第十四章 叔父と姪
顔合わせの日は、朝から妙にきれいに晴れた。
こういう日の空は、かえって人を落ち着かなくさせる。曇っていれば、誰かが少し顔色を悪くしていても天気のせいに出来るし、雨なら道中の気疲れに話を預けられる。
だが、空が高く澄み、髪を撫でる風までが節度を知っているような日は、座敷の中の人間だけが余計に裸になる。
相手方は、本郷からそう遠くない親類の家を借りて来ることになった。
店へ直接通すのはどうも、というのが千代の考えであり、庄作もそれに従った。
京子は朝から着物を替えさせられ、髪もいつもより几帳面に結われた。
娘は鏡の前に座りながら、一度も「嫌だ」とは言わなかった。言わない代わりに、帯を締められるたび、指先だけが少し冷たくなっていた。
省吾はそんな支度の気配を、わざと遠くから眺めていた。
奥の間で千代が京子の襟を直し、
「笑いすぎるんじゃないよ。けれど、黙ってばかりでも駄目だよ」
と言い、京子が
「分かってるわ」
と答える。そういうやり取りが障子越しに聞こえるたび、省吾の機嫌は少しずつ悪くなった。
悪くなる理由は自分でもよく分からない。ただ、こうして女が一人、まだ何も決まっていないうちから、誰かに見られるための顔へ整えられていくのを見るのは、昔から気に入らなかった。
庄作は羽織を着て、いつもより口数が少ない。千代は忙しそうに動き回りながら、その実、娘の顔から一寸も目を離していない。
京子だけが、支度の済んだあとでぽつんと空いたように見えた。
その時、省吾が部屋の入口へ立った。
「まるで売り物だな」
千代が振り向く。
「あんたは今日、何も言わなくていいから」
「ただ見たままを言っただけだろう」
「その見たままが余計なのよ」
京子は鏡越しに叔父を見た。今日は嫌味を言われれば腹も立つが、黙っていられるのもまた落ち着かなかったらしい。
「おじさま」と彼女が言った。「似合わない?」
「似合うさ」
省吾はそれだけ言った。
京子は一瞬だけ驚いたような顔をしたが、すぐ口元を引き結んだ。素直に礼を言うと負ける気がしたのだろう。
親類の家は、寺町を少し入ったところにある静かな屋敷だった。
手入れは行き届いているが、金持ちの派手さではなく、長く同じ家がそこにある時の古び方をしている。玄関先の石がよく磨かれ、座敷の襖には季節の花鳥が描かれていた。
こういう場所で縁談が進む時、大抵はもう半分ほど話が勝手に整えられている。
相手方はすでに来ていた。
母親と息子。
父親は役所の用で遅れるということだったが、結局その日、最後まで顔を見せなかった。
息子の名は村瀬敬之という。二十代の後半、背丈はまずまず、額の生え際が少し几帳面すぎるほど整っている。銀行勤めらしく、袴も羽織も過不足なく、草履の鼻緒まで綺麗だった。顔立ちが悪いわけではない。
ただ、よくある「堅実な青年」の顔を、本人が少し意識しすぎているところがあった。
母親は声の高い、愛想のよい女だった。笑うたびに目が細くなり、言葉の端々に「うちは分別のある家です」という匂いがする。
挨拶が一通り済み、茶が出て、季節の菓子が並び、話が天気や町のことから始まる。
その間、京子はきちんと座っていた。頷く時の角度も、茶碗を持つ手も、千代に仕込まれた通りに整っている。
省吾はその整い方に腹が立った。腹が立つのは京子にではなく、そういうふうに振る舞えてしまうことに対してだった。
村瀬の母が言う。
「京子さんは、女学校で英語もなさるんですって?」
「少しだけです」と京子が答える。
「まあ、今どきのお嬢さんはお進みになっていて羨ましいこと。うちの敬之など、書物は仕事のものばかりで」
敬之が照れたように笑った。
「仕事柄、数字ばかり見ております」
「それはそれで結構だ」と省吾が言った。
皆の目がそちらへ向く。
「数字は嘘をつかん。人間よりはましだ」
村瀬の母は少し笑って、
「お義兄さまでいらっしゃいますの?」
と言った。
「叔父だ」と省吾は答えた。
