25.静寂の夜
その日の夜、わたしは宿の裏庭に出ていた。
カーロフの街にあり、子爵がオーナーだというこの宿は、今は貸し切りになっている。子爵家の衛兵が宿の外を巡回しているのは聞いているから、わたしは一人でも庭に出ることが出来ていた。
裏庭に等間隔で焚かれた篝火が、映すもののない夜闇にゆらゆらと揺れているのを、ベンチに座ってぼんやりと眺めていた。
美しい庭だった。
様々な花々が、色彩豊かに配置されている。足元を照らすのは魔石を埋め込んだ常夜灯で、テラコッタ色のレンガで出来た小路は歩きやすい。
『カーロフの郷土料理が美味しくて、リアと一緒ならもっと楽しかっただろうなって』
手紙に書かれていた一文を思い出す。
レオ様も、この庭を見ただろうか。
美味しいと言っていたお料理も、わたしは喉に通らなかった。
何を考えても、何を思っても、あの光景が頭から離れない。
ひしゃげた馬車。馬の亡骸。歪んだ車輪。
馬車の客室は歪んで壊れ、一部は崖下へ土砂と一緒に落ちたらしい。
レオ様も、お義父様も──姿はなかった。
まだ客室の回収作業と、土砂の撤去作業は完全に終わっていない。
もしかしたら、そこにいるかもしれない。
あるいは、崖下に落ちてしまったかもしれない。
今はまだ分からないけれど……でも、その姿を見ることは、叶わなかった。
「……レオ様」
ぽつりと声が漏れる。
掠れた声に、自嘲の笑みが浮かんだ。
あまりにも不安そうで、心細い声だった。
わたしは、彼を信じている。
帰ってくると知っている。
それでも──この不安が消えてなくなるわけじゃない。
会いたい気持ちは募る一方で、気を抜けば涙だって零れそう。
「強いわたしでいられたのは、レオ様がいてくれるからなのに」
レオ様の隣に立てるよう、相応しくあるよう、努力してきた。
彼が愛をくれる以上に、わたしも愛を伝えたいと、そう願ってきた。
レオ様がいてくれたから、頑張れたの。
彼がたくさん褒めてくれて、認めてくれるから、自信を持てていたのに。
「これじゃあ……幼い頃の自分に、戻ってしまったいみたいだわ」
両腕で自分を抱き、身を屈めて丸くなる。
この不安から、寒さから、自分を守るように。
抱きしめてくれる人は、いないから。
不意に、足音が聞こえた。
顔を上げると、気まずそうな顔をしながら立っていたのはギルベルト様だった。
わたしは大きく息を吸うと、姿勢を正して淑女の笑みを浮かべた。
扇は持ってきていない。心を隠してくれるのは、微笑みだけだ。
「エミリア嬢……君の時間を邪魔してしまったかな」
「いえ、構いませんわ。お散歩ですか?」
「うん。……少し、風にあたりたくて。もしよければ、隣に座っても?」
もちろん距離は充分取るし、とどこか慌てた様子で言葉を足す様子に、思わず笑ってしまった。
公爵家のご子息で、最初にお会いした時には貴公子のようにふるまっていたのに。
いまわたしの目の前にいるギルベルト様は……言葉を選ばなければ、等身大の姿を見せているような気がした。
わたしより年上なのに、少し幼く感じてしまうのは、繕っていない素の表情なのかもしれない。
わたしはベンチの端に座り直し、空いた場所を手で示した。
「どうぞ」
「ありがとう」
ギルベルト様はわたしとしっかり距離を空けるよう、ベンチの端にぴったりくっついて座っている。
それがまた可笑しくて、少し笑った。
「……いい街だね」
「ええ、カーロフ子爵が治める街ですから。ローヴァイン領の主要な街は、それぞれ特徴も特産も違いますのよ」
「それはすごい。どの街に行っても楽しめそうだ。この街以外におすすめはある?」
「どの街も素晴らしいのですが……ディトラの街は音楽が有名ですわね。音楽に特化した学園もありますし、至る所で演奏会が開かれていますわ」
レオ様とディトラに行った事を思い出してしまう。
ホールで開催される大きな演奏会も、街角で急に始まる音楽会も心が弾む楽しいものだった。
このローヴァイン領には、レオ様との思い出ばかりがある。
どこに行くのも、何を経験するのも、楽しむのも……全部レオ様と一緒だったから。
そんなことを思い出していたら、また胸が苦しくなってしまう。
分かっているのに、レオ様のことを想わない時なんてなかった。
「……大丈夫、ではないと知っているんだけれど。何か零したかったら、私が話を聞くよ。関係性が薄いからこそ、話せるものもあると思うし。泣きたかったら泣いてもいいと思う。エミリア嬢は……まだ、泣けていないと思うから」
わたしの様子に気付いたギルベルト様が、控え目に声をかけてくれる。
それに瞬きを繰り返して、わたしは……いつものように笑えなかった。眉が下がっているのが分かる。これじゃあマナーの先生にも叱られてしまうわ。
「……ありがとうございます。でも、わたくし……レオ様が帰ってくると信じているのです」
「うん、私もそう思うよ。君を大事にしているというのが、わずかな時間でもしっかり伝わってきたからね。……彼は君を置いて、どこにも行かないよ」
「ふふ、そうでしょう。わたくし、愛されておりますの」
愛されている自信がある。
誰よりも愛している自信がある。
でも、いまここに──レオ様がいない。
それが何よりも辛くて、苦しくて……悲しい。
わたしが泣いてしまいそうなのに、抱きしめてくれる人がいない。
レオ様が傍にいない。
「……アルドリッジ公爵家の全力で救助作業をサポートする。原因が分かれば、その解決も手伝う。盗賊団も壊滅させる。それで君の気持ちが、少しでも晴れたらいいんだけど」
「お心遣いに感謝いたしますわ。ですが、そろそろお帰りにならなければならないのでは?」
「忙しくない、とは言わないけれど。優先順位を間違わないことに定評があるんだ、私は」
「……どうしてそこまで、優先してくださるの?」
夜風が止んだ。
篝火の炎が爆ぜる、ぱちぱちという音だけが静寂の中に響いている。
ギルベルト様の水色の瞳に、わたしが映る。
炎に照らされたその横顔は、あまりにも真摯なものだった。
「君の力になりたいと、そう思うだけだよ」
その心は、どこにあるのだろう。
何を思って、その言葉を紡いでいるのか。
真意を問うことは、出来なかった。




