表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

14/18

第十四章 叔父と姪

 顔合わせの日は、朝から妙にきれいに晴れた。


 こういう日の空は、かえって人を落ち着かなくさせる。曇っていれば、誰かが少し顔色を悪くしていても天気のせいに出来るし、雨なら道中の気疲れに話を預けられる。

 だが、空が高く澄み、髪を撫でる風までが節度を知っているような日は、座敷の中の人間だけが余計に裸になる。


 相手方は、本郷からそう遠くない親類の家を借りて来ることになった。

 店へ直接通すのはどうも、というのが千代の考えであり、庄作もそれに従った。

 京子は朝から着物を替えさせられ、髪もいつもより几帳面に結われた。

 娘は鏡の前に座りながら、一度も「嫌だ」とは言わなかった。言わない代わりに、帯を締められるたび、指先だけが少し冷たくなっていた。


 省吾はそんな支度の気配を、わざと遠くから眺めていた。


 奥の間で千代が京子の襟を直し、


「笑いすぎるんじゃないよ。けれど、黙ってばかりでも駄目だよ」


 と言い、京子が


「分かってるわ」


 と答える。そういうやり取りが障子越しに聞こえるたび、省吾の機嫌は少しずつ悪くなった。

 悪くなる理由は自分でもよく分からない。ただ、こうして女が一人、まだ何も決まっていないうちから、誰かに見られるための顔へ整えられていくのを見るのは、昔から気に入らなかった。


 庄作は羽織を着て、いつもより口数が少ない。千代は忙しそうに動き回りながら、その実、娘の顔から一寸も目を離していない。

 京子だけが、支度の済んだあとでぽつんと空いたように見えた。


 その時、省吾が部屋の入口へ立った。


「まるで売り物だな」


 千代が振り向く。


「あんたは今日、何も言わなくていいから」


「ただ見たままを言っただけだろう」


「その見たままが余計なのよ」


 京子は鏡越しに叔父を見た。今日は嫌味を言われれば腹も立つが、黙っていられるのもまた落ち着かなかったらしい。


「おじさま」と彼女が言った。「似合わない?」


「似合うさ」


 省吾はそれだけ言った。

 京子は一瞬だけ驚いたような顔をしたが、すぐ口元を引き結んだ。素直に礼を言うと負ける気がしたのだろう。


 親類の家は、寺町を少し入ったところにある静かな屋敷だった。

 手入れは行き届いているが、金持ちの派手さではなく、長く同じ家がそこにある時の古び方をしている。玄関先の石がよく磨かれ、座敷の襖には季節の花鳥が描かれていた。

 こういう場所で縁談が進む時、大抵はもう半分ほど話が勝手に整えられている。


 相手方はすでに来ていた。


 母親と息子。

 父親は役所の用で遅れるということだったが、結局その日、最後まで顔を見せなかった。


 息子の名は村瀬敬之という。二十代の後半、背丈はまずまず、額の生え際が少し几帳面すぎるほど整っている。銀行勤めらしく、袴も羽織も過不足なく、草履の鼻緒まで綺麗だった。顔立ちが悪いわけではない。

