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第十三章 縁談の座敷

 芝居小屋の夜が二、三度続いたあとで、省吾はまた坂下の家へよくいるようになった。


 いるからといって、落ち着いたわけではない。むしろ、外へ出ていた時のほうが人間は少し素直になるのかもしれない。

 本郷の店先へ戻ると、彼はまたいつも通り、帳場の端に腰を落ち着け、客の顔を見ては余計なところだけを拾い、千代に睨まれ、庄作に静かに刺される。そういう日々の型へ、何事もなかったように戻っていた。


 ただ、京子を見る目だけが、前より少し細かくなっていた。


 女学校へ通う娘は、秋に近づくにつれてどこか輪郭が立ってくる。

 夏のあいだはまだ子供の顔が残っていたのに、九月の陽に変わる頃には、袴の裾のさばき方一つ、髪をまとめる指つき一つに、自分で自分を整えはじめる気配が出る。

 京子にもそれがあった。本人はまだ気づいていないが、周りの大人はそういう時期を嗅ぎ分ける。


 その「周り」の一人が、案の定、親類であった。


 ある午後、店が少し暇になった頃、千代の従姉にあたるお滝という女が、艶のある帯を締めてやって来た。

 こういう女は用事のない日にわざわざ来ない。戸口へ入る時の顔で、もう半分は分かる。


「まあ、千代さん、相変わらず忙しそうねえ」


「そうでもないのよ」と千代が言った。「暇な日に限って、ろくな客が来ないからね」


 お滝はその嫌味を嫌味と取らぬ顔で笑い、帳場の前へ腰を下ろした。省吾は奥の小机で新聞を開いていたが、紙の向こうから声だけは聞いている。


「京子さん、すっかりお嬢さんらしくなって」


 と言った時、お滝の声の底に、もう本題が混じっていた。


 京子はちょうど学校から戻ったところで、風呂敷を抱えたまま会釈した。


「叔母さま」


「お勉強ばかりでもお体によくないわよ。でも、今どきは学のある娘さんが喜ばれるのねえ」


 省吾は新聞を一枚めくった。


「誰にだ」


 お滝が少し顔を引きつらせた。


「あら、省吾さんもいらしたの」


「見れば分かるだろう」


「そうねえ、相変わらず」


「便利な言葉だな」


 千代がすぐに口を挟んだ。


「あんたは黙っておいで」


「黙ってても、俺は聞こえる」


「聞こえても、いちいち混ぜ返さなくていいのよ」


 庄作が奥から茶を運んできて、お滝の前へ置いた。こういう時、余計な火花をすぐには散らさぬのが庄作のやり方である。


 お滝は茶に口をつけてから、ようやく本題を出した。


「実はね、ちょっとしたご縁がありまして」


 千代の肩が、わずかに固くなるのを省吾は見た。母親というものは、娘の縁談の気配だけで、顔のどこかが変わる。


「先方は?」と庄作が訊く。


「本郷ではないのだけれど、向こうは堅実なご一家よ。お父上は役所勤めで、息子さんは今、銀行のほうに入っていてね。真面目で、お酒も過ぎず、変な道楽もない。何より、お母さまが『学のある娘さんがよろしい』って」


 京子は風呂敷を持ったまま立っていたが、その指が少し動いた。省吾はそこだけ見た。顔よりも、そういうところへ先に出る。


 千代はまだ曖昧な顔をしている。


「京子には、まだ学校があるよ」


「もちろん、すぐどうこうという話じゃないの。まずはお顔合わせだけでも、って」


 省吾は新聞をたたんだ。


「扱いやすい娘が欲しいんだろう」


 お滝が即座に振り向いた。


「何ですって」


「学がある、だろ。そういう家の言う学ってのは、大抵、客の前で恥をかかない程度のことだ」


「まあ……」


「余計なことを」と千代が言った。


「余計じゃない」と省吾は机の上へ新聞を置いた。「役所勤めの親、銀行の息子、学のある娘。見栄えがいい。座敷へ出しても話が通る。だが、自分で考える頭まで要るとは言ってない」


