071 付け焼き刃的な婚約者教育2
覚える事の多さに辟易し、どんよりと沈んだ気分になっていたとしても、現実は無情にもやってくる。
今日は午前中からダンスの特訓だ。体を動かすダンスは、座学よりはマシ。けれど姿勢や衣装の扱いに注意しつつ、優雅に踊るという課題は落第点続き。
「あー、ドレスも重いし、気が重いし、コルセット苦しいし」
一人ぶつくさ垂れながら、宮殿内の通い慣れた道を歩き、ダンスホールに向かったのだが。
「え、なんで?」
待ち構えていた人物に、思わず私は固まる。
「ごきげんよう、ティアリス……様」
わざとらしく「様」までの空白を空け、私に美しく微笑み、ドレスの裾を優雅に持ち上げこちらに挨拶をするのは……。
「ニナ様?」
何を隠そう以前私を屋根裏に閉じ込めた因縁の相手。
サザランド男爵令嬢こと、ニナ様だ。
つまりこれは、頑張る私の前に、突如講師という名を語った悪魔が召喚されたことを意味する。
しかも悪魔は、身嗜みを完璧に整え、センスの良い、一目で上等な物だと分かる淡いピンクのドレスを身に纏い、こちらを見て、あろうことか微笑んでいる。
これは大事件だ。
「まさか時間割を間違えた?」
その可能性を一瞬疑ったが、すぐにそれはないと気付く。なぜなら私は、ダンスをするためにわざわざ人の手を借り、ドレスを着付けられたばかりだから。
しかも婚約の儀で着た、ゴージャスな淡い黄色のドレスだ。普段、何もないのにこんな格好をしていたら、宮殿内でも目立つし、コスプレイヤーが侵入したと疑われかねない。
つまり私は間違っていない。となると――。
「今日のダンスの先生は、ステファニー様のはずですけれど」
私は訝しげな表情のまま、ニナ様に尋ねた。
普段私にダンスを教えてくれるのは、ミドガル伯爵家のご令嬢、ステファニー様。
今年二十六歳だという彼女は気品ある容姿とは裏腹に、毒舌と鞭を使いこなす鬼講師だ。
けれど彼女の毒舌と鞭は、私を傷つけるために使われるものではない。私の将来を案じ、成長させるために渋々、使用されるものだ。だから私は彼女を嫌いではないし、むしろいい先生だと思っていた。
しかし目の前にいるのはニナ様で。
まさか裏切られたのかと、私は人間不信になりかける。
「今日はステファニーが急にドレスのお直しに行かなきゃならなくなったらしいわ。可哀想にエメル殿下の舞踏会に着ていくドレスの寸法が、何の手違いか間違っていたらしいの」
「舞踏会って、もう明後日じゃないですか」
「本当に不運よねぇ」
可哀想だとは微塵にも思っていなさそうな顔で、ニナ様は「太ったのかしら」と呟いた。
ステファニー様は確かに舞踏会用のドレスを仕立てていると言っていたし、最近太ったなんて悩んでいそうもなかった。それは間違いない。
『今回の舞踏会は久しぶりに大きなものなんです。ですからまだ相手を探している子は、自分を売り込むチャンスだと張り切っているんですよ。もちろん私も新しいドレスを用意してもらえたんですの』
殿下と私のように恋愛結婚をしたいと話してくれたステファニー様は、当日が待ち遠しいといった感じだった。
なぜなら、皇族の婚約記念を祝う舞踏会には、普段参加しない地方在住の貴族やら、帝国内の有力な商会の家族など、多くの人間が集まるからだ。
上流階級の未婚男女が、結婚相手を探すには、またとないチャンスに違いない。
そんな時に、ドレスのサイズが変わるほど太るような人とは思えない。私ならストレスによる暴飲暴食を許すとしても、舞踏会が終わってからにするだろう。
ひとまずステファニー様が来られない理由は判明した。
過去の件からニナ様が、ステファニー様のドレスに何か細工したのでは?と疑う気持ちもある。けれど証拠がないのに、責めるわけにはいかない。
「ステファニー様の件は了承しました。けれど、どうしてニナ様が私に会いに?どうせ素直にダンスの先生をしに来たわけじゃないんでしょう?」
私は警戒心を剥き出しのまま質問する。するとニナ様は、予想だにしなかった言葉を笑顔で返してきた。
「ティアリス様ったら、心配性なのね。私がそんな事するわけないじゃない」
「信用ならない相手には、誰しもそう答えます」
私の返答にニナ様は苦笑する。
「信用ならない……ね。随分と嫌われちゃったみたいだわ。残念」
そう言いつつも、あまり残念そうには見えない。
「何が目的なんですか?」
私が眉を顰めて尋ねると、彼女は一度大きく息を吐いた後、私に美しい笑みを向ける。
「ふふ、これを覚えているかしら?」
不適な笑みを浮かべる彼女がドレスのポケットから取り出したのは、私がベッドでスヤスヤと眠る写真だ。しかも一人ではない。デミアン君扮するショーン様と添い寝をしている、実に黒歴史な恥ずかしい写真だ。
一瞬、まだあの時の事を根に持っているのだろうかと呆れた。しかしすぐにニナ様の魂胆に気付き、私は青ざめる。
「まさか、脅すつもり?」
私はニナ様をキッと睨みつける。
「あら、しばらく会わないうちに、少しは賢くなったみたいね。もし私がこれを新聞社にリークしたらどうなるかしら?」
「それは……」
だいぶまずいと、私は動揺する。
「エメル殿下の婚約者がまさか、ホストと肉体関係を持っているとあっては、宮廷内でのあなたの評判がどうなるかしらね?」
