第十七章 坂の下の店
その朝、省吾が机へ突っ伏したまま少しだけ眠ってしまったあと、戸の向こうから最初に聞こえてきたのは、千代の足音ではなく、店先の戸を開ける庄作の手つきだった。
板戸が左右へ滑り、朝の空気が紙と墨の匂いの中へ入ってくる。
続いて、いつものように帳面の束が並べられ、鉛筆の箱が持ち出され、箒が石畳を掃く音がする。
本郷坂下の家は、誰か一人が夜更かししようと不機嫌だろうと、朝になれば同じ形で動き始める。
省吾は目を覚ますと、首の筋に鈍い痛みを感じた。行灯はまだ消えていない。机の上には書き上げた原稿が散らばり、インクの乾ききらぬ紙が一枚だけ端で反っていた。
こういう朝は、たいてい自分の顔が一番嫌になる。
彼は顔を洗ってから帳場へ出た。千代がすぐ見つけた。
「ひどい顔」
「見慣れてるだろう」
「今朝のは輪をかけてる」
庄作が帳場から目を上げた。
「書けたのか」
「少しな」
「少しか」
「長く書けばいいってもんじゃない」
庄作はそれ以上訊かなかったが、原稿の束が省吾の手にあるのを見て、何も言わぬまま茶を一つ寄越した。
気づきすぎないふりをしながら、必要なものだけは先に出してくる。そういうところが、この男の嫌なほど出来たところだった。
その日の午後、十和子が来た。
新聞社の小僧ではなく、本人が来たのである。店先へ入るなり、まず雑誌の棚を一瞥し、それから省吾の顔を見た。
「死んでいませんね」
「残念だったな」
「少し」
京子が奥で笑いを噛み殺し、千代が「まあ」と呆れた顔をした。
十和子は原稿を受け取ると、その場では読まずに封へしまった。そういう仕事の仕方が省吾には少し気に入らない。読みたければその場で読めばいい。
だがこの女は、相手の前で必要以上の反応を見せぬ。
「もう一つ」と彼女が言った。
「何だ」
「雑誌の委託、何冊かこちらへ回せるかもしれません」
庄作が帳場から身を乗り出した。
「うちへですか」
「ええ。神田のほうで捌ききれない分と、女学生向きの読み物を少し。橋を渡って買いに行くより、ここで手に取れるほうが売れる町がありますから」
省吾が横から言う。
「売れ残りを押しつける気か」
「半分は」
「もう半分は」
「本当に売れると思っているからです」
十和子はそう言って、庄作へ紙を差し出した。
雑誌名と部数、それから委託の条件が簡潔に書いてある。庄作はすぐには返事をしなかった。帳場の男の顔で、数字を頭の中へ入れている。
「急なお話で」と十和子は言った。「無理なら構いません」
「いや」と庄作が言った。「やってみる価値はある」
千代が少し目を細める。
「その『やってみる』に、元手はどれくらい要るんです」
十和子は数字を挙げた。たいした額ではないが、今の店には、たいした額でないものほど痛い。千代の顔がすぐにそう言った。
省吾はその顔を見た。
見て、嫌な感じがした。嫌な感じがする時は、だいたい先に分かっていることがある。今この家には、表へ出ぬ金の詰まりが少しずつ溜まっている。
十和子が帰ったあと、帳場の空気は少し黙った。
京子が最初に口を開いた。
「私はいいと思うわ」
「何がだ」と千代が言う。
「女学校の友達でも、雑誌を買うのに神田まで出るのは面倒だって言うもの。ここにあれば、きっと見に来る」
庄作が京子を見た。
「どんなものを欲しがるんだ」
京子は、待っていましたという顔はしなかった。だが考えていたことは確かだったらしく、すぐ答えた。
「婦人雑誌だけじゃなくて、附録つきの読み物とか、裁縫の型がつくものとか、新しい髪の結い方が載っているものとか。それに、便箋や小さな封筒も、今の置き方だと少し選びにくいわ」
「便箋が?」と千代が言う。
「ええ。今のは帳面の横へ一緒に積んであるでしょう。女学生は、柄や色を少し見たいの。中身が同じでも」
省吾は黙って聞いていた。京子の言うことは外れていない。むしろ、こっちがぼんやりしているあいだに、娘のほうが客の顔を見ていたのだと分かる。
庄作がゆっくり頷いた。
「なるほどな」
千代はまだ少し慎重だった。
「でも、どれを仕入れるかでまた金が要るよ」