 ただ、よくある「堅実な青年」の顔を、本人が少し意識しすぎているところがあった。


 母親は声の高い、愛想のよい女だった。笑うたびに目が細くなり、言葉の端々に「うちは分別のある家です」という匂いがする。


 挨拶が一通り済み、茶が出て、季節の菓子が並び、話が天気や町のことから始まる。

 その間、京子はきちんと座っていた。頷く時の角度も、茶碗を持つ手も、千代に仕込まれた通りに整っている。

 省吾はその整い方に腹が立った。腹が立つのは京子にではなく、そういうふうに振る舞えてしまうことに対してだった。


 村瀬の母が言う。


「京子さんは、女学校で英語もなさるんですって?」


「少しだけです」と京子が答える。


「まあ、今どきのお嬢さんはお進みになっていて羨ましいこと。うちの敬之など、書物は仕事のものばかりで」


 敬之が照れたように笑った。


「仕事柄、数字ばかり見ております」


「それはそれで結構だ」と省吾が言った。


 皆の目がそちらへ向く。


「数字は嘘をつかん。人間よりはましだ」


 村瀬の母は少し笑って、


「お義兄さまでいらっしゃいますの?」


 と言った。


「叔父だ」と省吾は答えた。


「まあ。失礼いたしました。京子さんに学問の気風がおありなのも分かりますわ」


「学問の気風、か」と省吾が言った。「便利な言葉だな」


 庄作が小さく咳払いした。千代は横で明らかに顔を強ばらせている。


 敬之は、こういう手合いには会社でも会うのかもしれぬ。すぐに気を取り直して言った。


「京子さんは、卒業後も何かお続けになるおつもりですか」


 京子は少し間を置いた。答えを探しているのではない。何と答えるのがこの場にふさわしいか、一瞬だけ考えたのである。


「まだ、はっきりとは」と彼女は言った。「もう少し学びたい気持ちはありますけれど」


 村瀬の母がすぐに柔らかく笑った。


「それは結構ですわ。でも、女は学びすぎても、使い道が難しいものねえ」


 千代が曖昧に笑い、庄作が茶を口へ運ぶ。京子の指が膝の上で少し固くなる。省吾はそこを見た。


 敬之は母の言葉を少し整えるように、


「いえ、私は、学のある方はよいと思っています」


 と言った。


「そうか」と省吾が言う。「どのへんが」


 敬之は微かに眉を上げた。


「どのへん、とは」


「学のある女がよい理由だ」


 村瀬の母が笑って取りなそうとした。


「まあ、叔父さまはお厳しいのね」


 だが省吾はそちらを見なかった。敬之の顔だけを見ている。


「話が通じるから、でしょうか」と敬之は言った。「今は時代も変わってきておりますし、まるで何も分からない方よりは」


「何が分かればいい」


「それは……世間のことや、子供の教育や」


「つまり、人前で恥をかかない程度には、ということだな」


 座敷の空気が少し薄くなった。


 敬之は、まだ笑顔を崩さない。


「そういう言い方をなさらなくても」


「じゃあ、お前は京子に何を求めてる」


「省吾」と千代が低く言った。


「黙っておいで」


「黙らん」


 庄作も今度ばかりは口を挟んだ。


「今日はそういう場じゃない」


「そういう場だから聞いてる」


 京子はもう完全に笑っていなかった。俯きもしない。叔父の声が大きくなるたび、むしろ顔が白くなっていく。


 敬之は、ここで引くと弱く見えると思ったのだろう。少しだけ胸を張って答えた。


「私は、家庭をきちんと守れる方がよいと思っています。学問も、行き過ぎぬなら結構です。ですが、やはり婦人には本分というものが――」


「ほらな」と省吾が言った。


 村瀬の母が顔色を変える。


「まあ」


「学があるのがいいんじゃない。学があっても、本分を弁えて、自分より前へ出てこない女がいいんだろう」


「叔父様」と敬之が少し強い声を出した。「私はそこまで失礼なことは申しません」


「申してるさ。言葉を綺麗に並べてるだけだ」


「あなたは、少し思い込みが過ぎる」


「そうか。じゃあ聞くが、京子が卒業後も勉強を続けたいと言ったら、お前はどうする」


 敬之はすぐには答えなかった。答えられぬ沈黙は、それだけで半分の返事になる。


 村瀬の母が口を開いた。


「女に学問があるのは結構でも、ほどほどが一番ですわ。家庭に入れば、また別の務めも――」


「それだ」


 省吾の声は低かったが、座敷じゅうへすっと通った。


「お前方が欲しいのは、京子じゃない。学のある娘という飾りだ。家へ置いても邪魔にならず、客へ出しても体裁がいい。そういうものだ」


 千代が立った。膝が畳へ強く触れた音がした。


「もうおよし!」


