◇とある先輩令嬢の憂鬱 ③
予想していた通り、父の方にも婚約破棄の話は一切通っていなかった。
アリオンは何をもって〝正式に破棄された〟などと言っていたのだろうか。それも、あんなにも自信に満ちた態度で。
「熱に浮かされて頭の茹だった御令嬢の戯言を真に受けたのでしょう。自分が花の回りを飛び回る羽虫のひとつだと知ったら、憤りのあまり花を手折りかねないとは思うけれど。まあ、花というより腐り落ちた果実同然の女ですもの、今更どう傷が残ろうと気にしないのかもしれないわね」
カレリア・ウィシャス伯爵令嬢は、卒業後には南方の辺境にある侯爵家に嫁ぐと決まっているのだという。
お相手は二十ほど年上で、ウィシャス伯爵令嬢を大層可愛がっており、王都で過ごせる貴重な機会なのだから、と学園では好きに過ごしなさいとまで言っているのだそうだ。
ちなみに、この情報はミシュリーヌ様——と呼んでもよいと言われた——が秘密裏に入手したものであり、学内ではウィシャス伯爵令嬢は、あの美貌でありながら婚約者がいないだなんて、と囁かれている。表向きは病弱であるとの噂になっているので、遠方に療養に向かうことになっている、そうだ。
ウィシャス伯爵家としても、致命的な間違いさえ起こさなければ、政略によって遠方に嫁ぐ娘にはある程度の遊びは許しても良いと考えているらしい。
実際、彼女はこれまで非常に巧妙に、後腐れ無く遊びを愉しんでいたようである。あの目立ちたがりのアリオンが、人目につかない場所を選んで私に話をつけたのも、御令嬢が関係性を伏せるように誘導していたからなのだろう。
それでも我慢がならずに先んじて私に婚約破棄を叩きつけてしまうあたり、アリオンは遊び相手には向いていような気もするのだが。
それにしても、よかった。私があんまりにも噂に疎いばっかりに、婚約者の浮気相手すら知らないままではなかったのではなくて。いえ。全然、よくはないのだけれど。
「碌な審美眼も持たずに腐臭を撒き散らすばかりの女が、我が物顔で学園の女王を気取っているのですものね。まったく、喜劇にするにも陳腐で鑑賞に値しないわ」
ところで。ミシュリーヌ様は大層ご立腹である。
ウィシャス伯爵令嬢には余程の無体を働かれたと見えるが、具体的にどんなトラブルがあったのか聞く勇気は、私にはなかった。
恐らくはミシュリーヌ様が身につけている装飾品か何かを、迂遠な言い回しで貶すなどしたのでは……と考えてみるものの、然程しっくりは来ないでいる。
学園内では生徒の自主性を重んじているとはいえ、貴族としての付き合いが生じるような相手にそんな無作法をするはずもなく。
それも、学内では白薔薇の姫と名高いウィシャス伯爵令嬢が、後輩である令嬢を相手にそんな真似をするとは思わなかった。
あるいは、ミシュリーヌ様の所持品をそうとは知らずに蔑んでしまった、というような状況があったのかもしれない。
ええと、たとえば落としてしまった髪飾りを拾って、意匠が詰まらないなどと思わず口にしてしまった、だとか?
