昨日のこと、なかったことにするのか?(翔太視点)
朝の空気がやけに澄んでいた。
雲ひとつない空に、冷たい風が吹き抜けていく。
制服の袖口から入り込んだ風が肌を撫でて、思わず肩をすくめた。
昨日のことを思い出す。藍が、俺に抱きついてきた。
あの藍が、何の前触れもなく、突然。そして、泣いた。
「おーい、翔太ー! おっせーぞ!」
声が響いた。前から、いつもの調子で手を振りながら走ってくる。
いつものスニーカーの音がアスファルトを叩いてる。藍だった。昨日のことなんて、なかったみたいな顔で。
「翔太、今日もたるんでんな。遅刻ギリギリか?」
「いや、普通に来たけど」
「ふーん。じゃあ、俺が早すぎたってことか。ま、しゃーねーな」
そう言って、ポケットに手を突っ込んで歩き出す。
肩のラインがいつもよりちょっと張ってる気がしたけど、気のせいかもしれない。
昨日のことが、俺の中でまだぐるぐるしてるだけかも。
「昨日さ」
言いかけて、藍がちらっとこっちを見た。目はいつも通り。いや、いつも以上に“何も考えてません”って顔してる。
「……なんか言った?」
「いや、なんでもない」
「そ。じゃ、さっさと行こーぜ。購買、今日こそメロンパン取るからな」
「まだ朝の会も始まってねぇぞ」
「だからこそだろ。先手必勝ってやつ」
そう言って、ズンズン歩いていく。俺はその後ろを追いながら、昨日のことを思い出していた。
あのときの藍は、確かに泣いてた。震えてた。俺にしがみついて、何かをこらえてた。
でも、今目の前にいる藍は、そんなそぶり一つ見せない。まるで、あれが全部夢だったみたいに。
「翔太」
「ん?」
「昨日のこと、覚えてる?」
「昨日? あー、なんかあったっけ?」
「……いや、いい」
「翔太、最近変に真面目だよな。テスト近いからって焦ってんのか?」
「違うけど」
「じゃあ、なんだよ。悩み相談なら聞いてやるぞ? ただし、昼メシ奢りな」
「……藍、昨日泣いてたろ」
「は? 何言ってんの。寝ぼけてんのか?」
「……そっか」
藍は笑った。ちょっとだけ、わざとらしく。
けど、たぶんそれも演技じゃない。藍なりの“いつも通り”なんだと思った。
俺が何か言い出す前に、全部なかったことにして、先に進もうとしてる。そういうやつだ。昔から。
「なー翔太。今日の体育、バスケだっけ? また俺に負けんのか~?」
「いや、今日は勝つ」
「へー、言ったな? じゃあ、負けたらジュース奢れよ」
「なんでだよ」
「勝負の世界は非情なんだよ。甘えんな」
笑いながら、藍は前を歩いていく。
俺はその背中を見つめながら、胸の奥で何かがじわじわと広がっていくのを感じていた。
昨日のことを、なかったことにするには、たぶん、もう遅い。
次も翔太視点です