 その声で、京子がはっと顔を上げた。

 村瀬の母は扇子を握りしめ、敬之は口元を固くしている。庄作だけが座ったまま、省吾を見ていた。その目は静かだったが、かなり怒っていた。


「失礼した」と庄作が相手方へ言った。「今日はここまでにさせていただきたい」


 村瀬の母は、もう愛想の笑みを作れなかった。


「……ずいぶん率直なお家ですこと」


「そうだ」と省吾が言った。「座敷だけ立派に整えて、腹の中を隠す家よりはましだ」


 そこまで行くと、庄作がはっきり言った。


「省吾君、もう黙りなさい」


 その声に、省吾もさすがに口を閉じた。


 相手方はそのまま帰った。

 母親は最後まで不快を顔へ出さぬようにしていたが、襖の際で裾を返す動きに、侮辱された女の硬さがあった。

 敬之は一度だけ京子のほうを見た。

 怒っているのではない。

 むしろ、自分がなぜここでこんな目に遭うのか分からぬ顔だった。そういう顔をする男だと、最後に省吾は確信した。


 客が去ると、座敷の中はしんとした。


 菓子皿の菓子だけが半分残り、湯呑の茶は冷え始めている。さっきまで「良縁」らしい顔をしていたものが、いまはただ、後片づけの要る散らかりに見えた。


 千代が真っ先に省吾へ向き直った。


「あんた、何てことをしてくれたんだい!」


「何が」


「何がじゃないよ! あれじゃ話がどうなるかも分からないじゃないか」


「分からなくて結構だ」


「結構なもんか!」


 千代の声は本当に怒っていた。娘を守りたい気持ちもある。だが同時に、こういう座敷の恥は、女には別の形で残る。そのことも知っている怒りだった。


「話を聞くだけだったんだよ」と彼女は言った。「合う合わないは、そのあとで考えればよかったんだ。どうして最初から全部ひっくり返すんだい」


「最初から見えてるからだ」


「見えてたって、黙る時があるだろう!」


「ない」


「あるんだよ!」


 庄作が静かに言った。


「千代さん」


 それで千代は一度口を噤んだが、怒りは消えない。


 庄作は省吾へ向き直った。


「君の言ったことが、全部間違いだとは言わん」


 省吾は黙っていた。庄作がこういう前置きをする時は、大抵その先にもっと痛いことが来る。


「だが、君はいつも、相手を剥がすことばかり急ぐ」と庄作は言った。「人の本音が見えたからといって、その場で全部を机の上へひろげる必要があるとは限らない」


「机の上に出さなきゃ、皆知らん顔をする」


「そうだろう。だが、そのあと片づける者もいるんだ」


 省吾の顔がわずかに動いた。


「お前は、またそうやって残る者の理屈を言う」


 そう反論するが、省吾は庄作の目を見ようとはしなかった。


「理屈じゃない。営みだよ」


 庄作の声は穏やかだった。その穏やかさが、かえって堪える。


「京子は、これからもこの辺りで生きる。千代さんもそうだ。君は今日、言うだけ言って帰れるが、後のことはその残る者たちが受ける」


 省吾は返事をしなかった。返事をすると、多分、余計に狭いことまで口へ出る。


 京子はそのあいだ、ずっと座ったままだった。白かった顔が少しずつ色を取り戻し、それと一緒に、別の感情も戻ってきたらしい。彼女は急に立ち上がると、省吾を見た。


「おじさま、ひどいわ」


 その一言だけだったが、きつかった。


「私は、まだ何も決めていなかったのに。会ってみなければ分からないこともあるでしょう。どうして、ああいうふうに……」


 そこで言葉が詰まった。怒っているのか、恥ずかしいのか、自分でもまだ分からぬのだろう。だが「ひどい」という気持ちだけは本物だった。


 省吾は京子を見た。

 さっきの座敷で一番嫌な立場へ立たされたのは、京子なのだから。その言葉も当然だと思った。


「そうだな」と省吾は言った。


 京子は、その返事がもっと尖って返ってくると思っていたらしく、少し怯んだ。


「謝る気なんてないくせに」


「ないな」


「だったら」


「だが、酷いということは知ってる」


 京子はそこで、泣きそうにも見えたが泣かなかった。泣くと余計に子供扱いされると思ったのかもしれない。


 千代が言った。


「もうよしなさい、京子。着替えておいで」


 京子は唇を噛み、何も言わずに座敷を出ていった。

 裾が障子の際でわずかに引っかかり、その小さな乱れが、かえって今の娘の動揺を見せた。


 その夜、家の空気は重かった。


 夕飯の膳は出たが、誰もあまり喋らない。

 千代は必要なことだけを言い、庄作は黙って飯を食べ、京子は食べたのか食べぬのか分からぬほど箸が進まない。

 省吾もまた、何か言えば悪くなると分かっている時だけは、意外なくらい静かになる。


