069 砂糖マシマシカフェラテ殿下
穏やかな春の光が、宮殿内にある謁見の間と呼ばれる部屋の、大理石の床に差し込んでいる。
私はヘビロテ中の黒いワンピースを脱ぎ捨て、淡い黄色の優雅なドレスに身を包み、恐れ多くもアルカディア帝国第八代皇帝、レガリア陛下の臨席を求めるために、厳かな玉座の前に立っていた。
もちろん一人ではない。隣には皇族の式典服となる黒い軍服姿のエメル殿下が立っている。
因みに皇族が式典で軍服を着用するのは、アルカディア帝国が古くから軍事に関連する伝統や格式を重んじているからだ。そのため、特に重要な公式行事や式典では、皇子や王族が軍服を着用することが一般的らしい。
つまり、現在私が参加する『婚約願いの儀』はエメル殿下の婚約に関する公式行事ということになる。
「陛下、お許しを願いに参りました。私は、ティアリス・アルミスト嬢と正式に婚約をしたいと考えております。彼女との絆は深く、共に歩む未来を望んでおります」
シンと静まる中、殿下のしっかりとした声が宮殿の中に響き渡った。
玉座の上に座るレガリア陛下は、堂々とした姿勢で、統治の重責を背負った、まばゆいほどの存在感を放っていた。彼の目は鋭く輝き、彼の顔には厳かな表情が浮かんでいる。正直怖そうなエリオドア様といった感じだ。
「エメル、そなたの申し出を喜んで受け入れることをここに宣言する。この婚約に異議のあるものは名乗り出よ!」
レガリア陛下が高らかにそう告げると、謁見の間に集う着飾った人々は一斉に頭を下げた。
私はあまりに非日常的な空間すぎて、まるで演劇を見ているような、参加しているような、そんな不思議な気分で静かにこの状況を見守る。
陛下の問いかけに、しばらく待っても誰の声も上がらなかった。どうやら異議を唱える者はいないようだ。
それもそのはず、すでにエメル殿下と婚約したい旨は陛下を初めとする殿下の親族、そして上位貴族によって承認済みだからだ。だから今日は儀礼的なもの。正直庶民の私からしたら、何でこんなにお金も時間もかかるような事をわざわざするのだろうかという、疑問たっぷりな気持ちを抱いている。
ただ普段あまり見ることのない、エメル殿下の軍服姿が見れた。それはとても新鮮で、そしてかっこよかったので良しとする。
「我が臣下諸君よ、この厳粛な時を迎え、私は喜んで皇子エメルと、我が帝国の優れた娘、ティアリスの婚約をここに宣言する。彼らの純粋な愛と絆は、我が帝国にとって新たなる光となることであろう。彼らの結びつきを祝福し、彼らが幸福と繁栄の道を共に歩むことを期待する。我が国と我が民のために、この結びつきが永遠に続くことを祈り、この婚約を承認する!」
陛下は、重厚な玉座に座り、堂々とした態度でその重みを示しながら、臨席の者たちに向かって堂々と宣言した。
陛下の言葉の重みを噛みしめるように、謁見の間はしばし静寂に包まれる。しかしすぐに喜びの微笑みと歓声が広がった。
こうして私は、正式にエメル殿下と婚約したのであった。
◇◇◇
婚約願いの儀と呼ばれる行事が終了し、殿下と私の婚約は全帝国民に知らされる事となる。
そこで問題になったのが私の素性だ。流石に「百五十年前、世界を救った英雄で賢人と呼ばれるティアリス」とは公表できないからである。
そこでどうなったかと言うと。
「出身はパトーラのセントステラ孤児院。ティアリス嬢は勤勉で、とても人当たりの良い娘として評判だった。その後アルカディア帝都大学文学部歴史学科に入学。古代文字と魔法の研究に情熱を傾け、現在は古代魔法研究所に勤務。エメル殿下とは職場で知り合い、徐々に仲を深めていったようだ、と……見事に嘘しかないじゃない」
思わず私は、殿下と私の婚約を大々的に発表する記事が掲載された新聞をテーブルに投げつけようとして、何とか堪えた。
「仕方ないだろ。民衆が完璧な俺の相手にも、完璧を求めるのだからな」
自己肯定感の塊になった殿下は、開き直る。
現在殿下と私は、後は寝るのを待つばかりという状況。屋敷にある家主用のこぢんまりとしたサロンで、並んでソファーでまったりしている所だ。
向かい合う距離から隣になったのはつい最近。
私が殿下に萌えポイントを発見してから、実に一か月半が経っていた。
「私としては、そんな完璧人間である殿下のお相手が、こんな貧相な女で申し訳ない気持ちです」
私は嫌味で応戦する。
「俺の婚約者の悪口を言うな」
殿下は私のおでこを軽くデコピンする。
「いたっ、酷い、最低。暴力より悪口の方がマシです。一体これのどこが完璧なのよ。新聞社に殿下のアレコレをリークしてやる」
私はおでこを擦る。
「その減らず口を塞いでもいいか?」
殿下がそっと私のおでこを撫でる。
「っ!」
私は反射的にそっぽを向く。きっと顔が赤くなってるはずだから見られたくない。
実のところ婚約が公になってからというもの、殿下の糖度が急に増した。殿下は甘い。とんでもなく甘くて、恋愛初心者の私をからかうのが楽しくてたまらないようだ。
シャローゼ様の事前情報によると、殿下は過去にお付き合いした人はいないとのこと。ただし、一夜限りの関係という言葉が頭につく女性は、流石にいただろうとのこと。
『エメルもいい歳だしね。そこは気にすることないわよ。今の時代、結婚まで清廉潔白なんて人は、もうどこにもいないだろうし』
あっけらかんと告げるシャローゼ様に私は驚いたものだ。
貞操観念どこいった?