「まあ。失礼いたしました。京子さんに学問の気風がおありなのも分かりますわ」
「学問の気風、か」と省吾が言った。「便利な言葉だな」
庄作が小さく咳払いした。千代は横で明らかに顔を強ばらせている。
敬之は、こういう手合いには会社でも会うのかもしれぬ。すぐに気を取り直して言った。
「京子さんは、卒業後も何かお続けになるおつもりですか」
京子は少し間を置いた。答えを探しているのではない。何と答えるのがこの場にふさわしいか、一瞬だけ考えたのである。
「まだ、はっきりとは」と彼女は言った。「もう少し学びたい気持ちはありますけれど」
村瀬の母がすぐに柔らかく笑った。
「それは結構ですわ。でも、女は学びすぎても、使い道が難しいものねえ」
千代が曖昧に笑い、庄作が茶を口へ運ぶ。京子の指が膝の上で少し固くなる。省吾はそこを見た。
敬之は母の言葉を少し整えるように、
「いえ、私は、学のある方はよいと思っています」
と言った。
「そうか」と省吾が言う。「どのへんが」
敬之は微かに眉を上げた。
「どのへん、とは」
「学のある女がよい理由だ」
村瀬の母が笑って取りなそうとした。
「まあ、叔父さまはお厳しいのね」
だが省吾はそちらを見なかった。敬之の顔だけを見ている。
「話が通じるから、でしょうか」と敬之は言った。「今は時代も変わってきておりますし、まるで何も分からない方よりは」
「何が分かればいい」
「それは……世間のことや、子供の教育や」
「つまり、人前で恥をかかない程度には、ということだな」
座敷の空気が少し薄くなった。
敬之は、まだ笑顔を崩さない。
「そういう言い方をなさらなくても」
「じゃあ、お前は京子に何を求めてる」
「省吾」と千代が低く言った。
「黙っておいで」
「黙らん」
庄作も今度ばかりは口を挟んだ。
「今日はそういう場じゃない」
「そういう場だから聞いてる」
京子はもう完全に笑っていなかった。俯きもしない。叔父の声が大きくなるたび、むしろ顔が白くなっていく。
敬之は、ここで引くと弱く見えると思ったのだろう。少しだけ胸を張って答えた。
「私は、家庭をきちんと守れる方がよいと思っています。学問も、行き過ぎぬなら結構です。ですが、やはり婦人には本分というものが――」
「ほらな」と省吾が言った。
村瀬の母が顔色を変える。
「まあ」
「学があるのがいいんじゃない。学があっても、本分を弁えて、自分より前へ出てこない女がいいんだろう」
「叔父様」と敬之が少し強い声を出した。「私はそこまで失礼なことは申しません」
「申してるさ。言葉を綺麗に並べてるだけだ」
「あなたは、少し思い込みが過ぎる」
「そうか。じゃあ聞くが、京子が卒業後も勉強を続けたいと言ったら、お前はどうする」
敬之はすぐには答えなかった。答えられぬ沈黙は、それだけで半分の返事になる。
村瀬の母が口を開いた。
「女に学問があるのは結構でも、ほどほどが一番ですわ。家庭に入れば、また別の務めも――」
「それだ」
省吾の声は低かったが、座敷じゅうへすっと通った。
「お前方が欲しいのは、京子じゃない。学のある娘という飾りだ。家へ置いても邪魔にならず、客へ出しても体裁がいい。そういうものだ」
千代が立った。膝が畳へ強く触れた音がした。
「もうおよし!」
その声で、京子がはっと顔を上げた。
村瀬の母は扇子を握りしめ、敬之は口元を固くしている。庄作だけが座ったまま、省吾を見ていた。その目は静かだったが、かなり怒っていた。
「失礼した」と庄作が相手方へ言った。「今日はここまでにさせていただきたい」
村瀬の母は、もう愛想の笑みを作れなかった。
「……ずいぶん率直なお家ですこと」
「そうだ」と省吾が言った。「座敷だけ立派に整えて、腹の中を隠す家よりはましだ」
そこまで行くと、庄作がはっきり言った。
「省吾君、もう黙りなさい」
その声に、省吾もさすがに口を閉じた。
相手方はそのまま帰った。
母親は最後まで不快を顔へ出さぬようにしていたが、襖の際で裾を返す動きに、侮辱された女の硬さがあった。
敬之は一度だけ京子のほうを見た。
