第十八章 大正の雨
その年の夏は、雨が長かった。
空は朝から低く、坂の上から見下ろす町も、どこか濡れた紙のように色が鈍い。店先へ並べた雑誌の表紙だけが、雨の光を受けて妙に鮮やかに見えた。
新しい御代の名を刷った新聞が、ここ数日のあいだよく売れている。
人は時代が変わると言われると、まず紙を買う。紙に書かれた字で、ようやく本当に変わった気になるのだろう。
坂下の店も、前より少しだけ忙しくなっていた。
朝から女学生が附録つきの読み物を覗き、午後には近所の教師が新聞を一枚余計に買い、夕方には婦人たちが便箋と封筒の棚の前で立ち止まる。
帳場の上には、以前より雑誌の見本が多く載るようになった。札の字も増えた。「新御代号」、「女学生向き」、「附録あり」。どれも省吾の字だった。
それを誰も、もういちいち指摘しなくなった。指摘しなくても、そこにあって、役に立っているからである。
省吾は、その「役に立っている」ということに、まだ馴れなかった。
店にいる時間が増えた。
十和子のところへ渡す原稿も、今は机の上で定期の仕事みたいな顔をして並んでいる。
十和子は相変わらず、感心も同情も半端に混ぜぬ顔で受け取りに来た。
受け取りに来ては、新聞社の話を少し置いてゆく。
新しい雑誌の売れ行き、婦人欄の拡がり、活動写真の記事、地方の寄稿。どれも人の暮らしと、時代のざらついた皮ばかりを撫でるような話で、省吾はそのたびに腹を立てながら聞いた。
腹を立てるのは、多分、面白いからだ。
京子は秋から一段上の課程へ進むことになった。千代は表向きは
「まだ勉強かい」
とこぼしながら、夜な夜な新しい袴の布地を指先で撫でていた。
縁談の話は、あの一件きりで立ち消えになった。
お滝はしばらく気まずそうな顔をしたが、人は気まずさだけでは長く生きられない。別の噂が立てば、そちらへ移る。
坂下の家では、その変化を誰も大きく言わなかった。大きく言うと、かえって壊れる気がするからだ。
だが、言わぬままに少しずつ、前と違うものが積もっていた。
省吾の机には、前よりきれいな原稿紙が置かれるようになった。京子が勝手に揃えているのだろう。煙草の火が切れると、庄作が何でもない顔で火入れを寄越すことが増えた。千代は、晩飯の支度の時に
「今日の足はどうなんだい」
と、以前よりずっと気軽に聞くようになった。
それが一番、気に障った。
気に障るのは、訊き方が自然だからだった。腫れ物に触るような気遣いなら、いくらでも突っぱねられる。
だが、「今日は雨だから、無理に神田まで行かなくても、十和子さんの小僧が来るんだろう」とか、「階段を上がるのが鬱陶しいなら、帳場の奥へ机を移そうか」とか、そういったごく当たり前の家の相談の調子で足のことを含まれてしまうと、怒る理由まで奪われるようだった。
ある午後、十和子が雨の中を来た。
傘の先から雫を落とし、裾を少し持ち上げて店へ入ってくる。
今日はいつもより遅い時刻で、店には客もまばらだった。雨の日は、紙を扱う店は妙に静かになる。皆、濡れた手で本を触るのを遠慮するからである。
「ひどい降りね」と京子が言った。
「ええ」と十和子が答える。「こういう日は、新聞社も少しだけ人間らしく静かです」
省吾は帳場の脇にいた。
「少しだけ、か」
「そうです。完全に静かだと潰れますから」
十和子は原稿を受け取りに来たのではなかった。
今日は別の話がある顔である。濡れた傘を畳み、少し躊躇もせずに帳場の脇へ立つ。
「相談があります」
「嫌な顔してるな」と省吾が言った。
「そういう顔しか出来ません」
十和子は懐から紙を出した。
「連載にしたいそうです」
「は?」
「今までの随筆。女学校、芝居小屋、店先、そういうものを、月に二本。題はまだ決まっていませんが、続けてほしいと編集長が」
千代が茶を注ぐ手を止めた。庄作も帳面から顔を上げる。
「毎月、ですか」と庄作が言った。
「ええ。稿料も今までよりは少しましになります」
十和子が数字を言うと、千代の眉がわずかに動いた。少なくはない。少なくはないが、食っていけるほどではない。
けれど、続けば意味がある額だった。
省吾はすぐには紙を受け取らなかった。
「断る」と彼は言った。
京子が呆れたように言う。
「また」
十和子は平然としていた。