「そうだな」と庄作が言う。
省吾はその時、ようやく口を開いた。
「本を売る」
三人が一斉にこちらを見た。
「何を」と千代が言う。
「俺のだ。机の後ろの棚に積んであるだろう」
「馬鹿言うんじゃないよ」と千代が即座に言う。「あれはあんたが読んできた本じゃないか」
「だから何だ」
「何だ、じゃないよ。そういうものを売り食いするのは、いよいよ末だ」
「末なら今さらだろう」
京子が叔父の顔を見た。驚いている。多分、省吾が自分の本へ、あれほどあっさり値をつけるとは思わなかったのだ。
庄作が静かに言った。
「全部はいらん」
「全部とは言ってない」
「どれを残すんだ」
「読んでる本だけで足りる」
それは半分本当で、半分嘘だった。読まぬ本も、そこにあるだけで自分の逃げ場になっていた。だが今は、逃げ場より先に金が要る。
千代が唇をきつく結んだ。
「あんた、本気かい」
「そう見えないか」
「……見えるのが腹立つんだよ」
その日のうちに、省吾は本を選り分けた。英書、哲学書、古い評論集、使い込んだ辞書。残すものと売るものを、思ったより早く分けられたのが自分でも嫌だった。
未練がないわけではない。
だが、未練があっても持っていれば腹は膨れぬ。
庄作が懇意にしている古書屋へ持って行くと、相手は目を丸くした。
「久世さん、珍しいですね」
「黙って値をつけろ」
「惜しくないんですか」
「惜しいから売るんだ」
古書屋は首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
商売人は、相手が自分で切った札へ余計な意味をつけぬ時がある。
そこがありがたい。
金は思ったより少なく、だがないよりはましだった。
それを元に、雑誌の委託を受ける話が進んだ。
京子の言う通り、女学生向きの読み物、附録つきの婦人雑誌、季節の便箋、小ぶりの封筒、細い色鉛筆、そういうものを少しずつ入れる。省吾は置き場所まで口を出した。
「帳面の横に積むな。便箋は光のあるところだ。柄が見えないと誰も手を出さん」
「そんなことまで分かるのかい」と千代が言う。
「見れば分かる」
「その“見れば分かる”を、どうして今まで家では使わなかったんだろうね」
その一言は、軽く言ったようでいて軽くなかった。
省吾は返事をしなかった。千代も、それ以上追わない。追えば壊れるものがあるのを、お互い少しずつ覚え始めていた。
新しい雑誌が入った最初の日、女学校帰りの娘が二人、店先へ足を止めた。
表紙を見、札を読み、顔を見合わせ、ひそひそ笑ってから一冊買ってゆく。その次の日には三人、またその次には四人。京子の友達まで来て、わざとらしく店の奥へ会釈し、
「こんにちは、京子さんのおじさま」
などと言う。
省吾はそういう時、たいがい嫌な顔をする。だが、その嫌な顔を見たくて来る娘もいるらしかった。世の中には理解できぬ客も多い。
雑誌だけでなく、便箋も売れた。京子が選んだ薄い色の花模様のものや、英字が少しだけ入った封筒は、帳面や墨よりずっと早く減っていく。
「こんなものがねえ」と千代が言う。
「こんなもの、じゃないわ」と京子がすぐ返す。「女は手紙にも顔があるの」
「大したもんだな」
「おじさまには分からないでしょう」
「分からんでも売れりゃいい」
省吾はそう言ったが、実のところ、女学生が便箋を選ぶ時の顔は少し見ていた。
あれは帳面を買う顔とは違う。使うためだけでなく、その先の誰かの目まで少し考えている顔である。
店の空気が変わり始めると、外からも人が来た。
十和子がもう一度顔を出した時には、棚の前に女学生が二人立っていて、表紙の絵を見比べていた。十和子はその様子を見て、珍しく目を細めた。
「やっぱり」と彼女は言った。
「何が」
「置き方一つで、店の顔は変わる」
「元が悪かった」
「違います。元が分かっていなかっただけ」
庄作は、帳場からその言葉を聞いていた。
十和子は雑誌の減り具合を見て、委託の冊数を少し増やす話まで持ち出した。
さらに、新聞社の余った見本紙を安く回せるかもしれぬとも言う。
商売の話になると、この女は余計な情を挟まない。その乾いた感じが、今は庄作にもありがたかったらしい。