怒っているのではない。
むしろ、自分がなぜここでこんな目に遭うのか分からぬ顔だった。そういう顔をする男だと、最後に省吾は確信した。
客が去ると、座敷の中はしんとした。
菓子皿の菓子だけが半分残り、湯呑の茶は冷え始めている。さっきまで「良縁」らしい顔をしていたものが、いまはただ、後片づけの要る散らかりに見えた。
千代が真っ先に省吾へ向き直った。
「あんた、何てことをしてくれたんだい!」
「何が」
「何がじゃないよ! あれじゃ話がどうなるかも分からないじゃないか」
「分からなくて結構だ」
「結構なもんか!」
千代の声は本当に怒っていた。娘を守りたい気持ちもある。だが同時に、こういう座敷の恥は、女には別の形で残る。そのことも知っている怒りだった。
「話を聞くだけだったんだよ」と彼女は言った。「合う合わないは、そのあとで考えればよかったんだ。どうして最初から全部ひっくり返すんだい」
「最初から見えてるからだ」
「見えてたって、黙る時があるだろう!」
「ない」
「あるんだよ!」
庄作が静かに言った。
「千代さん」
それで千代は一度口を噤んだが、怒りは消えない。
庄作は省吾へ向き直った。
「君の言ったことが、全部間違いだとは言わん」
省吾は黙っていた。庄作がこういう前置きをする時は、大抵その先にもっと痛いことが来る。
「だが、君はいつも、相手を剥がすことばかり急ぐ」と庄作は言った。「人の本音が見えたからといって、その場で全部を机の上へひろげる必要があるとは限らない」
「机の上に出さなきゃ、皆知らん顔をする」
「そうだろう。だが、そのあと片づける者もいるんだ」
省吾の顔がわずかに動いた。
「お前は、またそうやって残る者の理屈を言う」
そう反論するが、省吾は庄作の目を見ようとはしなかった。
「理屈じゃない。営みだよ」
庄作の声は穏やかだった。その穏やかさが、かえって堪える。
「京子は、これからもこの辺りで生きる。千代さんもそうだ。君は今日、言うだけ言って帰れるが、後のことはその残る者たちが受ける」
省吾は返事をしなかった。返事をすると、多分、余計に狭いことまで口へ出る。
京子はそのあいだ、ずっと座ったままだった。白かった顔が少しずつ色を取り戻し、それと一緒に、別の感情も戻ってきたらしい。彼女は急に立ち上がると、省吾を見た。
「おじさま、ひどいわ」
その一言だけだったが、きつかった。
「私は、まだ何も決めていなかったのに。会ってみなければ分からないこともあるでしょう。どうして、ああいうふうに……」
そこで言葉が詰まった。怒っているのか、恥ずかしいのか、自分でもまだ分からぬのだろう。だが「ひどい」という気持ちだけは本物だった。
省吾は京子を見た。
さっきの座敷で一番嫌な立場へ立たされたのは、京子なのだから。その言葉も当然だと思った。
「そうだな」と省吾は言った。
京子は、その返事がもっと尖って返ってくると思っていたらしく、少し怯んだ。
「謝る気なんてないくせに」
「ないな」
「だったら」
「だが、酷いということは知ってる」
京子はそこで、泣きそうにも見えたが泣かなかった。泣くと余計に子供扱いされると思ったのかもしれない。
千代が言った。
「もうよしなさい、京子。着替えておいで」
京子は唇を噛み、何も言わずに座敷を出ていった。
裾が障子の際でわずかに引っかかり、その小さな乱れが、かえって今の娘の動揺を見せた。
その夜、家の空気は重かった。
夕飯の膳は出たが、誰もあまり喋らない。
千代は必要なことだけを言い、庄作は黙って飯を食べ、京子は食べたのか食べぬのか分からぬほど箸が進まない。
省吾もまた、何か言えば悪くなると分かっている時だけは、意外なくらい静かになる。
食後、千代が帳場の戸を閉める音が、いつもより強かった。庄作は遅くまで帳面をつけていたが、やがて灯を落とし、奥へ引いた。
京子が省吾の部屋へ来たのは、そのあとだった。
夜はもう深く、窓の外の坂も静まっている。行灯の火が低く、机の上の本の背だけが細く光っていた。
