34.恋
少し開けられた窓から風が入ってくる。レースのカーテンが遊ばれて、侍女がそれをタッセルでまとめている。
夏のものにしては涼やかで、季節の移ろいを感じさせる風だった。
鳥が高い声で鳴いている。
余韻を感じるほどに長く、澄んだ声。サロンで過ごすには、気持ちのいい午後だった。
窓に向けていた目線を、また手元の刺繍枠に戻す。
刺繍の練習にと、ハンカチに花を刺している。お手本にしているのは、母がくれたハンカチだ。色彩も、バランスも、何もかもが美しい刺繍だった。
同じように刺しているのに、何かが違う気がする。
それに……これを真似して作っても、わたし自身のセンスが良くなるわけでもない。
でも真似する以外に、どうやって刺していいかが分からないのだ。
下絵を描こうとしても手が止まる。自分に自信がなくて、どうしていいか分からない。
小さな溜息をついて、また刺繍に集中しようとした時だった。
隣に座る弟のキールが、わたしの刺繍を覗き込んでいることに気付いた。
「……どうしたの?」
何かおかしかっただろうか。
恐る恐る問いかけると、キールは顔を上げた。その瞳はきらきらと輝いて、頬が紅潮しているのが分かる。
「姉さん、すごいね! この花なんて本当に匂いがするんじゃないかって思うくらいに綺麗だ」
予想外の褒め言葉に、返事が出来なかった。
驚きに目を丸くしていると、キールはどの花が好きとか、この色が綺麗とか、優しい言葉を重ねてくれる。
「あ、ありがとう。でもお母様の刺繍を真似しているだけだから……すごいのは、お母様なのよ」
「お母様の刺繍も綺麗だけど、姉さんのもすごく綺麗だよ」
キールは本当に、そう思って伝えてくれているのだろう。
嬉しいのに、それを……素直に受け取れない自分がいる。
気を遣わせているのではないか。お母様の刺繍を真似しているのだから、褒められているのはお母様だとか……そんな気持ちがわき上がって、胸の奥がぐちゃぐちゃになる。
「ねぇ姉さん。今度、僕のハンカチにも刺繍をしてくれる?」
「ええ、もちろん。……わたしが刺したものでいいの?」
「姉さんの刺繍が欲しいんだよ。何を刺してもらおうかなぁ」
「考えておいてね」
「うん!」
嬉しそうに笑いながら、キールは読んでいた本に目を向ける。
考えておいてと言いながら……実際、考えなければならないのはわたしの方だ。
図案も、糸選びも何もかもわたしがやらなくてはならない。
それが苦なわけじゃない。ただ……不安なだけ。
がっかりされるんじゃないか。いらないと言われるのではないか。
キールは優しい子だから、直接そんなことは言わないだろう。でも……我慢して使わせることになるかもしれない。
ああ、気持ちが悪い。
こんなことを考える自分も、キールのことを疑ってしまう自分も……何もかもが嫌いだわ。
***
その報せが届いたのは、高くなった空が秋を感じさせる日だった。
父の執務室に呼ばれたわたしに告げられたのは、わたしに婚約の打診が来たという話だった。
ラナの言葉が頭を過る。
『それなりの嫁ぎ先を見つけてくれるでしょ』
『政略結婚で役に立つしか、もう道は残されていないわ』
どんな家からの打診なのだろう。
受け入れる以外の選択肢はないのだから、嫁ぐことでわたしが役に立てるような家だったらいい。
「相手はローヴァイン公爵家だ」
予想外の言葉に、目を瞬いた。
格上の公爵家からの打診……?
確かローヴァイン公爵家に居るのは、嫡男のレオシス様だけだ。
でも、まさか。
落ちこぼれのわたしに、レオシス様との婚約打診が来るわけがない。
同じ家門の誰かだろうか。
そんな風に、いい方に物事を捉えられない自分も嫌だ。
期待しないように、自分を守っている浅ましさを自覚してしまうから。
「嫡男のレオシス殿との縁談だが、エミリアはどうしたい?」
「わたし、ですか?」
「ああ。お前が嫌なら、この話はなかったことにしよう」
「いえ、わたしは……フューラー侯爵家の利になる家へ嫁ぎますので、お父様が決めてくださいませ」
わたしの意見を聞かれるなんて思っていなかった。
お相手がレオシス様というのも驚いたけれど、公爵家と縁続きになるのならお父様もお喜びになるだろう。
問題は、わたしに公爵夫人が務まるのかという話なのだけれど……。
お父様は困ったように眉を下げ、席を立ったかと思うとわたしの座るソファーにやってきた。
隣に座り、わたしの肩を抱いてくれる。優しくて温かい。
……わたし、いつから素直に甘えられなくなったんだろう。
「では一度会ってみようか。気が合わないようなら、この話は流そう」
「でも、公爵家との縁談はうちにとって魅力的なのでは?」
「そうだね。だが……お前が幸せになる結婚をしてほしいんだ」
「わたしが、幸せになる……」
でもそれだと、わたしは役に立てないわ。
それを言うのは憚られて、ただ頷く以外に出来なかった。
***
顔合わせは、婚約の打診から一週間後のことだった。
場所はフューラー家。わざわざ来てもらうのも申し訳ないと思ったのだけど、打診は相手側からだから来てくれるのだろう。
母が選んでくれた瑠璃色のドレスは、わたしの瞳の色と同じものだ。
レースがふんだんに使われた、とても美しいドレス。
髪もお化粧も、侍女が丁寧にやってくれた。
鏡に映るわたしは、ドレスも髪もお化粧も完璧なのに……美しいはずなのに、不安になってしまう。
「綺麗よ、エミリア」
母がそう言ってくれるなら、きっと大丈夫なのだろう。
わたしが微笑むと、母は……なぜだろう、困ったように笑った。
応接室で両親と一緒に待っていると、家令がローヴァイン公爵家の到着を告げる。
入室したのは、ローヴァイン公爵と夫人、それから──レオシス様。
目が合った瞬間、時が止まったかと思った。
短めに整えられたピンク色の髪。澄んだ琥珀の瞳。
わたしを見つめる眼差しの力強さに、胸が高鳴るのが分かった。
わたしは、この人に恋をしてしまう。
その直感を、理性が押し込めようとする。
だめよ、不釣り合いだから。わたしでは彼の隣に相応しくないから。
でも、レオシス様がわたしに笑いかけてくれた時……わたしは、この気持ちに抗えないのだと理解してしまった。
彼への想いで、この身が焼かれてしまうかもしれない。
そう思わせるほどに、眩い気持ちだった。




