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第十五章 新聞社の階段

 縁談の座敷が壊れてから、家の中の空気は、二、三日のあいだ妙に静かだった。


 千代は京子に対してだけはいつも通りにしていたが、省吾には必要なことしか言わない。庄作はそれでも表向き穏やかだったが、帳場でそろばんを弾く指の音が、いつもより少しきつかった。

 京子は、母の機嫌と叔父の顔色のあいだを、うまく歩くことを覚えた娘のように、余計なことは口にせず、それでいて以前よりははっきり物を言うようになった。


 そういう家の内側のきしみを、外から来る人間はよく嗅ぎつける。


 佐伯が現れたのは、秋の匂いがようやく紙の端に触れはじめた頃だった。店先の帳面へ斜めの陽が差し、風が吹くと包み紙の角がかすかに鳴る、あの時間である。


「いるな」


 と佐伯が言う。


 省吾は帳場の脇の椅子にいた。煙草をくわえ、本を開いてはいるが、読んでいる顔ではない。


「見れば分かるだろう」


「結構。今度は、もう少しまともな話だ」


「お前がそう言うと、大抵はろくでもないことだ」


「前よりはましだ。少なくとも、嫁の話じゃない」


 千代が帳場からぴたりと顔を上げた。


「その言い方は嫌味かい」


「ち、違いますよ。嫌味ならもっと遠回しに言います」


「編集屋は、そういうところだけ利口だね」


 佐伯は笑って、店の中を見回した。それから省吾に向き直る。


「雑誌の口だ」


「書かん」


「まだ何も言ってない」


「雑誌と聞いた時点で、半分は断ってる」


「半分なら、残り半分で引き受けるだろう」


 佐伯は懐から封筒を出した。厚みがある。中には原稿依頼の紙だけでなく、何か別のものも入っていそうだった。


「知り合いの新聞社が、新しい雑誌を考えてる。時事だけじゃなく、世相や風俗も載せたいらしい。そこへ、少し刺のある随筆が欲しい」


「刺のある、ね」


「君にぴったりだろう」


「馬鹿にしてるな」


「褒めてるんだ」


 庄作が湯呑を置きながら言った。


「原稿なら、君にも向いているはずだ」


「そうやって俺を机へ縛ろうとするな」


「歩き回って人の気に障るよりは、紙の上で済ませてくれたほうが世の中のためだ」


 省吾は顔をしかめたが、過日の手前もあり、それに庄作の言うことにも一理あるので、ただ心のなかで腹を立てることに留めて置くしか出来なかった。


 佐伯はさらに言葉を重ねた。


「それに、そこには少し面白い女がいる」


 千代がすぐに眉を上げる。


「またその手かい」


「違いますよ。女だから面白いんじゃない。頭が少し出来るんです」


「なお悪いな」と省吾が言った。


「君が嫌がるということは、証左と言っても過言じゃないな」


 京子が奥から出てきて、話を聞くともなしに聞いていた顔で立ち止まった。


「どんな方なの」


「新聞社で雑務も取材も何でもやらされてる女だよ」と佐伯が言った。「橋本十和子という。まだ見習いみたいなものだが、字も読めるし、人の腹も少し読める」


「なおさら嫌だ」と省吾が言う。


 京子は少し笑った。


「おじさまが嫌がるなら、会ってみたい方だわ」


「お前は黙ってろ」


「どうせ行くのでしょう」


「行かん」


「じゃあ、明日の夕方までに帰っていらっしゃい」


 省吾は姪を睨んだが、京子はもう母の手伝いに戻っていた。最近、この娘は妙なところで人を先回りする。


 結局、翌日、省吾は佐伯に連れ出された。


 新聞社は神田の裏通りにあった。

 表へは店や料理屋が並んでいるが、その二階三階に、人の目に触れぬ顔で活字と紙の仕事場が潜んでいる。階段は狭く、上がる途中からインキの匂いがしてくる。その匂いは、書物屋の紙の匂いよりもっと生々しい。

 まだ世へ出る前の言葉が、鉄と油の中で揉まれている匂いである。


 一階から二階へ上がる最初の段で、省吾はすでに少し顔をしかめた。


「何だ」と佐伯が後ろから言う。


「階段が狭い」


「それは最初から見れば分かる」


「分かってても、嫌なものは嫌だ」


 古い建物の階段は、たいてい一段ごとの高さが揃わない。悪い足には、そういう不揃いがすぐに来る。

 平地よりも、こういう半端な段のほうが始末が悪い。佐伯は手を出しかけてやめた。前にそれで嫌な顔をされたことを覚えているのだろう。


 二階へ上がると、廊下の向こうで誰かが笑い、別の部屋では活字を拾う音がしていた。

 戸は開け放たれ、机がいくつも並び、誰もが何かを書き、何かを切り、誰かに怒鳴られている。

 整った学校とも、華やかな芝居小屋とも違う。もっと雑で、もっと慌ただしい。だがその雑さのぶんだけ、人の本音が壁へ直接沁みているような場所だった。


「嫌じゃない、という顔だな」と佐伯が言った。


「うるさい」


「ここは、皆うるさいぞ」


 実際そうだった。机を叩いて校正を急がせる声、原稿を取りに走る小僧、電話ではなく伝言の足音、煙草の煙、湯呑の茶渋。部屋の隅には、刷り上がったばかりの新聞が束になって積まれている。