そんな疑問と共に、二十三歳である殿下をいい歳扱いするシャローゼ様だって同い年だよね?という疑問が沸いた。
しかし愚問だと感じ、その時口にするのはやめておいた。
「とんでもない人と、婚約しちゃったのかも」
日々、甘々な殿下に心を乱されてしょうがない私は呟く。
そんな私の脳裏にまたもやシャローゼ様の声が響く。
『え、まだキスすらしてないわけ。色々すっ飛ばして同じ屋根の下にいるのに?』
呆れたような表情と共に思いだされたその件は、私の悩みの種の一つ。
別にそういう事をしたくない訳ではないし、殿下とそういう事をするのに嫌悪感も抱いていないとは思う。
けれど私は砂糖マシマシな雰囲気になると恥ずかしくて死にそうになる。その結果、私は辛うじて殿下を交わしているという状況。
最初は私から拒否され続ければ、いつか諦めるだろうと高を括っていたのだが……むしろ彼の愛はより重いものとなった気がする。
一体世の中の人は、キスされそうな瞬間の恥ずかしさを、どう克服しているのか。私は切実にそれが知りたい。
それに一夜限りでも、殿下は誰かとそういう事をしたのだと思うとショックだ。
過去は変えられないし、過去があるから、今がある。殿下は今のところ私に夢中なのだから、それでいい。
そう自分に言い聞かせるのに、殿下を好きだと自覚した私は、彼の全てが私であって欲しいと願う、我儘な心が育ち始めている。
そのせいで、人生において唯一名の付くファーストキスを殿下が誰かと済ましていると思うと、勝手に残念に思って悲しくなる。
そしてまた、私は甘さたっぷりな殿下から逃げたくなってしまうのだ。
「さっきから百面相をして、君は見ていて飽きないな」
殿下は私の髪を弄って遊びだす。
「ちょっと、何するんですか!」
私はキッと殿下を睨みつけるが、直ぐにその効果は切れ、顔に熱が籠るのを感じた。
「俺は今幸せだ。だけど、もっと幸せになりたい」
殿下は甘い言葉を囁く。
「恥ずかしいんじゃなかったんですか?」
私に告白するのに、散々察せモードになっていた、初心で弱々しい殿下はどこへ?
今すぐ返して、恥じらう彼を今すぐここへ!と私は心で叫ぶ。
「俺の気持ちは君に伝わってしまった訳だし、今更隠す必要もないしな」
悪びれずサラリと告げる殿下。
「それにわかりやすく態度で示さないと、君がまた誤解し、面倒な事になる可能性がある」
殿下の視線が私の左手に移動する。
どうやら婚約指輪の一件について責められているようだ。
「君は俺に触れられるのが嫌なのか?」
殿下の紫の瞳が頼りなさげに揺れる。
その瞬間、私の心がドクンと大きく脈を打つ。
「嫌だから、俺を拒むのか?でも俺は君に触れたい」
殿下は畳み掛けるように、私の萌えポイントを突いてくる。
「ティア、きちんと君の気持ちを教えてくれ。不安でたまらない」
殿下は捨てられた子犬のような瞳で私を見つめた。
その瞬間、猛毒を飲まされたかのように心臓が苦しくなり、やっぱり私は弱った顔をする殿下がたまらなく好きなのだと実感する。
ファーストキスを一夜だけの関係に奪われたと拗ねる私は、結局のところ勇気がなくて弱虫なだけ。世間はこんな私を知ったらきっと呆れるに違いない。
私はグッと拳を握る。
世界を救った英雄、それは私。キスなんて誰しもが経験している事に怯えるなんてあり得ない。悩む前に実行。勢いに身を任せればきっとうまくいく。
「私は、殿下が好き。だから……」
殿下の懇願するような瞳に負けた私は観念した。
「き、今日は特別に許します」
私は顔を背け、小声で伝える。
恥ずかしさで死にそうだ。
「何を許すって?」
数秒前とは打って変わり、トーンが上がった殿下の声。これはまさかと顔をあげると、そこには意地悪く笑う殿下の姿があった。
「やっぱなし!」
私は慌てて立ち上がる。
「待て、今日は許すと言ったのは君だ」
「おやすみなさい!」
「逃がすか!」
殿下が伸ばした手に捕まる前に、私は脱兎のごとく逃げ出したのであった。
私は百五十年前、理由もなく英雄と呼ばれていたわけじゃない。
逃げ足だって一級品。それから、誰よりも自己防衛に長けていたから、英雄だったのである。




