◇とある先輩令嬢の憂鬱 ②
「まあ、なんて酷い話なの。品性の欠片もない考えなしの愚か者に婚約を破棄された挙句、反論の一つもせずに蹲って泣いているしかなかった——だなんて、あまりに馬鹿げているわね」
学内に用意されている一室にて。
シュペルヴィエル公爵令嬢は私から事の経緯を聞き出すと、心の底からつまらない話を聞いた、という態度のままに、手元のカップを持ち上げた。
従者——なのだろうか? 連れ歩いていた彼が淹れてくれた紅茶は、とても美味しい。心を落ち着かせる効果でもある品なのか、私は真正面から浴びせられる容赦のない評価にも、ただ曖昧に笑みを浮かべて頷くばかりだった。
「仰る通りかと思います……」
実際、私はあの場でもう少し真剣に、食い下がるべきだったのだ。ショックを受けて泣いているばかりではなく。
アリオンは正式に婚約を破棄した、などと言っていたが、父からはそんな話は聞いていない。
恐らくは我が家よりも強い力を持つ他家に援助を持ちかけられて気が大きくなり、疎ましく思っていた私に一刻も早く別れを告げたくなったのだろう。
彼は一度でも気に入らないと思ったものには、早々に見切りをつけてしまう癖がある。
学業においても実になる前に飽きてしまうので、はっきりと聞いた訳ではないが、彼の成績は常に下位にあるようだった。
この点では地道に技術を磨いて財を成した父とは折り合いが悪く、父はしょっちゅう、彼にまともな兄か弟が居れば……とこぼしていた。
「エンヴェラー家の者なのでしょう? だったら仕方がないわね」
澄ました顔でカップを下ろした彼女は、確かな嘲笑を滲ませているにも関わらず魅入ってしまうほどに美しい笑みを浮かべて、笑い混じりに続けた。
「評判のエンヴェラー家の嫡男にして、学内では〝春の夜妖精〟との呼び声高い御子息ですもの。大方、学園規則を曲解して、学生の間ならば多少の無茶は許されるとでも考えたのでしょう」
春の夜妖精、とは、端的言えば、我が国では『容貌ばかり優れた頭の軽い者』を笑う時の蔑称だ。
昼に現れる妖精は慈愛と希望に満ちた生命の象徴だが、夜の妖精は基本的には性愛を求め淫蕩にふける享楽の象徴である。
昼夜を合わせて釣り合いを取るからこそ春妖精は繁栄を示すモチーフとなっているので、どちらが欠けてもならないものではあるのだけれど。
後者の面ばかりを持ち合わせると揶揄されるのは、非常に不名誉なことではある——とは、学園生くらい年の者なら誰しも知っている、のだが。
まさか、アリオンがそんな風に呼ばれている、とは知らなかった。
家格の低い身である上に、元々社交的な性格をしていない私は、学園内で話せる友人など数人しかいない。
その友人たちも、そんな噂を耳にしたとして、私にまでわざわざ伝えるような性格ではなかった。彼女たちは、私がどれほどアリオンに心惹かれていて、彼に参っているのか知っていたから、むしろ聞かせないように振る舞っただろう。
影でひそやかに回るような蔑称を、聞き咎める機会は皆無だった。
呆然として固まるばかりの私の顔を見て気づいたのだろう。
シュペルヴィエル公爵令嬢は軽く小首を傾げたのち、一転して、浮かべていた笑みを淑女らしからぬからかいを含んだものへと変えた。
「夜妖精も顔負けの頻度で花々の周辺を飛び回っては、美しい羽根を見せびらかしてくださるのですって。麗しの妖精さんは、生涯の伴侶とするのが道端の雑草では、どうにも満足出来なくなったご様子ね」
道端の雑草、こと私は、涼やかな声に笑みを返すことしかできなかった。
否定も弁明もしようもない、紛れもない事実だからである。
あまり手入れが行き届いているとは言えない安っぽい焦げ茶色の髪に、まさしく雑草のようなくすんだ緑色の瞳。
父の仕事を手伝ってあちこち走り回っていたせいもあり、日に焼けた肌は白磁には程遠い。
力仕事にも手を出していたためか、四肢はうっすら筋肉質ですらある。おまけに、女性にしては幾分背が高い。
アリオンよりも高くなってしまうので、私は踵のある靴を一切履かないと決めていた。