「半分はそうおっしゃると思いました」
「残り半分も断る」
「そうですか」
十和子はそう言ったきり、紙を引っ込めなかった。引っ込めぬことで待っている。こういう待ち方をする人間は嫌いだ。
千代が横から口を挟んだ。
「あんた、どうしてそうなるんだい。毎月ちゃんと入ってくる仕事なんて、そうあるものじゃないだろう」
「俺は毎月ちゃんと働く様な顔をしていない」
「そういう顔かどうかは、もう誰も聞いてないんだよ」
千代の言葉は、前ならもっと棘があったろう。今は棘より先に、現実がある。
庄作が静かに言った。
「神田まで毎度出向くのが嫌なら、原稿は十和子さんのところへ使いをやればいい。雨の日に無理に行くこともないだろう」
その言い方が、すぐ胸へ刺さった。
十和子も続ける。
「ええ。お足の具合が悪い日は、無理に階段を上がらなくていい。小僧に取りに来させます」
そこまでくると、もう言葉がきれいすぎる。きれいすぎて、逃げ場がない。
京子が、何気ない顔でさらに言った。
「机も、二階じゃなくて、一階の奥へ移したほうがいいわ。雨の日は階段が滑るもの」
省吾はそこで、ようやく顔を上げた。
三人とも、悪気はない。悪気がないどころか、皆、それぞれ本気で考えた上で言っている。
ここにいればいい、ここで書けばいい、雨の日は出歩かなくていい。坂下の店の奥に机を置き、原稿は使いに渡し、足に無理のないように暮らせばいい。
その「いい」が、彼にはひどく息苦しかった。
足の悪さを、そのまま家の中へ据えられる感じがしたのである。坂も、階段も、仕事も、皆がそこを避けて道をつけてくれる。その道の上へ自分が座れば、今度こそ本当に動けなくなる。
「やめろ」と省吾は言った。
千代が怪訝そうにする。
「何をだい」
「そういう話だ」
「どういう話」
「足がどうの、机がどうの、使いを寄越すだの」
十和子がじっと省吾を見た。
「現実の話です」
「現実なら、なお悪い」
「なぜ」
その問いに、すぐ答えは出なかった。答えようとすると、余計なものまで一緒に口から出そうになる。
京子が、不意に真顔になって言った。
「おじさま、何を怒っているの」
「怒ってない」
「怒ってるわ」
「怒ってないと言ってる」
言い方がもう怒っていた。
庄作が、そこで少しだけ声音を低くした。
「誰も、君を檻へ入れようとしているんじゃない」
その一言が、かえって悪かった。
檻へ入れるつもりがないからこそ、省吾には檻に見える。善意で出来た檻ほど、外から見ると分かりにくい。
「知っているさ」と彼は言った。「知ってるから面倒なんだ」
十和子はまだ立っていた。濡れた裾の先が、畳まれた傘の上へ小さく水を落としている。
「私は帰ります」と彼女が言った。
それだけ言って紙を机へ置いた。引っ込めない。引っ込めず、返事は急がないつもりらしかった。
彼女が帰ると、店の中には雨の音だけが残った。
誰もすぐには口をきかなかった。京子は本を開くふりをし、千代は包み紙をたたみ直し、庄作は帳場の上の筆を揃えている。省吾は、その全部が鬱陶しくなって、立ち上がった。
「どこへ行くんだい」と千代が言う。
「外だ」
「この雨の中を?」
「雨くらい何だっていうんだ」
「そんな顔して出ていくものじゃないよ」
省吾は返事をしなかった。
雨の本郷は、坂の石がよく滑る。傘を差しても裾が濡れ、車夫は商売にならぬと渋い顔をし、通りの水が細い溝をつくって流れる。
そういう中を、省吾は杖をついて歩いた。
どこへ向かったわけでもない。坂を上り、少し下り、寺町の前を通り、また引き返す。雨脚は強くも弱くもならず、一定の調子で降り続ける。
人の頭を冷やすにはちょうど悪い降り方だった。
夕方には家へ戻った。濡れた草履を脱ぎ、杖を壁へ立てかける。
千代は何も言わず、ただ手拭を置いた。京子は視線を合わせず、庄作も帳場から顔を上げなかった。
その静けさが、かえって堪えた。
夜が更けてから、省吾は一人で店へ出た。
灯は落としてある。だが雨の日の夜は、戸の隙から外の光が少しだけ沁みる。
雑誌の棚も、便箋の札も、そのぼんやりした明るさの中で形だけが分かる。京子の友達が買っていった附録つきの号は、もう残りが少ない。婦人雑誌の横には、新しい御代を祝う特集が平積みになっている。