 食後、千代が帳場の戸を閉める音が、いつもより強かった。庄作は遅くまで帳面をつけていたが、やがて灯を落とし、奥へ引いた。


 京子が省吾の部屋へ来たのは、そのあとだった。


 夜はもう深く、窓の外の坂も静まっている。行灯の火が低く、机の上の本の背だけが細く光っていた。

 京子は戸を少し開けたまま立っていたが、入ってくる顔は、昼の怒りとは違っていた。


「まだ起きてるのね」


「お前もだろう」


 京子は部屋へ入った。昼の着物はもう脱いでいる。いつもの普段着に戻っているのに、その顔だけが今日一日で少し大人びて見えた。


「お母さま、まだ怒ってるわ」と彼女は言った。


「知っているさ」


「お父さまは、怒ってるけど、あんまり怒った顔をなさらないから、余計に怖い」


「それも、知っている」


 京子は少し笑いかけて、やめた。それから、しばらく立ったまま机の端を見ていたが、やがてぽつりと言った。


「……でも、ほっとしたの」


 省吾は顔を上げた。


「何に」


「向こうの方が、おじさまに言われたとき、少しも怒らないで、ただ変な顔をしたでしょう」


「してたな」


「私、あれを見たときに、ああ、この人は駄目だって思ったの」


 京子は自分の言葉を確かめるように、ゆっくり続けた。


「怒るならまだ分かるの。恥をかかされたって。でも、あの人は、自分が何を言ったか分からない顔をしたわ。お母さまが言うみたいに、堅実で、悪い人じゃないのかもしれない。でも、ああいう人とずっと一緒にいたら、私、息が詰まると思った」


 省吾は何も言わなかった。言わなくても、京子がもう自分で答えに辿り着いたことは分かった。


「だから」と京子が言った。「昼間はあんなことを言ったけど……半分くらいは、ありがとう」


「半分か」


「全部は悔しいもの」


「生意気だな」


「おじさまにだけは言われたくないわ」


 京子はそこで少しだけ笑った。笑うと、ようやく昼の緊張が剥けて、元の娘の顔に戻る。


「でもね」と彼女は言った。「あんなふうに全部ひっくり返さなくてもよかったと思うの」


「そうかもしれん」


「そうよ」


「俺は、ああいう男が嫌いなんだ」


「知ってる」


「お前を“学のある娘”で見てた」


「それも分かったわ」


「ならいい」


「よくないわよ。お母さまたちが大変だったもの」


 省吾はそこで、机の上の本を閉じた。京子の顔を見る。


「勉強しろ」と彼は言った。


 京子が瞬きをした。


「何よ、急に」


「嫁に行くなとは言わん」


 省吾は、こういうことを言う時だけ、妙に不器用になる。言葉を整えるほど嘘っぽくなる気がして、かえって乱暴なままにする。


「だが」と彼は言った。「人に決められる前に、自分で考えろ。そのために、もう少し勉強しろ。頭を使え。相手の顔色で、自分の行く先を決めるな」


 京子はじっと聞いていた。行灯の火がその瞳へ小さく映る。


「それ、おじさまが言うの」


「何だ」


「だって、おじさま、自分の行く先を、いつも喧嘩で決めてるじゃない」


 省吾は思わず口元を歪めた。笑ったのではない。してやられた時の顔だった。


「お前、本当に生意気になったな」


「誰のせいだと思ってるの」


「俺じゃない」


「そういうところも、そっくり」


 京子はそこで一歩下がり、戸口のところで止まった。


「でも、分かったわ。私、まだ学校をやめたくない。ちゃんとそう言う」


「言え」


「お母さまが悲しんでも?」


「泣かせろ。どうせそのうち機嫌が直る」


「ひどい」


「知っている」


 京子は最後に、昼とは違う顔で叔父を見た。軽蔑でもなく、憧れでもなく、困ったものを見る目だった。だがその困ったものに、少し救われてもいる目だった。


「おやすみなさい」と彼女は言った。


「ああ」


 京子が出て行くと、部屋にまた夜の静けさが戻った。


 省吾はしばらく座っていたが、やがて行灯の火を少し低くした。窓の外では、坂の下を誰かが遅く帰る足音が一つ通ってゆく。長くは続かない音だった。


 机の横の杖が、壁へ細い影を伸ばしていた。その影は揺れもせず、ただそこにある。省吾はそれを見てから、ふいに、京子が「私のことじゃないみたい」と言った昼の声を思い出した。


 あれをもう一度言わせずに済んだなら、それだけで今日はましだったのかもしれぬ。


 そう思ったところで、誰に礼を言うでもない。


 省吾は灯を吹き消した。暗い部屋の中で、杖の影だけが先に消えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