これもまた噛み合わない推測だ。ミシュリーヌ様の身につけるものは大抵が王都の最先端を行くもので、彼女の入学後から、淑女の間でその後追いが流行っている。
「それで? 貴方はその羽虫のような男を引き寄せたいのか、叩き潰したいのか、どちらなのかしら」
何にせよ、木っ端の家柄の人間には思いもよらないような事柄なのだろう。
手繰り寄せても手がかりのない憶測に思考を割くよりも、今は自分事の問題を解決するのが先だった。
「ええと……結局、婚約は正式には破棄されていない状態だった訳でして……関係回復に努めようかと……」
「あら。貴方の素敵なお父様が、愛する娘を侮辱されてまで結ぶ価値のある婚約だとは考えていなかったわ。もしや、何か弱みでも握られているの?」
実際、父は激怒した。まさか婚約って破棄とかされていないよね……と遠回しに尋ねたところ、すぐに何かあったのかと聞き出され、事情を知った後は、母が一時間かけて宥めなければエンヴェラー家に怒鳴り込んでいくようなところだった。
そもそも、家格として釣り合わずとも、ナーウィング家は婚約の際に資金援助を持ちかけているのだ。契約不履行があれば、正義は我が家にある——とは言えるのだが。
「いえ、その…………」
いつもの癖で足元に視線を落としつつ、いつもとはまるで違う手触りの髪の先を、拠り所にするが如く指の先で梳いてしまう。
これは落ち着かない時や、恥ずかしい時、言い訳をせねばならない時に出てしまう、私の癖だった。
ミシュリーヌ様が持ち込んだ香油によって丁寧に手入れされた髪は、普段とまるで異なる感触を私の指に伝えている。
するすると逃げていくそれは、どうも手慰みとするには心もとなかった。
「あの………………」
「なあに。まさか本当に、弱みでも?」
「いえ………………」
弱み、と言ったならそうかもしれない。そう、惚れた弱みというやつである。惚れるに至った経緯としての、弱みである。
ただ、これを口にするのは——特にミシュリーヌ様のような人の前では——大分、勇気がいる行為だった。
「顔が……………好きなんです…………………」
「顔」
「はい………………」
本当に。なんて情けない理由だろうか。
あまりの居た堪れなさに、ぎゅっと目を閉じてしまう。
けれども。仕方がないのだ。
アリオンは妖精(たとえ、非常に不名誉な意図であっても)に喩えられるだけあって、大層容姿が麗しいのである。
白金を思わせるような艷やかな銀の髪に、人目を惹きつける極上の輝きを放つマリンブルーの瞳。全ての配置が芸術的なまでに整っており、おまけに声もいいと来た。
あんな奇跡の妖精のような人が、突然、資金難のせいでそのへんの雑草を結ばれることになったなら、それは確かに、不満を抱いて当然なのだ。腹立たしくはあるのだけれど。でも。
「どうしようもなく好きなんです…………」
「そう」
「うう………………」
「嘆くことはないわ。美しいものには心惹かれるのが道理ですものね」
からかいもなく、責めるような口ぶりでもないことに、私は更に居た堪れなくなってしまった。
ミシュリーヌ様はご自身も類まれな美貌を宿しているために、あまり人の美醜には興味がないのだろう。いや、美貌を磨く努力をなさっている方だから、興味関心がないのではなく、耐性がある——とでも言った方が正しい。
私だって、もしも自分がミシュリーヌ様のようなご尊顔を持ち合わせていたのなら、毎日鏡で見る内に、麗しの美貌にも慣れていくというものだ。
いや、と一旦否定する。果たしてどうだろうか。アリオンと三年も顔を合わせておきながら一向になれる気配がないのだから、結局のところ、これは私の性分というものなのかもしれない。
「別に、手を差し伸べた先に別の愚か者が転がっていたとして、私が気に留めることではないもの。ただ、そうね。たとえば貴方、あの麗しの妖精さんが二目と見られない姿に成り果てたとしたら、どうなさるつもりなのかしら」
「えっ……ええと、それは……でも……ま、まさか」
「嫌だわ。私があんな害虫に触れるとでも? 例えばの話よ。人生は長いのですもの、そういった不幸もあるものではなくて?」