 お滝は鼻白んだが、すぐに気を取り直した。


「そうやって何でも悪く取るのは、省吾さんの悪い癖よ。先方は本当に堅実なご家族で――」


「堅実は結構だ」


「だったら」


「だから余計に始末が悪い。遊び人ならまだ分かる。堅実な男が欲しがるのは、堅実に従う女だ」


 京子が、そこで初めて口を開いた。


「おじさま」


「何だ」


「まだ何も決まっていないのに」


「決まる前だから言ってるんだ」


 千代がきつい声で言った。


「もうおよし。お滝姉さん、悪く思わないでくださいよ。この人は、誰かが縁談と言うと、すぐこうなんです」


 お滝はぎこちなく笑った。


「まあ、身内の男親のようなお気持ちなのね」


「違うな」と省吾が言った。「俺は男親みたいに、相手の月給や家柄を先に見る趣味はない」


 庄作がそこで静かに言った。


「省吾君」


「何だ」


「今はそこまでだ」


 省吾は口を閉じた。庄作の言い方には、こういう時だけ妙に逆らいづらいところがある。


 話は一応その場で丸く収まったように見えた。

 お滝は先方の家の場所や、息子の勤め先や、仲立ちの親類の名などを一通り並べ、千代は曖昧に頷き、庄作は「一度考えさせてください」と言った。

 京子はただ座って聞いていたが、時々、返事の代わりに膝の上の手を少しきつく握っている。


 お滝が帰ると、店の中が急に静かになった。


 夕方の光が帳場へ斜めに入り、包み紙の角だけを明るくする。坂の下を人力車が一台通り、その音が遠ざかると、家の中には誰も何も言わぬ時間が少し続いた。


 最初に口を開いたのは千代だった。


「どうするかねえ」


 それは誰に向けたともつかぬ言い方だった。娘に向けたのであり、自分に向けたのであり、亭主へ向けたのでもあった。


 庄作が帳場のそろばんを脇へ寄せる。


「話を聞くだけ聞く手はある」


「そうだねえ……」


「嫌なら、そこで断ればいい」


 京子はまだ黙っている。省吾はその顔を見た。

 嫌とも、嫌でないとも言わぬ顔だった。そういう顔が、一番危ない。


「お前はどうなんだ」と彼は京子へ訊いた。


 千代がすぐ睨んだ。


「あんたは黙ってな」


「本人に聞いているんだ」


 京子は少し顔を上げた。


「私……まだ、よく分からないわ」


「嘘つけ」


 千代が顔をしかめる。


「省吾!」


 だが京子は、叔父のその言い方にむしろ逃げ場を失ったようだった。ごまかしが利かぬと知ると、娘は少しだけ正直になる。


「嫌だと言うほどでもないの」と彼女は静かに言った。「だって、まだお会いしてもいないし。でも、何だか、私のことじゃないみたいで……」


 その言い方が、思ったより真っ直ぐで、千代の顔からも少し色が引いた。


 庄作が穏やかに訊く。


「私のことじゃない、とは?」


 京子は考えながら言葉を選んだ。


「学がある娘がいい、とか、役所勤めのお父上とか、銀行の息子さんとか、そういう話ばかりで。私がその人と何を話すかとか、どういう人なのかとか、まだ何もないでしょう」


 省吾はそれを聞いて、新聞を持ち上げかけてやめた。


「ほらな」と彼は言った。


 千代は娘を見たまま言った。


「でもね、京子。女の縁談なんて、最初はそういうところから始まることもあるんだよ」


「そうかもしれないわ。でも……」


 京子はそこで少し口ごもった。少しだけ赤くなっている。


「でも、まだ学校もあるし、私は、もう少し――」


「勉強したいのか」と省吾が言った。


 京子は叔父のほうを見た。


「それもあるわ」


「それも、か」


「何よ、その言い方」


「他にもある顔だ」


 京子はむっとしたが、今度は否定しなかった。


 千代が小さく息をついた。


「お母さまも、お父さまも、別に明日にでも嫁に行けなんて言ってるんじゃないのよ。ただ、話を聞くくらいは……と思うだけで」


 それが本音だったろう。千代は娘を急いで手放したいのではない。

 だが、年頃になった娘へ縁談の一つも来ぬのは、それはそれで親として落ち着かぬ。世間というものは、話がある時はあるでうるさく、ない時はないでまた余計な顔をする。


 省吾は椅子から立ち上がった。


「好きにしろ」


 京子がすぐ言った。


「おじさまは、どう思うの」


「今言った」


「そうじゃなくて」


 省吾は少し黙ってから、店先の外へ目をやった。

 坂の向こうでは夕方の陽がだいぶ薄くなっている。ちょうどそういう時間だった。人の気が少し弱くなり、余計な本音が出る。


「会ってみりゃいい」と彼は言った。


 千代がほっとした顔をした。だが省吾は続けた。