 その表紙の字が、まだ世の中へ飛び出す前の熱を持っているように見えた。


「橋本君」と佐伯が声をかけた。


 窓際の机で、紙を切っていた女が顔を上げた。


 女、といっても、最初に目へ入るのは性別ではなかった。

 目の向きがまっすぐで、無駄に人へ媚びぬ顔だったからである。

 年は二十代の半ばくらいか。着物は地味で、帯も実用一点張りだが、髪のまとめ方だけはきちんとしている。

 美しいというより、崩れにくい顔立ちだった。そういう顔の女は、往々にして人に甘えぬ。


「こちら、前から話していた久世君だ」


 女は立ち上がった。


「橋本十和子です」


 声は低めで、よく通る。省吾を見ても、驚きもしなければ、妙に親切な顔もしない。ただ、一瞥の間に、背丈と杖と顔色と、それから多分、口の悪そうな目つきまで見たらしかった。


「久世だ」と省吾は言った。


「先生ではないんですね」


「違う」


「助かります。こちらも先生と呼ぶ癖がないものですから」


 その返しで、省吾は少しだけ女の顔を見直した。佐伯が横で面白そうにしている。


「聞いただろう」と佐伯が言う。「頭が少し出来る」


「少しじゃ足りなさそうだな」と省吾は言った。


 十和子は笑わなかった。


「足りないくらいで丁度いいのです。出来ると思い込む人が、この部屋には多いので」


 それを言いながら、彼女は机の上の書きかけを紙ばさみで留めた。手つきが速い。人に話しかけられても、仕事の途中を途中のまま放り出さぬ人間の動きだった。


 佐伯が二人を見比べる。


「私は編集長のところへ行ってくる。君たちは少し話していろ」


「勝手なことをするな」と省吾が言った。


「ここへ来た時点で、半分は勝手だろ?」


 佐伯はさっさと奥へ行ってしまった。


 十和子は、机の横に置いてあった丸椅子を顎で示した。


「お掛けになりますか」


「立ってる」


「そうですか」


 気を遣ったふうでも、突き放したふうでもない。ただ相手がそうするならそうでいい、というだけの言い方だった。これも少し珍しい。


「聞いています」と十和子が言った。「辛い文章を書く方だそうですね」


「誰からだ」


「佐伯さんと、他にも」


「信用するな」


「しません。ですから実物を見ています」


「それで」


「思ったより感じが悪い」


 省吾はそこで、ようやく口元をわずかに動かした。笑いかけてやめたような動きだった。


「お前もだ」


「結構です」


 十和子は机の端から一枚の紙を取った。


「今度の雑誌は、堅い政治論ばかりでは売れません。読み物が要る。しかも、ただ柔らかいだけでは駄目なんです。女学校の記事を書けば娘たちが読む、芝居小屋の話を書けば旦那衆が読む、でも、そこへ少し本当のことが混じっていないと、次は買わない。そういうものを欲しがってる」


