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第十六章 働ける男

 その週の終わりに、十和子のほうから小さな包みが届いた。


 新聞社の小僧が、店先へ封をひょいと置いて、


「橋本さんからです」


 と言って去って行く。

 包みの中には、刷り上がったばかりの雑誌の見本と、短い手紙が一枚入っていた。

 活字はまだ少し油の匂いを残していて、紙の端が新しい。省吾が書いた文章も、そこにしっかりと載っていた。題は十和子が勝手につけたらしく、「女学校の廊下より」となっている。


「勝手な題をつけやがって」と省吾は言った。


 京子が横から覗きこんだ。


「載ったのね」


「見れば分かるだろう」


「読んでいい?」


「駄目だ」


「ふふ、どうせあとで読むから!」


 京子はそう言って、実際、夕方にはもう読んでしまったらしい。

 女学校の空気や、整いすぎた廊下の匂いや、鞠子のような娘が「品位」の名で外へ押されかける話が、誌面の上では少し乾いた言葉に変わっていた。

 省吾自身は、紙に載った自分の文章を読むのがあまり好きではない。書いている間は自分のものでも、活字になると急に余所の顔をするからである。


 だが、その号は思ったより早く売れたらしかった。


 佐伯が翌々日に来て、店先へ入るなり言った。


「二本目だ」


「断る」


「まだ何も言ってない」


「一度書くと、二度目が来る。二度目が来ると三度目も来る。面倒だ」


「そうだ。だから来た」


 佐伯は笑いながら腰を下ろした。


「編集長が気に入った。十和子くんも、次は芝居小屋を書けと言ってる」


「勝手な女だな」


「君が一番嫌いそうな類だろう?」


「嫌いだ」


「だが、話は通じる」


 省吾はその言葉にすぐ返事をしなかった。

 通じる。そう言われると、かえって癪だった。

 人と通じるというのは、向こうに合わせることでもある。合わせずに済むぎりぎりのところで、なお話が通る相手は、気楽であるぶん厄介でもある。


 佐伯は、机の上へ封筒をもう一つ置いた。


「これは原稿料の前払いだ」


 封は薄かった。薄いが、今の省吾には無視できぬ重さがあった。


「安いな」と彼は言った。


「最初から食える額を出すほど、新聞屋は気前がよくない」


「なら書かん」


「嘘をつけ。もう半分はその封を見た時点で引き受けてるだろ?」


 佐伯は冗談めかして言ったが、図星だった。省吾は封へ触れもせず、煙草へ火をつけた。


 店のほうでは、その頃から少しずつ具合の悪いことが重なり始めていた。


 表向きは、いつも通り店は開いている。鉛筆も売れる。教科書も、時期になればそれなりに出る。だが庄作の帳場を見る目が、前より細かくなった。

 掛け売りの紙切れが増え、学校へ納める帳面の値が少しずつ下がり、近くに新しく出来た大きめの書店が、雑誌を多く仕入れ始めた。


 ある晩、店を閉めたあとで、庄作が帳面を見ながら小さく唸った。


「どうした」と千代が言う。


「少し食われてる」


「なにが」


「雑誌だよ。うちは今まで、近所の学生と女学校の娘たちが、ついでに一冊買っていくので何とかなっていたが、向こうは最初から並べ方が違う」


 省吾は小机で原稿用紙を前にしていたが、耳だけは帳場へ向いていた。


「並べ方?」と京子が訊く。


「うちは今まで通り、書名順に立ててあるだろう。向こうは婦人雑誌と学校ものと読み物を分けて、表紙が見えるようにしてるらしい」


「そりゃそうだ」と省吾が言った。


 三人がそちらを見た。


「何がだい」と千代が言う。


「本も雑誌も、背だけ見せて売れるような都合の時代じゃない。女学生が買うなら、まず表紙だ。字より絵のほうが先に目へ入る。ああいう年頃の女は、得てして見てくれだけに目が行くのもだからな」