ま、まさかアリオンを二目と見られない姿になさるおつもりで?という意味合いの目を向けた私に、ミシュリーヌ様は肩を竦めて答えた。
彼女が入学して一月。噂に疎い私でも、その振る舞いの苛烈さは耳にしている。だが、単に可能性としての話のようだった。
アリオンの美しい顔が、何らかの事故によって損なわれる。想像したことはない未来だが、絶対に有り得ないとは言えないだろう。
彼を愛おしく思う一番の要因が失われたとして、その時に私は、彼と変わらぬ関係を築くことが出来るだろうか。
少しの間、考えてみる。
初めて顔を合わせた時の、完璧に取り繕った美しい笑みを思い出す。アリオンだって、何も初めから私に愛想をつかしていた訳ではない。
私の好みの手土産を用意してくれたこともあったし、私の趣味に興味を示そうとしていた時期もあった。
ただ、彼が言った通り、もしも私よりもよりよい相手が現れたのだとしたら、「釣り合うとでも思っているのか」と聞きたくなるような相手なのである。私は。
私という存在の価値は、ナーウィング家の長女だからこそ生じているものなのだ。ちょうど、眼の前の麗しの御令嬢が、私の名を覚えていた理由がそうであるように。
「……関係を維持する努力はすると思います。もちろん、彼の容姿に心惹かれたのは事実ですけれど、何よりも家同士の結びつきのための結婚ですから。私のような取り柄のない女に役目が与えられたのなら、それを全うすることこそが愛なのだと思います」
ナ-ウィング家は成り上がりと呼ばれるだけあって、貴族社会とは一定の距離のある家だ。
家業があるのだから自由恋愛とはいかないまでも、父にとっては娘に政略結婚をさせるつもりなどなかっただろう。初めは、技術者として優れた人間を婿に取る予定でいたようでもある。
ただ、娘である私が、父にとって道を開く鍵となるような存在になれるのならば、それは私にとっても、何より嬉しいことだったのだ。
「愛、ね」
父に対しても、アリオンに対しても、という意図を、彼女は正しく読み取ってくれているのだろう。
私にとっては愛情を示すというのはそういうことだった。だって、関係性において、欠片も苦難が生じないなんてことはないだろう。もちろん、相性のよい相手と出会えたのなら嬉しいけれど、私が結ばれようとしていた相手はそういう人ではなかった。それだけだ。
「私が示したものに同じ愛情が返ってくる、とは端から思っていません。学園で共に過ごす時間が増えることでそうなればよい、とも思っていましたが、それも私の努力不足で叶いませんでしたし……」
「ええ、そうね」
「う、はい…………」
ミシュリーヌ様の後ろに控える少年——ダン、と呼ばれているが、ミシュリーヌ様はそれ以上彼を紹介する気配はなかった——が、何か言いたげな顔をしている。具体的に言えば、彼女の発言を咎めようとしている顔をしていたが、苦笑する私を見やった彼は、そのまま私の意図を汲んで、口を閉ざした。
「方向性が誤っている努力が実らないのは当然のことではなくて? ただ進んでいれば目的地に辿り着くのならば人生に苦労などないでしょう。何かを成し遂げるには、正しい道を見定めなければならないものよ」
何度見ても美しい、透き通るようなシアンブルーの瞳が私を見つめる。
昨日と同じく、頭の天辺から足の爪先までを視線で撫でた彼女は、手入れを終えたばかりの髪をもどかしげに指で梳く私の手を、添えた指先の軽い力のみで止めた。
「私の言葉に全て従うと誓ったわね?」
「も、もちろんです」
「そう。だったら、貴女はこれから先、〝私なんて〟と考えるのをやめなさい」
言葉の意味を捉えかねて、返事も出来ずに見つめ返すだけの私の視線に返ってくるのは、美しい澄んだ輝きだけだ。
正の感情も、負の感情もないそれは、何処か、果てのない凪いだ海を思わせるものだった。
「過小評価するのも、卑下するのも駄目よ。貴女みたいな人は、そうしていると楽なのでしょうけれどね」
棘も毒も含んでいるように聞こえる言葉だというのに、その響きは随分と柔らかいものだった。
吸い込まれるような輝きを前にしていると、そうしなければならない、と信じてしまいそうになるから不思議だ。