 省吾は紙を受け取らなかった。十和子は構わず続けた。


「佐伯さんは、あなたならそこを書けると言いました」


「買いかぶりだ」


「そうでしょうか」


「お前は何を見て言ってる」


「書き直した筋書を読みました」


 省吾の目が動いた。


「誰が見せた」


「佐伯さんが勝手に」


「余計なことを」


「でも、面白かったですよ」


 十和子はそこで初めて少しだけ笑った。笑いといっても、相手を宥めるためのものではない。

 自分が本当に何かを面白いと思った時だけ、口元が少しゆるむ、そういう笑い方だった。


「芝居そのものを持ち上げもせず、かといって見下ろしもしない。舞台の上の寒さだけ残している。あれは、頭の悪い人には書けません」


「褒めてるのか」


「使えると言っているのです」


「なお悪い」


「そうですか」


 十和子はまるで気にしなかった。


 その時、奥の部屋から怒鳴り声がした。誰かが原稿を落としたか、校正を間違えたか、そういう程度の怒りである。

 だが新聞社の怒鳴り声は、家の中や学校のそれより不思議とあとを引かない。皆、怒鳴るのも仕事のうちだと知っているからだろう。


 十和子は半ば振り向きもせず言った。


「毎日あんなものです」


「よくいるな、こんな所に」


「お互い様では?」


「俺はまだ入ったばかりだ」


「でも帰らないでしょう」


 省吾は答えなかった。


 彼女は人を妙に正確に見る。正確に見ようとしているというより、無駄に甘く見ぬだけかもしれない。

 そういう目は嫌いである。

 嫌いだが、真正面から来られると、こちらも雑には扱えない。


「お前は何を書く」と省吾が訊いた。


「何でもです。人が足りないものですから。芝居、女学校、百貨店、新しい髪型、病院の待合の女たち、そういうもの」


「まとまりがないな」


「時代にまとまりがないので」


 その答えは省吾を少し黙らせた。

 明治という太陽が沈みかけ、新しい時代へと変わろうとしている今の世の中は、何もかもが少しずつずれている。古い看板の上へ新しい字を貼り、その字がまだうまく馴染んでいない。


 十和子はさらに言った。


「あなたは、人の建前を剥がすのが好きでしょう」


「好きじゃない」


「そうですか。では我慢がならない?」


「そっちのほうが近いな」


「結構。それで充分です」


「何が」


「読み物には」


 佐伯がようやく戻ってきた。後ろに腹の出た編集長らしい男を連れている。男は愛想よく笑ったが、その笑い方に忙しさが混じっている。


「やあ、久世さん。佐伯からいろいろ聞いています。ぜひ一度、書いてみていただきたい」


「書けるかどうかは知らん」


「書けますよ」と十和子が横から言った。


 編集長が少し驚いて十和子を見る。


「君がそこまで言うのは珍しいな」


「ええ。感じは悪いですが、頭は働くと思います」


「褒めてるのか貶してるのか分からんな」


「両方でしょう」と佐伯が言って笑った。


 編集長は机の上の募集案内のような紙を手にしながら言った。


「堅苦しい論説はいりません。世の中がどう動いているか、その肌を掴むものが欲しい。長くなくていい。だが、読む側が“ああ、本当にそうだ”と思うようなものを」


「そんなものは大抵、読まれたくないものだ」と省吾は言った。


「それが読まれる形に変われば仕事です」


 編集長のその言い方は、商売人のそれだった。だが包み隠さないその物言いは、女学校の校長や岡島よりよほどましだと省吾は思った。隠し方が下手な人間は、まだ扱いやすい。


「考えておく」と省吾は言った。


 佐伯がすぐに口を挟む。


「それは書くという意味だな」


「違う」


「違わないさ」


 話はそれで終わったように見えたが、十和子が帰り際に階段のところまでついてきた。建物の中の階段は、やはり上りより下りのほうが嫌である。足を運ぶ先が見えにくく、段の縁が半端に摩れている。


 省吾が杖を先へ下ろした時、十和子は手を出さなかった。ただ、少し脇へ寄って場所を空けただけである。

 その何でもなさが、妙に楽だった。


「書くなら」と十和子が言った。「芝居小屋でも、女学校でも、きれいな話にはしないでください」


「する顔か」


「しませんね」


「じゃあ言うな」


「念のためです。男の書くものは、時々、女を勝手に哀れにしたり賢くしたりするから」


「お前は、俺がそうするとでも思ってるのか」


「思っていません。だから頼むんです」


 省吾は階段を一段下りてから振り向いた。


「お前、少し人を使うのがうまいな」


 十和子は上の段に立ったまま答えた。


「使えるものは使います」


「大した女だ」


「そうでもありません。ただ、人に可哀想な顔をしても、こちらは原稿を取れませんから」


 その一言で、省吾は少しだけ目を細めた。


 この女は、多分、本当にこちらを気の毒がっていない。足を見ても、顔色を見ても、それを人間の全体へ広げない。便利か不便か、使えるか使えぬか、そのくらいのところで一度止める。そういう止め方をする女は珍しい。


「お前」と省吾が言った。「嫌な女だな」


「結構です」


「褒めてない」


「知っています」


 十和子は少しだけ笑った。それも、愛想のためではない。やり合いが通じた時の、短く乾いた笑いだった。


 建物を出ると、外の夕方はもう新聞社のインキの匂いを薄めていた。佐伯が隣で煙草へ火をつけながら言う。


「どうだ」


「何が」


「嫌いじゃない顔をしてる」


「お前はそればかりだな」


「これが結構当たるからやめられないんだ」


 省吾は杖をつき、表通りの人混みを見た。

 今日会った女は、守られもせず、感傷もなく、舞台のような花もない。代わりに、言葉と紙と締切のあいだで、他人の頭を使う術だけは知っている。


 そういう女は厄介だ。


 だが、厄介な相手のほうが、話は少しましになる。そこだけは否定しようがなかった。



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