049 幸せに足りないもの
冬の寒さが去り、春の陽光が街を包み込む。
街路樹には新緑が芽吹き、風にそよぐ葉が心地よいざわめきを奏でる。路地裏にはウィンドウボックスに植えられた花々が街の彩りに賑わいを添えていた。
街角には、活気溢れる市場が賑わいを見せ、新鮮な野菜や果物が並ぶ光景が広がっている。
街を歩く人々はみな、軽やかな足取りで春の訪れを感じ、新しい希望と活力に満ちた一日を迎えているようだ。
明るく帝都の街を照らす春の訪れは、街に生まれる新たな活力をもたらす。人々の心には、暖かな季節の到来に対する喜びと希望が芽生え、帝都全体が明るく輝いているようだった。
早いもので、私が塔を出てから一年が経とうとしていた。
デミアン君は無事、古代魔法研究所の試験に合格。正式に職員となった彼は、新人研修という名目の元、様々な部署を渡り歩き先輩達から頼まれるお使い業務に勤しんでいる。
私はというと、結局古代魔法研究所に出戻り、エメル殿下の助手として、後世に残す知識の一つとして古文書の解読に勤しむ日々だ。
詰まるところ、わかりやすい学歴も職歴もない私を受け入れてくれる真っ当な仕事なんて、現代には存在しなかったのである。
世界を救った英雄に現代社会は厳しい。
学歴も業務成績も数値化されわかりやすくなった分、見えない頑張りが表に出にくい。
百年後の世界は持たない者に、わりと冷たいのである。
※※※
現在私は、正式な配属を待つ身であるデミアン君がいなくなり、少し広く感じる殿下の執務室にて仕事中。
一人古代語と格闘し、目が霞み始めた。
そろそろ休憩でもしようかと顔をあげた瞬間。
「まずい」
エメル殿下が突然勢いよく椅子から立ち上がった。そのせいで、大きな執務机の上に所狭しと乗せられていた書類やガラクタ……遺物が床にガラガラと雪崩のように崩れ落ちた。
「うわぁ、やっちゃいましたね」
「す、すまない。激しく動揺してしまったから」
殿下は手にしたエーテルフォンの画面を眺めながら、気まずそうに謝罪の言葉を口にした。
「激しく動揺って、国の未来にかかわることですか?言ってくれれば、いつだって魔法をぶっ放しますよ」
この一年、私が魔法を使ったのは一回のみ。今やその恩恵を日々感じるウォシュレットに対し使った時のみだ。
そろそろ魔力を全力で解放したいと常々思っていた。
私は国の有事かも知れない状況に、不謹慎に少しだけ心踊ってしまう。
「いや、我が国は至って平和だ」
「ちっ」
「舌打ちするな」
殿下はしゃがみ込み床に散乱した書類を拾い上げると、机の上に次々と置いていく。
「その、つまり、君の誕生日を……すっかり忘れていたんだ。すまない」
手にした良くわからない土偶に向かい、殿下はボソボソと懺悔の言葉を口にした。
「なんだそんなこと。別に祝っていただかなくて大丈夫ですけど」
私は気のない返事を返す。そもそも私だって忘れていた程度のもの。それにお祝いされなかったと言って拗ねる年齢でもない。
「そういうわけにはいかないだろう。君の誕生日は英雄で賢人であるティアリス様の生誕を祝う日だ。国民はみな、彼女の誕生を春の到来を喜び祝う。聖地巡礼し、今があることを感謝し、礼を述べなければならない。そこには私情など挟む余地もないのだッ!!」
荒ぶる殿下が手にした土偶が小刻みに震えていた。
「よし、ティアリス嬢。今週末はパトーラに旅行だ。聖地巡礼に共に行くぞ」
「えー、遠いし」
「聖地巡礼、というか、君は自分の故郷を訪れたくないのか?」
しゃがみ込んだまま、殿下が探るような目で私に視線を向ける。
「行きたくないわけじゃないです。でも別に実家があるわけじゃないですし」
会いたい人は、とっくに亡くなりもういない。
そのことを改めて感じ、また悲しい気持ちになりそうで、乗り気じゃないだけだ。
「そうか。そうだよな。わざわざ帰る必要もないか」
私が醸し出す雰囲気から何かを察したのか、殿下は手にした土偶を机の上に戻すと、散乱する書類をかき集める作業に戻った。