彼女がやめるべきだと言ったなら、きっと、そうするべきなのだ。意味も理由も、特に要らない。従うからと約束をしたから、という訳でもない。単に、そういうものなのだ。
気づいた時には私は、何かに魅入られたかのように頷いていた。
「ああ。それから、私をお父様に紹介してくださる?」
にっこりと。微笑みをもって告げられた此方の言葉と意味に関しては、不出来な――ああ、こういうのが駄目なのだ――私でも、すぐに理解が出来た。
◇
「クロエ、なんだか最近ますます綺麗になったねえ」
しみじみとした口調で言ったのは、友人の一人であるシェリーだった。のほほんとした可愛らしい顔立ちの彼女は、いつも繊細な装丁の少女小説を手にしている。
その趣味の通りに恋物語を好む彼女は、最近の私の変化に強い興味を示していた。
けれども、同時にアリオンの噂も当然知っているのだろうシェリーが、深く突っ込んだ質問をしてくることもなかった。
今だって、そこから理由を尋ねるようなことはしない。だから、彼女が告げたのは本当に、心から思っただけの事実なのだろう。
「そうかな? ありがとう、嬉しいわ」
「ふふ」
どうやら、私の努力は着々と報われているらしい。この一月、ミシュリーヌ様から送られる指示に忠実に従っているだけはあるようだ。
嬉しくなって素直に礼を言えば、シェリーはぱちりと目を瞬かせたあと、嬉しそうに口元に手を当てて微笑んだ。何か楽しいことでもあったのだろうか。
不思議に思って尋ねると、シェリーは上機嫌に微笑んだまま、優しい声音で口にした。
「前まで、いくら褒めても全然届いている気がしなかったのに。本当に綺麗になったね、クロエ」
心からの喜びを含んだ声だった。そのまま、何だか華麗なステップでも踏み出しそうな程に。
隣に立つシェリーの様子を横目にしつつ、私は彼女が以前から口にしてくれていた励ましの言葉を思い出していた。
シェリーは前々から、アリオンとの距離が出来たことで自信を失って落ち込む私に寄り添うような言葉をかけてくれていた。
クロエは綺麗だし、勤勉だし、頑張り屋で自慢の友達だよ、と。アリオンの周囲に集まるご令嬢方に負けているところなんか微塵もないんだから、と。
私はその言葉の全てを、学園内の友人として表面上励ましてくれているだけなのだと思っていた。
野暮ったくて、みすぼらしい。私は私をそう評価していたし、誰にとってもそうだと信じていた。
「クロエが、クロエを綺麗な人だって認められるようになったの、私とっても嬉しいな」
鼻歌混じりに囁かれる言葉には、流石に照れ臭くなって不格好な笑みがこぼれる。
前よりもマシにはなったかもしれないけれど。でも――ああ、いけない。いけないのだった。私は前より綺麗になった。
真っ直ぐ背を伸ばして、前を向いて歩くようになって、どうせ無駄だと諦めていた髪を丁寧に手入れして、自分の身体を労って、認めるようにした。
だから、私は前よりずっと綺麗だ。こうして、友達に褒めて貰えるくらいには。
「だってほら、見てみてよ」
ヒールが高くなったせいか、隣に並ぶシェリーは、なんだか前よりも更に愛らしく見える気がする。
親しさを込めて私の腕を引くシェリーが悪戯めいた仕草で指し示す先を見やれば、そこには、呆然とした様子で立ち止まるアリオンの姿があった。
婚約破棄を叩きつけられた一件から、校内でもすれ違わないように気を配っていたのだけれど、このところあまりに忙しくて、そんな配慮も忘れてしまっていた。
私が一目惚れした時から変わらない、長い睫毛に縁取られた美しい瞳が、丸く見開かれて此方を見つめている。
そういえば。彼はそもそも、あまり私を見ないのだ。
自分がその相貌を美しく磨き上げているものだから、きっと、努力を怠るような人間は視界に入れたくないのだろう。
だから、彼がこんなにもまじまじと私を視界に収めていたのは、実を言うと初めてのことである。
なんだか別の照れくささが浮かんできて、すれ違いざま、思わず頬を赤くしながら誤魔化すように微笑みを向ければ、瞳だけでなく、口まで丸く開かれてしまった。