 庄作は少し意外そうにした。


「君、そういうことも気がつくのか」


「見りゃ分かる」


「なら、もっと早く言えばいいじゃないか」と千代が言う。


「言ったところで、お前方が素直に聞くものか」


 千代は否定しかけて、やめた。確かにそうかもしれないと、心の中で認めてしまったからだった。


 省吾はその晩、原稿を途中で放り出して店先へ出た。

 灯を落としたあとの棚を見て、雑誌の置き方を一つ一つ眺める。庄作の店は丁寧だ。

 だが、丁寧さがそのまま売り方になるとは限らない。


 翌朝、省吾は開店前に雑誌の棚を勝手にいじった。


 婦人ものを手前へ出し、学生向けの読み物を低いところに並べ、表紙の絵が見えるようにした。さらに、売れ残りの号を奥へ引っ込め、代わりに手書きの小さな札をつける。


 「女学生向き」


 「新作小説あり」


 「付録つき」


 そういう、いかにも気取らぬ字で書いた札を、雑誌の脇へ立てていく。


 千代が見つけて言った。


「何してるの」


「見れば分かる」


「また勝手に」


「売れる顔にしてやってるのがわからないのか?」


 京子がその札を見て、少し笑った。


「付録つき、なんて、まるで市みたい」


「そうだ。売るってのはそういうことだ」


 庄作は口を挟まなかった。

 ただし、その日のうちに女学生が二、三人、いつもより長く棚の前に立ち、札を読み、表紙を見て、実際に二冊三冊と買っていった。庄作はそれを帳場の陰から見ていたが、何も言わない。


 言わない代わりに、その晩、帳面を閉じてからぽつりと言った。


「効いたな」


「当たり前だ」と省吾が言う。


「その“当たり前”を、こっちは知らなかったんだ」


 庄作のその言い方には、皮肉がなかった。それがかえって省吾には落ち着かなかった。


 その二、三日後、十和子が店へ来た。


 新聞社で会った時と同じように、余計な飾りのない着物で、しかし歩き方だけは忙しい女のものだった。

 店へ入ってきても、まず商品を見る。そういうところに、相手への遠慮の薄さがある。


「ここがそうですか」と彼女は言った。


「何しに来た」と省吾が聞く。


「原稿を取りに」と十和子は言った。「ついでに、店を見に」


「ついでが本音だろうが」


「半分は」


 京子が奥から出てきて、十和子を見るなり少し眼を見開いた。新聞社の女というものを、京子は頭では知っていても、目の前で見るのは初めてなのだろう。


「橋本さん?」


「ええ。京子さんね」


「どうして私の名前を」


「省吾さんの書く原稿の端によく出ますもの」


 十和子はさらりと言った。京子は少し頬を染めた。

 省吾はその様子を見て、十和子が人の気を動かす時にも、いちいち甘い顔をしない女だと改めて思った。


 十和子は店先をひと通り見て、雑誌の棚の前で足を止めた。


「これ、あなたがやったの」


「何が」


「札の字も、並べ方も、雑誌の顔を前へ出してるところも。前に来た本屋より、ずっと見やすい」


 庄作が帳場から言った。


「この人です。黙っていろいろ替えた」


 十和子は少しだけ顎を引いた。


「なるほど。やっぱり働けるじゃない」


 その一言が、妙に響いた。


 働ける。今まで何度も、遠回しには言われてきた。

 賢いとか、惜しいとか、机に向かえば何か書けるとか。だが「働ける」と、こうも生々しく言われるのは、案外初めてだったかもしれない。


 省吾は不機嫌そうに言った。


「褒めるな」


「褒めてはいません。使えると言っているだけです」


「それがなお悪い」


「悪くないでしょう」


 十和子は雑誌の札を一本指で軽く弾いた。


「人はね、何にでも才能があります、なんて曖昧な言葉で言われると、たいてい逃げてしまいます。でも、こうやって置けば売れるとか、この字なら客が手を止めるとか、そういう具体なところは、逃げにくいの。あなたはそこが見える」


 京子が黙ってそのやり取りを聞いていた。

 千代も、包み紙を折る手を少しだけゆるめている。家の者たちは皆、省吾が文章を書けることは知っている。だが、店の売り方や、雑誌の並べ方や、札の文句まで、こんなふうに外の人間に言葉にされるのは初めてだった。