肩を落とし、どんよりとした雰囲気をまき散らす殿下の背中は、何だかいつもより小さく見える。
「そんなにがっかりしないでくださいよ」
「いや、俺が悪かったんだ。君の気持ちを考えず、聖地巡礼などと浮かれ、日々の業務で溜まったストレスを旅先で発散しようなどと、自分勝手に願ってしまったのだからな」
しゃがみ込んだ殿下は拾い上げた書類をポイポイ机の上に置いていく。
「別にいいんだ。今週末も帝都にいる限り、予定が埋まるだろうが、俺は皇子だし、それをこなす義務があるしな」
殿下はいじけた様子で、床に転がる土偶に手を伸ばす。
どうやらエメル殿下はストレスマックス、気分転換がしたいようだ。
私は書類を拾いながら、珍しく覇気のない殿下の背中を見つめる。
確かに最近のエメル殿下はオーバーワーク気味だと言えなくもない。封印の塔に関する調査報告書作成に、古文書の解読、英雄が登場する絵本を作成するプロジェクトの監修、それから皇子としての業務のあれこれに、連日連夜開催されている春を祝いあちこちで開かれる舞踏会などへの参加など、馬車馬のように働き続けている。さらにデミアン君が新人研修の今、彼が担当していた仕事も殿下が請け負ってくれているという有様だ。
流石に出来る男だとしても、いくらなんでも働きすぎな気がする。
現にしょんぼりと肩を落とし、拾った土偶を眺める殿下の目の下には濃い隈が出来ていた。
「ふぅ、余計な仕事を増やしてしまい、すまなかった」
床に落ちた土偶を全て拾い上げた殿下が立ち上がり、書類を拾うためしゃがみ込んでいる私に手をのばす。
私は、差し伸べられたその手をジッと見つめる。
「いいですよ、一緒に聖地巡礼とやらに行きましょう」
私は言いながら、殿下の手を借り立ち上がる。
「いいのか?」
私の声に反応した殿下は私の手をギュッと握り返してきた。多分喜びが手のひらに抜けていったのだろう。単純でちょっと可愛い。
「殿下は祝ってくれるんですよね、私の誕生日。プレゼント、期待してますから」
私は拾った書類を「はい」と差し出す。
「プレゼントか……」
手を離し、私から書類を受け取った殿下は悩ましい表情をしている。
どうやら私は殿下の悩みの種を、また一つ新たに提供してしまったらしい。
「冗談ですよ。旅行なんて魔物討伐の時以来だし、私も楽しみです。だからプレゼントなんていりません」
私は明るく言い捨て、自分の席に戻ろうとくるりと踵を返す。
「君は何が欲しい?」
背中に殿下の声がかかる。
「だから、大丈夫です。殿下にはお世話になっていますし」
私は自分の椅子に座りながら答える。
すると私の横に影が落ち、殿下が私の机に手をついた。
「君は何が欲しい?」
有無を言わせぬ声と、真剣な眼差しに私は思わず身を固くする。
「その、私は何が欲しいんだろう?」
考えてもみなかった事に、逆に聞き返してしまう。
私の困惑の表情に、殿下はがっかりしたように肩を落とした。
「別にこれと言ってないんですよ。欲しい物」
「欲しいものがないとなると、俺が何を送っても君は喜ばないという事になる。ならばそもそも送る意味がない」
「そんな暴論を言われても、本当にないんですよ。今わりと幸せですし」
住む家もある、仕事もある。友人にも恵まれている。これ以上の幸せがあるだろうか。
「あ、恋人がいない」
私はふと、自分に足りないものに気付いた。
恋人いない歴二十年。誕生日が来たら二十一年。帝国暦で言えば、百二十一年ほど、私には恋人がいないことになる。流石に人生で一度くらいニナ様のように誰かに夢中になってみたい気もする。
「恋人がいないって、なんか人生を全て満喫してないというか、むしろ損してる気がしてきました」
「……刺さるな、その言葉」
殿下はふぅと深い息を吐くと天を仰いだ。
「なんか、寂しいですね、私達」
「みなまで言うな」
殿下と二人、妙にしんみりとした空気に包まれ、各々物思いに耽るのであった。