何もかもが足りない、地味で野暮ったい女。それが私、クロエ・ナーウィングだ。
雑草と呼ばれても、反論のしようもない。
「貴女って本当に、つまらない女なのね」
「え? ええと……その……はい」
苦笑と共に頷くと、対面に座る麗しの淑女は、なんとも不愉快なものを見た、といわんばかりに眉を顰めた。
ああ、いけない。公爵家の御令嬢の機嫌を損ねてしまうだなんて。どんなお咎めがあるかわからない。
ぴしりと緊張が走り、背を正した私に、卓上で手を組んだシュペルヴィエル公爵令嬢が静かに視線を向けてくる。
全てを見透かすような冷えた視線を前に、震えと共に冷や汗が浮きそうになったところで、彼女は幾分柔らかくなった声音で口にした。
「そうね、その方が良いわ。身丈を気にしているのか知らないけれど、背を丸めていては見苦しくなるばかりよ。せっかくの伸びやかで健康的な体躯も、宝の持ち腐れもいいところだわ。ねえ、少しそこに立ってくださらない?」
「あ、あの……?」
「同じ事を二度も言うのは嫌いよ」
「は、はい! 今すぐ!」
軽く伏せられた瞳が、丸テーブルのすぐ隣を視線で示す。他人にものを命じるのに慣れきっている人間の所作である。私はすぐさま立ち上がり、指定された箇所まで迅速に足を運んだ。
身体の前で手を握り合わせた形で直立する私を、シュペルヴィエル公爵令嬢は小首を傾げたまま眺める。
頭の上から、足の爪先までを視線で撫でた彼女は、私の足先に目を留めると、先ほどと同じように、不快感を露わにするように眉を寄せた。
「学園指定の革靴だけれど、随分とヒールの低いものを選んでいるのね」
「その……私は、背が高いものですから……」
「婚約者よりも高く見せないための無駄な配慮という訳ね。私の目算だと、その靴でも既に貴女の方が高いようだけれど、靴を変えるよりも婚約者を取り替えた方がまだ良い判断と言えるのではなくて?」
それが出来たなら苦労はしないだろう。アリオンと婚約を結べたのも家の繋がりであって、私自身には、魅力というものは欠片もない。選べるような立場にもなければ、選ばれるような立場にすらないのだ。
何の取り柄もない私のような者には、アリオンは勿体ないほどの婚約者だった。悔しくて、悲しくてならないけれど、事実として、そう思っている。
「こんな……私みたいなのを相手にしてくれるような人が、今更見つかるでしょうか……」
女神と見紛うような御令嬢に、みすぼらしさの権化のような己を見定められるのは、もはや懲罰に近い苦痛と恐怖がある。
青ざめた顔で俯くしかない私を見かねてか、シュペルヴィエル公爵令嬢の後ろに控えていた彼が、何事か口にしながら彼女の肩に手をかけようとしている。
が、彼女はその手が見えているかのように軽く振り払うと、自身もまた椅子から立ち上がり、私の前へと立った。
「顔を上げなさい、クロエ・ナーウィング。貴女って本当に、つまらなくて見ていられないわ」
真っ直ぐに此方を見つめるシアンブルーの瞳に射抜かれて、私はやはり、ぎくりとして背を正した。
それは決して、何か能動的で前向きな思いによる所作ではなかったのだけれど、此方を見据える瞳には、ほんの少しの愉悦と、恐らくは期待、のようなものが輝いていた。
「頭蓋に欠片も脳味噌が収まっていないような婚約者が自ら別れを告げてくれたのだから、喜んで受け入れてしまえばいいのよ。もちろん、貴女があの愚鈍な男を自分のものにしたいというのなら止めないけれど、そうやって、自分の足先ばかり見つめている今の貴女ではどう転んでも、どの道すら選べずに立ち尽くす他ないでしょうね」
「それは……、……でも、じゃあ、ど、どうすれば……?」
先程までの階段による差がなくなったために、彼女の瞳は私よりもやや低い位置にある。
出来うる限りヒールの存在を薄くした私の靴と違って、彼女の革靴には、きちんと女性の足を美しく見せるだけの高さがある。
天上人の如き美しさを誇る彼女の存在感を思うと意外だが、靴を脱いで並べば、私よりも頭半分ほどは小さいのだろう。なんだか不思議な気分だ。