「その代わり、最初から気に入られようとするな。向こうが“学のある娘”を見に来るなら、こっちは“どういう馬鹿か”を見ればいい」


「おじさま」


「馬鹿じゃないかもしれん。だが、違うなら見りゃ分かる」


 庄作が少し笑った。


「省吾君、それは助言としてはずいぶん偏ってるな」


「真っ当な助言なんぞ、そこらの親類がいくらでもするだろう」


 京子は叔父の顔を見た。嫌なことを言っているのはいつもの通りだ。だが今の言葉の底に、妙に自分の味方のようなものが混じっているのも分かったらしい。


「じゃあ……会うだけ会ってもいいのね」と彼女は言った。


「俺に聞くな」


「聞いていないわ。確認しただけよ」


「生意気だな」


「誰のせいだと思ってるの」


 千代がそのやり取りを見て、少しだけ口元を緩めた。庄作は帳場へ戻りながら、


「では、お滝さんには、まず顔合わせだけ、と返しておこう」


 と言った。


 話はそこで決まった。


 だが決まったあとで、省吾の腹の奥には、妙なざらつきが残った。

 会うだけならよい。理屈ではそう思う。だが会うだけと言いながら、世の中はそこから女の行く先をじわじわ固めてゆく。


 その夜、京子は珍しく自分から省吾の部屋へ来た。


 戸を少しだけ開けて、顔だけ覗かせる。


「おじさま」


「何だ」


「起きてる?」


「見れば分かる」


「入ってもいい?」


「もう入ってるだろう」


 京子は部屋へ入ってきた。省吾は机に向かっていたが、何か書いているわけでもない。行灯の灯が低く、机の上の本だけが黄ばんで見える。


 京子は少し迷ったあと、窓際の椅子へ腰を下ろした。


「私、変かしら」と彼女が言った。


「何が」


「縁談って聞いて、嫌だと言い切れないの」


「普通だ」


「でも、何だか気持ちが悪いの」


「それも普通だ」


 京子は黙った。そういう言い方をされると、安心するのか腹が立つのか分からぬ顔になる。


「お母さまたちは、悪気なんてないわ」と彼女が言った。


「知ってる」


「そうなの。悪気がないの。だから余計に、私、何て言えばいいか分からない」


 省吾はそこでようやく顔を上げた。


「悪気がないのが一番面倒なんだよ」


 京子はその言葉に、はっとしたように目を動かした。多分、それは彼女がまだうまく名づけられなかったものだった。


「おじさまも、そう思うのね」


「それが真実だからな」


「でも、お母さまにそう言うと、きっと悲しむわ」


「そうだろうな」


「じゃあ、どうすればいいの」


 省吾は少し考えた。考える顔をする時、この男はたいてい機嫌が悪そうに見える。


「会え」と彼は言った。「会って、自分で嫌なら嫌だと言え。相手がどれほど堅実でも、親がどれほど安心しても、自分で嫌だと思ったら、そこだけは嘘をつくな」


 京子は叔父の言葉をじっと聞いていた。行灯の灯が揺れて、その顔にまだ子供のようなところと、もう娘になりかけたところとが交互に見える。


「おじさまは」と京子が言った。「どうして、そういうことばかり、すぐ分かるの」


「分かるんじゃない……嫌なだけだ」


「何が」


「人が、自分で決める前に話が進むのが」


 京子はしばらく黙ってから、小さく頷いた。


「ありがとう」


「礼を言うな」


「どうして」


「気味が悪い」


 京子は少し笑った。笑ってから、立ち上がり、戸口で振り返る。


「でも、もし相手の方が本当にいい人だったら?」


「それなら、お前が気に入るだろう」


「それだけ?」


「それで足りる」


 京子は今度ははっきり笑った。


「おじさま、そういう時だけ、ずいぶん簡単に言うのね」


「簡単じゃない。面倒だからこそ、そこしか残らん」


「ひどい」


「知ってる」


 京子が去ったあと、省吾はしばらく机の前に座ったまま動かなかった。

 外では夜が少しずつ深くなり、坂を上る足音も減っていく。どこかの家で風呂を使う音がして、遠くで猫が鳴いた。


 会うだけならよい。


 そう思いながら、彼はなぜだか妙に苛立っていた。

 京子の問題だからというだけではない。人が人を「堅実」「安心」「学がある」といった言葉で包みはじめる時、そこにはたいてい、生きている本人の顔より先に、座敷へ並べた時の都合が出る。

 そのことを知っているからこそ、会うだけの話ですら、最初から気に食わないのだった。


 行灯の灯の先で、壁に自分の杖の影が細く伸びていた。


 その影を見ていると、なぜだか、まだ来てもいない相手の男の顔が、もう少しだけ嫌いになった。

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