070 付け焼き刃的な婚約者教育1
陛下の前で行った婚約願いの儀も終了した。市民に皇室から公表もされた。それから殿下の元に届いた恐ろしい数のお祝いの手紙。それに対するお礼のカードに、腱鞘炎になるくらい署名もした。
これでしばらくは通常生活に戻れる。
密かにそう考えていたのだが、次なる任務はどうやら殿下の誕生日を祝う舞踏会に参加する事のようだ。
「やっぱ、とんでもない人と婚約したのかも」
度重なる公務に、私の精神力は尽きかけている。
「もはや恋だの、愛だので乗り切れる容量を越えてる気もする」
私はベッドに身を横たえ、その柔らかな寝具に身を委ねた。
それから天井にある豪華な装飾をぼんやりと眺める。
天井からは華麗なシャンデリアが優美に吊り下げられている。シャンデリアに無数にぶら下がるクリスタルが光を反射し、部屋全体を煌めかせていた。壁には美しい彫刻や絵画が飾られ、金箔で装飾された寝具が部屋の雰囲気を一層高めている。
エメル殿下の屋敷で与えられた寝室も自分にとっては豪華すぎると感じている。しかし現在私が滞在する部屋は、その上を更に超える贅沢きわまりない部屋だ。
「折角リッチな部屋にいるのに、全然嬉しくない」
私はふかふかの枕に頭を乗せ、仰向けになって不貞腐れる。
次から次へと与えられる慣れない課題をこなす事に辟易する庶民の私は、現在宮殿に泊まり込んでいる。
なぜなら、殿下の誕生日パーティで関係各所に初披露となる私を完璧……ほどほどの淑女とするため、付け焼き刃的な特訓メニューが、陛下によって組まれたからだ。
エメル殿下からの頼みであれば、何かしら理由をつけて断る事も出来たかも知れない。しかし恐れ多くも陛下からの指示となると話は別。断るなんて言語道断。一市民である私は言われた事を、粛々と受け止め実行に移すのみ。
現に百五十数年前、私は当時の皇帝陛下に頼まれ、世界に広まる高濃度エーテル結晶体を集める旅に出た。
「人生が随分変わっちゃった気がするけど」
いつの時代も陛下と敬称のつく人は、個人ではなく、世界を主語に考えているのだから仕方ない。
そんなわけで私は数日前から宮殿にて寝泊まりし、朝から勉強漬けの日々を送っている。
そもそも皇族の生活には厳粛なマナーや礼儀が求められるそうだ。その為、宮廷の規則や慣習や振る舞いを学び、身につけることが大変重要らしい。
『でもまぁ、そういうのは表向きだから。普段の時はいつも通りの君で大丈夫だ』
陛下からの支持を伝える殿下は、ニコニコとしながら、私を励ますような言葉をかけてくれていた。
けれどさりげなく私の唇に視線を落とし、キスしようとするタイミングを測ってもいて。
あの時はキスをされるのは、もはや時間の問題かも知れないと、期待と不安と恐怖を覚えていたものだ。
勿論私は逃げ出したので、事なきを得ている。
そんなこともあり、今回私がエメル殿下から離れ、宮殿で生活すること。
それは恋愛に浮かれ、やや肉食獣のようになってしまった殿下の頭を冷やすため、距離を置くのにいい機会なのかも知れない。
そう思った私は、やや前向きな気持ちで宮殿へ向かう事を了承し、現在に至るといった感じだ。
ところが、殿下の婚約者として相応しくなるためのカリキュラムに手をつけた今、とても屋敷が恋しくてたまらない気持ちを抱えている。
礼儀作法から始まり、服装規定に、夜会おける座席順序。それから書簡の文面に署名の仕方、相手に失礼のない断り方などなど。細かい事を言いだしたらキリがないくらい沢山の事を、分厚い本を片手に駆け足で学ぶ日々は、わりと辛い。
さらに結婚までの間に、社交スキルを磨いたり、自国の歴史や文化に関する知識を深めたり、異なる国の人物と円滑なコミュニケーションを図るため語学を学んだり、社会的責任や慈善活動に関する知識やスキルを身につけることなども、しっかりと学ぶ必要がある……などと、担当する先生方に言われてしまったのだから、逃げたくもなるというものだ。
『難しい事はない。君なら余裕だろ』
時折宮殿にひょっこり現れるエメル殿下は、ケロリとした表情で私に告げる。あれは励ましているつもりなのだろう。けれど全くもって励ましになっていない。
そもそもエメル殿下は幼少期からそれらを学び育ったから「余裕」だなんて言えるのだ。
対する私は、殿下が二十三年という長い年月をかけて学び、ものにしてきた事を数日間で習得しろと詰め込まれている。しかも上澄みだけのはずなのに、それすら余裕なんてない。むしろ血眼になり必死に頑張っているという状況だ。
正直、封印の塔に戻りたいと願うくらいには、追い詰められている気がしなくもない。
「でもな、やっぱり逃げ出すのは違う気がするし」
ドレスを着て舞踏会に参加し、非日常な空間を楽しみたい気持ちはある。
「なんせ、封印の塔では娯楽が本しかなかったから」
俗物にまみれたこの世界を、思う存分感じてみたい気もする。
「本に書き綴られた世界より、生身の人間が体験する世界の方がよっぽど面白いに決まってるし」
実際塔を出てからの一年は、自分が全く想像しなかった世界で、とても刺激的だった。
今回も、孤児院時代に友人達とやっていた「私達の考えるお姫様ごっこ」が本当に出来ると思えば、頑張れる気もする。
「だから陛下の要望には全力で応えねば……はぁ」
気合を入れて、明日の予習をしておこうとかたわらに置いた本を開くもなお、重い溜息しか出てこないのであった。