だって、眼の前で蠱惑的な笑みを浮かべる彼女は、実際に視認してさえ、私よりも大きくすら感じられる。
「もしも貴女が私の言葉に全て従うというなら、お望みの相手を用意してさしあげるわ」
「す、全て」
「そう、全てよ」
「しょ、詳細を……」
「くだらないこと言わないで」
「そんな、」
「破格の申し出なのだもの、そのくらいのリスクは背負うべきではなくて?」
詳細を聞くこともなくサインをしてはならない、というのは契約における常識である。間違いがない。立場によって署名を拒否できないことはあれど、それだって内容くらいは知らせてもらえるものだ。
この女神のような、否、悪魔のような微笑みを浮かべる少女は、内容の一切を確かめることなく、己の言葉に従え、と言っている。
もしも父がこの場に居たのなら、絶対に書面を起こしてもらいなさい、と言うことだろう。正式な立会人を入れて、詳細を詰めてから受けなさいと言うだろう。
でも、私の直感は、すぐにでも受けろ、と言っていた。とある日に、父の所有する工場で、鉄材に不規則な魔力軌道を感じたのと同じように。
父は私の不確かな一言から素晴らしい業績を上げてくれた。では、彼女は私の不確かで曖昧な覚悟から、一体どんな結果をもたらしてくれるのだろうか。
「なっ、内容に触れない質問は許されますか?」
「構わないけれど」
「どうして、ただ見かけただけの私などに、此処まで親切にしてくださるんですか?」
くだらないものだったら切り上げよう、という空気を感じつつ、恐る恐る口にする。
どういう訳か、面食らったかのような顔で幾度か瞳を瞬かせたシュペルヴィエル公爵令嬢は、口元に指を当てて数秒の間を置いたのち、あっさりとした声音で口にした。
「だって、あのままカレリア・ウィシャスが浮かれ咲いているなんて、我慢がならないのだもの。あの女と来たら、私のものに不躾な批評を浴びせたのよ。愚かしい火遊びの責任くらいは取るべきでしょう?」
アリオンのお相手は、ウィシャス伯爵家の御令嬢——カレリア・ウィシャスだそうだ。
それすら知らない。知らなかった。あまりにも学内の噂に疎すぎる。
いかに自分が、己の足先ばかり見て歩いていたのかを思い知って、もはや別種の苦しみすら抱いているくらいだ。
カレリア・ウィシャスは私より一つ上の学年に所属する先輩で、その儚げな美貌で学園内に名を響かせている御令嬢だ。
ウィシャス伯爵家は金属加工業を担っている家柄で、大規模な工場を幾つも所有している。端的に言えば、我が家の完全なる上位互換という訳だ。
なるほど、美しい上に十分な支度金も用意できる、家柄も申し分ない女性が手に入った——ともなれば、アリオンは間違いなくそちらを選ぶ。
彼の目にはもはや、私は使い勝手のない廃材の如く映ったことだろう。
「や、やります」
一歩を踏み出した私に、対面の彼女は満足そうに笑みを深めた。その更に後ろに立つ彼は、ああ……という顔で軽く額を押さえていた。どういう訳か、この場で一番疲れているように見える。
そんな様子の彼に構うこともなく、シュペルヴィエル公爵令嬢は壁にかけられた時計へと目をやると、明日の同じ時間に此処に来るように私に言いつけた。
肯定を返す私の頬からは、もうすっかり涙の跡は消え失せている。
それがよいことなのか悪いことなのか、今ひとつ掴めなかったけれど、踊り場で蹲っていた時の淀んだ気持ちは、涙の跡と同じく綺麗に消え去っていた。
「なんかあの先輩、ルーシェさんに似てるな」
「なんですって? 冗談でしょう、欠片も似ていないわ。全然。少しも。二度と口にしないで」
別れ際、聞こえてきた名に、覚えはなかった。
学内に知り合いの多い方ではないから確証はないけれど、あの二人の間に出る程の名前なら、きっと私が知るような範囲にはない人なのだろう。
反論を口にするミシュリーヌ嬢の声音が随分と、そう、拗ねた幼子のような響きを持っていて、あまりに意外なそれに、私はしばらくの間、去っていく二人の背を見つめてしまった。