 十和子はさらに言った。


「今度の随筆、芝居小屋の話だけでは弱いかもしれません。むしろ、こういう店や、女学生が何を買うか、何に手を伸ばすか、そういうもののほうが時代をよく映す」


「俺に商売の見本市を書けってのか」


「違います。暮らしの筋を」


「もっと嫌だ」


「でも、向いてるでしょう?」


 佐伯がいれば、ここで笑っただろう。だが十和子は笑わない。笑わないまま、まっすぐ言う。その言い方が、相手を追いつめる。


 十和子が帰ったあと、店の中には少し妙な空気が残った。


 京子が最初に言った。


「橋本さん、きっぱりした方ね」


「嫌な女だ」と省吾が言う。


「おじさまが嫌だと言う時は、たいてい少し気に入ってる時よ」


「余計なことを言うな」


 京子は笑った。


 千代は、いつになく静かな声で言った。


「あんた、本当にやれば出来るのかもしれないね」


 省吾はそれにすぐ返事をしなかった。


 やれば出来る。そういう言い方は嫌いだった。

 たいていは、今やっていないことへの責めが混じるからである。

 だが、今の千代の声には、責めるばかりではないものもあった。驚きと、少しの頼もしさと、だからこその腹立たしさが、一緒になっている。


 庄作は帳場の奥で、売上の紙切れを揃えながら言った。


「出来るなら、時々はやってくれると助かるよ」


 その一言は、妙に柔らかかった。


 柔らかい言葉ほど、省吾にはきつく響く。


 役に立てる。働ける。そういうことが、一度形になって目の前へ出てくると、今までそれを避けていた自分の言い訳まで、急に浅く見える。

 性分がどうだ、世間が嫌いだ、従属が耐えられない――そういうものは確かに本当だ。

 だが、少なくとも「何も出来ない」わけではないと知ってしまうと、人は自分の逃げ方まで見せつけられる。


 その夜、省吾は机の前で原稿を広げたが、なかなか筆が進まなかった。


 新聞社の階段、十和子の顔、女学校の廊下、芝居小屋の裏口、それから坂下の店先。そういうものが頭の中で、ばらばらなのに同じ時代の匂いをしていた。書こうと思えば書けるだろう。むしろ、今までで一番、書けそうな気がした。


 それが気に食わなかった。


 書けることと、続けることは違う。続ければ、どこかへ繋がる。繋がるということは、誰かに当てにされるということだ。当てにされると、人は逃げ場を失う。


 京子が夜更けに、湯呑を一つ持ってきた。


「おじさま」


「何だ」


「お茶」


「いらん」


「いるわ。顔が悪いもの」


「元からだ」


 京子は机の端へ湯呑を置き、そこに散らばる紙を見た。


「書けないの?」


「書ける」


「じゃあ、どうして書かないの」


「うるさい」


「だって、おじさま、そういう時ほど意地を張るでしょう」


 省吾は姪を睨んだ。だが京子はもう慣れたもので、少しもひるまない。


「橋本さんが言ってたわ」と京子が続けた。「人に使われるのが嫌だって顔をしてる人ほど、実は使われる場所が見つかると困るんだって」


 省吾の目が動いた。


「何を勝手に喋ってるんだ、あの女は」


「違うわ。私が聞いたの。おじさまのこと、怖くないんですかって」


「余計なお世話だ」


「そしたら橋本さん、怖くはないけど面倒だって」


 京子はそこでくすっと笑った。


「それでね、“でも、働ける人が自分でそれを嫌がるのは、見ていて少し腹が立つ”って」


 省吾は舌打ちした。


「本当に嫌な女だな」


「そうかもしれないけど、少し当たってるでしょう」


 京子の言い方は、前よりずっと遠慮がない。叔父を恐れていた頃の娘は、もう半分いなかった。


 省吾は湯呑を取った。茶はもう少し冷めていたが、その冷め方がちょうどよかった。


「お前」と彼は言った。「最近、余計なことをよく覚えるな」


「おじさまのそばにいると、そうなるのよ」


 京子は言い返して、少し得意そうに笑った。笑ってから、ふと真面目な顔になる。


「でも」と彼女は言った。「おじさまが本当に書くなら、私は読みたいわ」


「読むな」


「どうして」


「身内に読まれるのは気味が悪い」


「じゃあ、こっそり読む」


「最初からそう言え」


 京子は部屋を出て行った。


 そのあと、省吾はしばらく動かなかったが、やがて紙を引き寄せた。

 筆を持つ。

 最初の一行だけが、なかなか出ない。

 けれど一度出ると、そのあとは案外早かった。


 女学校の娘が雑誌の表紙へ手を伸ばす指先のこと。芝居小屋の看板女優が、自分の取り分を帯の間へしまう仕草のこと。新聞社の階段が狭いこと。坂下の店の前で、京子の友達が「付録つき」の札に釣られて立ち止まること。


 そういうものを書いているうちに、省吾は自分が少しずつ嫌なところへ踏み込んでいるのが分かった。これは随筆のふりをしているが、実際には、時代と暮らしの間へ手を入れる仕事だ。

 しかも、自分はそれが嫌いではない。


 嫌いでないどころか、少しだけ上手いのかもしれない。


 そのことが、一番腹立たしかった。


 朝方、ようやく筆を置いた時、窓の外が少し白みかけていた。

 坂下の家はまだ寝静まっている。

 店の前に並ぶ帳面も、鉛筆も、まだ誰にも見られていない顔をしている。


 省吾は机の横の杖へ目をやった。


 働ける男、という言い方がふいに頭へ浮かぶ。

 そんな言葉は嫌いだった。

 嫌いだが、一度浮かぶと、もう元のように無視できない。自分が本当に無能なら、どれほど気楽だったろうと思う。だが、そうではないと分かりかけた人間のほうが、よほど始末に負えぬ。


 省吾は行灯を消さず、そのまま椅子へ凭れた。


 外が朝になるまで、まだ少し間がある。そこだけが、今は唯一、誰にも使われず、何にも決められずに済む時間だった。



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