「橋本さん」と庄作が言った。「助かります」
十和子は軽く首を振った。
「助かるのはこちらもです。売れる場所が増えるだけですから」
「それでもです」
そのやり取りを、省吾は少し離れたところで聞いていた。
人がこちらの顔を立てる時より、こうして双方の得になる形で話が決まるほうが、まだ気が楽だ。
だが、その「気が楽」が続けば続くほど、自分が逃げづらくなるのもまた事実だった。
ある晩、店を閉めたあとで、庄作が帳面をじっと見ていた。
灯の下で、指が数字を追う。千代は台所の片づけをしている。
京子は宿題の本を開いている。
省吾は机の横で原稿の束をいじっていたが、庄作の顔がいつもと少し違うのに気づいた。
「どうだ」と省吾が言う。
庄作は顔を上げた。
「持ち直した」
それだけだった。
だが、その四字の中に、このひと月ほど庄作がどれだけ胃のあたりを冷やしていたかが、少し見えた。
書店の掛け、雑誌の減り、教科書の支払い、客足。そういう数字は、表へは出さぬが、夜ごとこの男の頭を削っていたのだろう。
千代も手を止めた。
「本当かい」
「ああ。大きく儲かったわけじゃない。だが、流れが変わった」
京子が本を閉じる。
「よかった」
声は小さいが、本気だった。
庄作はそこで、省吾を見た。長く一緒に暮らしていても、こういうふうに真正面から見ることは、そう多くない。
「君」と彼は言った。
「何だ」
「助かったよ」
たったそれだけの言葉だった。
だが、その一言が妙に重かった。
助かった。
感謝ではある。だが、それだけではない。家の柱を担う男が、他人にではなく、義弟に向かって口にする「助かったよ」には、少しの驚きと、少しの悔しさと、それでも認めざるを得ぬ本音が混じる。
省吾はすぐには返事をしなかった。
返事をすると、軽くなりそうだったからだ。
こういう時、冗談で逃げるのが一番容易い。
だが今日は、それをやると何かを安くする気がした。
結局、彼は短く言った。
「そうか」
それだけだった。
千代がそんな二人を見て、何か言いかけてやめた。
代わりに、台所へ戻るふりをして目元をこすった。別に泣いてなどいない顔をしている。
京子は叔父と父を見比べ、黙って笑った。
言葉を挟めば、今の少し不器用な静けさが壊れると分かったのだろう。
その夜、省吾は珍しく店先へ一人で出た。
戸はもう閉まっている。
だが板戸の隙から、外の秋に近い空気が少しだけ入る。
昼間、女学生たちが立っていた雑誌の棚を見て、便箋の残りを見て、手書きの札の字が少し曲がっているのを見つけて、直そうとしてやめた。
この店は、今まで自分の帰る場所であっても、自分の働く場所ではなかった。
帰って来て、飯を食い、喧嘩をし、また出て行く場所。
だが、ここ数日のあいだに、そこへ自分の手が少し入ってしまった。しかもその手が、意外なくらい無駄でなかった。
それが何より気に食わない。
役に立つというのは、居場所が出来ることでもある。
居場所が出来れば、人はそこを離れにくくなる。
離れにくくなるくらいなら、最初から役に立たぬほうがまだ気楽だ、と省吾はずっと思ってきた。だが、その理屈が今、少し古びて見えた。
古びて見えるのは、庄作の「助かったよ」がまだ耳に残っているからかもしれない。
あるいは、京子が店先で友達へ雑誌を勧めている顔を見たからかもしれない。十和子の「働ける」という言葉も、まだどこかに刺さっていた。
店の奥では、もう皆寝る支度をしている音がした。
省吾は杖を手に取り、板戸へ軽くもたれた。
そこから先の坂は見えない。見えないが、坂の上にも下にも、人は暮らしを持ち、それぞれの店を開け、それぞれの顔で明日を迎える。
自分だけがその外にいるつもりでいたが、案外、そうでもないらしい。
そう思ったところで、胸の内側が妙にざらついた。
役に立ってしまう男は、役に立たぬふりをする時より、よほどみっともないのかもしれぬ。そんなことを考えるのが、ひどく嫌だった。
省吾は板戸から離れ、灯を消した。
暗くなった店の中で、雑誌の表紙だけが、しばらく薄く形を残していた。