省吾は帳場へ座った。
庄作の帳面がそこにある。
開けば、売れた冊数、掛け、仕入れ、委託の控え、全部がすぐ目に入る。
彼はしばらくそれを見て、それから筆を取った。数字を少し整える。支払いの期日を揃え、委託の部数を翌月分まで書き込む。雑誌の置き方についても、小さな覚え書きを添える。
婦人物は午後に手前へ。
便箋は雨の日に減る。
京子の意見を聞くこと。
そんなふうに、誰に向けるともなく書く。
次に、京子の机の上へ何冊か本を選んで置いた。
英語の本、短い評論、薄い詩集。それから一冊だけ、使い込んだ小辞書。自分にはもう二冊もいらない。
京子への書き付けは、長くならなかった。
――勉強しろ。人に決められる前にな。
それだけ書いて、机へ伏せた。
短い。だが、長く書くとこちらが嘘をつく気がした。
十和子への返事は書かなかった。書けば約束になる。約束は、今はまだ重い。
最後に、省吾は自分の部屋へ戻り、荷を少しだけまとめた。
着物一枚、原稿用紙、煙草、杖。
人は長く住む家を出る時でも、持っていくものは案外少ない。残してゆくもののほうが、あとから重く見える。
明け方近く、雨が少し弱まった。
家の中はまだ寝静まっている。
千代の咳払いも、庄作の起き出す気配もない。
京子の部屋の前を通る時、省吾は一瞬だけ足を止めたが、何もせずに通り過ぎた。
戸を開ければ、多分、京子は目を覚ます。目を覚ましたら、面倒になる。面倒になると分かっていることは、やらぬほうがよい。
玄関で草履を履き、杖をつく。
戸を開けると、土と草の舞い上がった匂いがした。空はまだ白く、町は完全には目を覚ましていない。坂の石だけが濡れて、その薄い明るさを返している。
省吾はその坂を、ゆっくり下りていった。
朝、最初に省吾の不在に気づいたのは千代だった。
朝飯の支度をしようとして、奥の部屋の襖が開いたままなのを見る。
ああ、まただ、と思う前に腹が立った。こういう時の怒りは、心配の一歩先に出る。出ないと身が持たぬからである。
「庄作さん」と千代が呼ぶ。
庄作が起きてきて、部屋の中を見る。布団は畳んである。机の上には、煙草の灰ひとつ残っていない。
「出たな」と彼は言った。
「出たな、じゃないよ」
千代はきつい声を出したが、その手はもう机の上の書き付けへ伸びていた。京子への短い字を見て、ため息をつく。
「まったく……」
京子も起きてきて、母の手元を覗く。書き付けを読んだあと、すぐには何も言わなかった。
怒るより先に、叔父がこういう形でしか言葉を置けぬことを知ってしまっている顔だった。
庄作は帳場へ行き、開いたままの帳面を見た。
そこには、きれいに揃えられた数字と、委託の覚え書きが書き足されている。雑誌の仕入れについての小さな札まで添えてある。
庄作はそれを見て、ほんの少しだけ笑った。
「困った男だ」
千代は京子の机の上に置かれた本へ気づく。辞書を手に取り、また置く。怒ろうとしていた顔が、途中で少し変わる。
「まったく、勝手ばかりして」
京子は書き付けを持ったまま、叔父の空いた部屋を見た。
片づけてしまえば簡単だ。だが彼女は片づけなかった。
机も、そのままにした。行灯も、杖のなかった壁際も、そのままにしておく。そういうふうにしておけば、帰ってきた時にまた文句が言えると思ったのかもしれない。
店の戸を開ける頃には、雨はもう上がっていた。
坂下の町は、水を吸ったまま新しい朝へ向かっている。
新聞にはまだ「大正」の字が大きく出ていた。女学生はまた昼になれば雑誌を見に来るだろうし、便箋も減るだろう。
店は開く。暮らしは続く。
千代は帳場に座り、腹立たしそうに鼻を鳴らした。
「どうせまた、そのうちふらりと帰ってくるよ」
庄作が湯呑を置いた。
「だろうね」
京子は何も言わず、叔父の書いた札の字を一枚だけ指でなぞった。
帰ってくるかどうかは分からない。だが、帰ってこないと決めきれるほど、あの男は立派でもなかった。
坂の上には、まだ湿り気を残した光が差していた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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