京子は戸を少し開けたまま立っていたが、入ってくる顔は、昼の怒りとは違っていた。
「まだ起きてるのね」
「お前もだろう」
京子は部屋へ入った。昼の着物はもう脱いでいる。いつもの普段着に戻っているのに、その顔だけが今日一日で少し大人びて見えた。
「お母さま、まだ怒ってるわ」と彼女は言った。
「知っているさ」
「お父さまは、怒ってるけど、あんまり怒った顔をなさらないから、余計に怖い」
「それも、知っている」
京子は少し笑いかけて、やめた。それから、しばらく立ったまま机の端を見ていたが、やがてぽつりと言った。
「……でも、ほっとしたの」
省吾は顔を上げた。
「何に」
「向こうの方が、おじさまに言われたとき、少しも怒らないで、ただ変な顔をしたでしょう」
「してたな」
「私、あれを見たときに、ああ、この人は駄目だって思ったの」
京子は自分の言葉を確かめるように、ゆっくり続けた。
「怒るならまだ分かるの。恥をかかされたって。でも、あの人は、自分が何を言ったか分からない顔をしたわ。お母さまが言うみたいに、堅実で、悪い人じゃないのかもしれない。でも、ああいう人とずっと一緒にいたら、私、息が詰まると思った」
省吾は何も言わなかった。言わなくても、京子がもう自分で答えに辿り着いたことは分かった。
「だから」と京子が言った。「昼間はあんなことを言ったけど……半分くらいは、ありがとう」
「半分か」
「全部は悔しいもの」
「生意気だな」
「おじさまにだけは言われたくないわ」
京子はそこで少しだけ笑った。笑うと、ようやく昼の緊張が剥けて、元の娘の顔に戻る。
「でもね」と彼女は言った。「あんなふうに全部ひっくり返さなくてもよかったと思うの」
「そうかもしれん」
「そうよ」
「俺は、ああいう男が嫌いなんだ」
「知ってる」
「お前を“学のある娘”で見てた」
「それも分かったわ」
「ならいい」
「よくないわよ。お母さまたちが大変だったもの」
省吾はそこで、机の上の本を閉じた。京子の顔を見る。
「勉強しろ」と彼は言った。
京子が瞬きをした。
「何よ、急に」
「嫁に行くなとは言わん」
省吾は、こういうことを言う時だけ、妙に不器用になる。言葉を整えるほど嘘っぽくなる気がして、かえって乱暴なままにする。
「だが」と彼は言った。「人に決められる前に、自分で考えろ。そのために、もう少し勉強しろ。頭を使え。相手の顔色で、自分の行く先を決めるな」
京子はじっと聞いていた。行灯の火がその瞳へ小さく映る。
「それ、おじさまが言うの」
「何だ」
「だって、おじさま、自分の行く先を、いつも喧嘩で決めてるじゃない」
省吾は思わず口元を歪めた。笑ったのではない。してやられた時の顔だった。
「お前、本当に生意気になったな」
「誰のせいだと思ってるの」
「俺じゃない」
「そういうところも、そっくり」
京子はそこで一歩下がり、戸口のところで止まった。
「でも、分かったわ。私、まだ学校をやめたくない。ちゃんとそう言う」
「言え」
「お母さまが悲しんでも?」
「泣かせろ。どうせそのうち機嫌が直る」
「ひどい」
「知っている」
京子は最後に、昼とは違う顔で叔父を見た。軽蔑でもなく、憧れでもなく、困ったものを見る目だった。だがその困ったものに、少し救われてもいる目だった。
「おやすみなさい」と彼女は言った。
「ああ」
京子が出て行くと、部屋にまた夜の静けさが戻った。
省吾はしばらく座っていたが、やがて行灯の火を少し低くした。窓の外では、坂の下を誰かが遅く帰る足音が一つ通ってゆく。長くは続かない音だった。
机の横の杖が、壁へ細い影を伸ばしていた。その影は揺れもせず、ただそこにある。省吾はそれを見てから、ふいに、京子が「私のことじゃないみたい」と言った昼の声を思い出した。
あれをもう一度言わせずに済んだなら、それだけで今日はましだったのかもしれぬ。
そう思ったところで、誰に礼を言うでもない。
省吾は灯を吹き消した。暗い部屋の中で、杖の影だけが先に消えた。