殿下とキスすら出来ない私が肉体関係などある訳がない。そう指摘したかったけれど、話が長引きそうなので、私は無視する事にした。
「脅したって無駄よ。私の名誉なんてどうでもいいもの」
そもそも庶民出身の私は貴族が当たり前と思う礼儀作法やマナーが身についていない。だから今、それなりに頑張っている所だ。けれど、いくら頑張ったところで生粋の貴族には敵わないし、そもそも肩を並べて争う気もない。
私は庶民として育った。そしてそれを恥じる気もサラサラないので、正直評判なんて別にどうでもいいと思っている。
「どうぞ、新聞社にリークしたら?」
私が毅然な態度で言い切ると、ニナ様は拍子抜けした顔でこちらを見た。
「本当にいいのかしら?それだと殿下が困る事になるわよ」
「殿下が困る?」
「皇子殿下の婚約者にスキャンダルが発覚する。すると帝国民は「なんであんな女と」「庶民なんか選ぶから」なんて、あなたの事を蔑み、非難するでしょうね。だって国民は皇族に品行方正であれと願うから」
ニナ様は不敵に微笑む。
「そしてエメル殿下がスキャンダラスなあなたを手放さなかった場合。多くの人間から、陛下を含む皇族は同情よりも怒りをぶつけられる事になるわ。絶対に」
ニナ様の放った言葉に私は啞然とした。
彼女は私のせいで、皇族の皆様が非難される可能性を示唆している。そんなことあり得ないと思いたい。だって悪いのは私だから。
けれど、私達は国の代表である皇族に対し、特別な感情を抱いているのも確かだ。そして、皇子が結婚するとなれば、その相手が皇室や王室にふさわしい人物であるかどうか、その人物の性格や品性に注目する事は間違いない。
しかも今回婚約願いの儀で、私達は既に陛下に認められてしまっている。となれば、陛下までバッシングされてしまうかも知れない可能性がある訳で。
「そんな……」
その事に気付いた私は愕然とする。
「あなたの目的は何?」
私が震える声で尋ねると、ニナ様は意地悪く口元を歪ませた。
「物分りが良くて助かるわ。殿下との婚約を破棄して頂戴」
「無理よ」
私は即答する。既に私達の婚約は陛下に認められてしまっている。陛下の決定は絶対だ。そんな簡単に覆せる事じゃない。
「だったら、これから新聞社にこれを持っていくわね」
指で摘んだ写真をヒラヒラと振るニナ様に、私は唇を噛みしめる。
「卑怯よ」
「何とでも言えばいいわ。弱みを握られたあなたは、いくら吠えても既に私に完敗しているもの」
返す言葉もない。彼女の言う通りだ。
八方塞がりの状況に、私は何とかニナ様を説得できないかと思考を巡らせる。しかしすぐにそんな事を考えても無駄だと気付く。そもそも彼女は平気で私を屋根裏に閉じ込め殺そうとする人間だ。私が大嫌いでたまらないみたいだし、常識が通じる相手でもない。
「考える事も出来ないようだから教えてあげる。殿下に嫌われたらいいわ。そうすれば殿下がきっと、自ら婚約破棄を陛下に願い出るだろうから。どっちにしろエメル殿下の評判は下がるけれど、陛下の評判が下がる事はないでしょう?むしろ愚かな息子を持った可哀想な父親だと、全国の子どもを持つ親から同情されるかも知れないわ」
ニナ様の言葉に、私は思わず眉を顰めた。
確かにその方法ならば、陛下にいらぬ汚名を着せずに済む。けれどエメル殿下を傷つける事になるのは確実だ。でも、他にいい方法が思いつかない私には、そうするしかないのも現実で。
「わかったわ。エメル殿下に嫌われればいいのね?」
私は降ろした手を強く握りながら告げる。
「ええ。お願いね。あ、それと私を騙そうとしても無駄よ。宮殿にも、貴族の中にも、どこにだって私に情報をくれる優しい人はいるのだから」
ニナ様は暗に私にズルはするなと告げる。
「それから、期限は三日後に行われる舞踏会の日まで。頑張って下さいね。陰ながらあなたの成功をお祈りしております」
「三日後って」
実質二日しかない。そんなの無理だ。しかしニナ様は私の意見に、聞く耳を持つ。
そんなつもりはないようで。
「ティアリス様、楽しい時間をありがとうございます」
ドレスの脇を持ち、これ見よがしに教本通りの淑女の礼を取るニナ様。最後に私に勝ち誇った笑みを浮かべると、その場を優雅に去っていく。
「そんな短い間に婚約破棄しろだなんて無理よ……」
私は呆然と立ち尽くす。けれどあの写真を所持する彼女に私はどうする事も出来ない。だから三日で何とかしないと、みんなに迷惑をかけてしまう事になる。
「ごめんなさい、殿下」
立ち去るニナ様の後ろ姿を見送りながら、私は思わず涙ぐむ。
こんな形でエメル殿下を裏切りたくはない。けれど、他に回避する術が思いつかない。出来るならやりたくないけれど、どうする事もできない。
「ごめんなさい」
私の涙がポロリとドレスに落ち、淡い黄色に濃いシミを作る。
それはまるで、美しい人達の中に無理やり存在しようとした私のよう。
自分が過去にしてしまったこと。それからニナ様の罠にはまり、自分の信念を曲げざるを得なかったこと。大好きな人の評判を落として、さらには傷つけてしまうこと。その全てが情けなくて、惨めで、悲しくて、私は今すぐ消えてしまいたいと願ったのであった。




