書く。ただし、宿の格や入りで多少の増減は」


「そこは入れろ」と省吾が言った。「曖昧な日本語で逃げるな」


 岡島は苦々しい顔で筆を取った。番頭が墨を寄せる。菊栄は腕を組んで、その手元を見ている。

 目つきは冷たいが、どこか肩の力が少し抜けたようにも見えた。


 結局、取り分はこれまでより少し上がり、祝儀の配分も書き付けられた。

 大した額ではない。

 だが、大した額でないものほど、人は踏みにじりやすい。それが紙へ載っただけでもましだった。


 岡島は書き終えると、吐き捨てるように言った。


「これで満足か」


「俺はどうでもいい」と省吾は言った。「看板に聞け」


 菊栄は紙を受け取り、目を通した。読み終えると折りたたみ、帯の間へ挟む。


「ありがとうよ、岡島さん」


 その礼はまるで礼に聞こえなかった。


 騒ぎはそれで済んだが、済んだからこそ、後味が悪かった。

 役者たちの中には、菊栄がまた我を通したと見る者もいる。岡島の女房は露骨に冷たくなり、番頭は目を逸らす。誰も正面からは言わないが、空気が少しだけ変わった。

  看板が自分の取り分を紙へ書かせた。たったそれだけで、人はすぐに面倒な顔をする。


 夜の回が始まる前、菊栄は裏の化粧部屋で鏡へ向かいながら言った。


「見ろよ。皆、あたしが悪者だ」


「違うのか」


 鏡の中で菊栄が笑った。


「そういう返しをするから、あんたは嫌われるんだ」


「知っている」


「でも、少しは助かった」


「ああ」


 菊栄はそこでふっと目を細めた。


「礼は言わないよ」


「いらん」


「そりゃ結構だ」


 その夜の舞台で、菊栄はいつもより少しだけ声がよかった。よい、というのは張っていたという意味ではない。腹が据わった時の声だった。

 客はそういう違いを理屈では分からずとも、肌で拾う。笑いどころでよく笑い、泣かせどころで静まり、幕が下りるとひときわ大きな拍手が出た。


 だが舞台袖へ戻った菊栄の顔は、前より少し疲れて見えた。

 取り分を上げてもらっても、明日から小屋の空気がきれいになるわけではない。そのことを分かっている顔だった。


 芝居がすべて跳ねたあと、二人はまた裏口の路地へ出た。


 夜風がようやく涼しくなりかけている。表の提灯はまだ二つほど残り、遠くで車夫の呼ぶ声がする。

 酒屋の戸は閉まり、空樽の木の匂いだけが残っていた。


 菊栄は、いつものように煙草を取り出したが、火をつける前に指で弄んだ。


「学士様」と彼女が言った。


「何だ」


「今夜の拍手、聞いたかい」


「聞こえた」


「少しばかり気分がよかった」


「そうか」


「でもね、ああいうのはすぐ散る」


「知っている」


「知ってる、か。便利だね、その言い方」


 省吾は壁へ凭れた。足の重みが、夜になって少し戻っている。だが言わない。


「お前」と彼は言った。「こんな所、やっぱり辞めろ」


 菊栄は今度はすぐ笑わなかった。煙草へ火をつけ、細く吐いてから言う。


「今夜、それを言うかい」


「今夜だからだ」


「遅いよ」


「そうか」


「そうさ。あたしはね、舞台へ出る前に、一歩で空気が変わるのが好きなんだ。客の目が寄るのも、息を止めるのも、自分の声で一列目の婆さんが泣くのも、全部知ってる。そういうのを知っちまった女が、何をして静かに暮らすんだい」


 省吾は答えなかった。


 答えられなかったと言ってもよかった。なぜなら、その言葉の中に、自分にも少し似たものを聞いたからだ。

 自分だって、文を書く時や、人の建前をひとことで剥がした時のあのわずかな手応えを知っている。それを知った人間は、真っ当な勤めや穏やかな日々へ素直に戻れぬ。

 戻れぬくせに、戻れぬ自分を嫌う。


「お前も似たような顔してるよ」と菊栄が言った。


「何が」


「ここにいちゃいけない顔。なのに、時々こういう所へ来ると、少しだけ息がつける顔だ」


「勝手なことを言うな」


「図星かい」


「知らん」


 菊栄は笑った。その笑いはもう華やかではない。夜更けの裏口で、化粧を落とした女がする笑いだった。


「学士様、あんたと一緒にどこか行ったら、三日で喧嘩だね」


「三日も保たん」


「違いない」


 二人とも少し笑った。

 笑って、それきり黙った。黙っているあいだ、遠くの小屋の中から、片づけをする足音がかすかに聞こえる。


 やがて菊栄が煙草を捨てて言った。


「それでも、今夜は少し気分がよかったよ。紙に書かれたからって、世の中は変わらない。拍手があったからって、明日の帳場が優しくなるわけでもない。でも、少しはね」


「そうか」


「そうだよ」


 彼女は省吾の顔を覗きこんだ。


「学士様は、今夜何か散財したかい」


「金か」


「それでもいいし、意地でもいい」


 省吾は少し考えた。


「少しな」


「何を」


「知らん」


 菊栄はそれに頷いた。


「それでいいさ。夏の夜なんてのは、たいてい後に残らないものへ使うんだ」


 その言い方が、妙に胸へ残った。金のことだけではない。若さも、拍手も、今夜の機嫌も、皆そうだと言っている。


 路地の向こうで、岡島が誰かを呼ぶ声がした。菊栄はそちらを振り向き、すぐ顔を戻した。


「じゃあ、あたしは戻るよ」


「まだ帰らんのか」


「明日の仕込みがある。看板は、拍手のあとでも先に帰れないのさ」


「馬鹿だな」


「知っている」


 そう言って菊栄は、いつものように軽く片手を挙げた。


「学士様」


「何だ」


「今度、文句を直す時は、もう少し女を高く売っとくれ」


「元が高いならな」


「そこは嘘でも言うところだろ」


「出来ん」


「だろうね」


 彼女は笑って小屋の中へ戻っていった。


 省吾はその背を見送った。引き止める気はなかったし、引き止めてどうなるものでもない。

 菊栄は舞台のほうへ戻る女で、自分はそこに残る男ではない。分かりきったことほど、別れの言葉が要らぬ。


 表へ出ると、提灯の灯がまだ少し残っていた。

 今夜の客の名残りのように、赤い紙がゆるく揺れている。道にはもう人がまばらで、空には夏の終わりの薄い雲が流れていた。


 省吾は杖をつき、ゆっくり歩いた。


 後ろでは、芝居小屋の中から拍手がもう一度だけ起こった。

 多分、片づけの最中に役者の誰かが何かをやらかして、皆が笑ったのだろう。舞台の拍手ではない。けれど、人の集まる場所には、そういう小さな音が最後まで残る。


 省吾は振り向かなかった。


 ただ、夜の町へ出る前に一度だけ立ち止まり、煙草へ火をつけた。火はすぐついた。今夜はそれだけでも、少し運がよい気がした。

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