18.これでさよなら
わたしは膝の上に置いたままの扇を、しっかりと握り直した。
開くことはしない。今日は何も、扇に隠さなくていいから。
「ティアナ様、どれだけ願ってもレオ様があなたと婚約することはありません。それはもう、充分なほどに分かっているのではないですか?」
静かな声で問いかける。
いつものように煽る意図はない。ただ、ティアナ様の気持ちを確認したいだけ。
ティアナ様はわたしの問いに、眉を寄せる。
また噛み付いてくるのかと思ったけれど、組んでいた腕をゆっくりと解いて、深くて長い溜息をついた。
「……分かっているわよ、そんなこと。でも、好きになってしまったんだから、しょうがないじゃない」
ぽつりと零した声は、恋の色に染まっていた。
前に裏庭で、レオ様への想いを吐露していた時のような、甘い声。
「ティアナ様は、レオ様の何を好ましく想っているのですか?」
「……あなたを見る眼差しが、蕩けるくらいに甘やかなものだったの。レオシス様に愛されたら、そうやって大切にされるのだと思ったら……すごく羨ましくなって。好きになったことに、大きな理由なんてないわ。レオシス様を見ていたら、胸が苦しくなる。これが恋じゃないというなら、何なのか教えてほしいくらいよ」
一度言葉を切ったティアナ様は、レオ様へと真っ直ぐな視線を向けた。
ああ、いやだわ。
そんな恋に染まった眼差しを、レオ様に向けるのはやめてほしい。
レオ様は、わたしだけのものなのだから。
醜い嫉妬が胸の奥を焦がしそう。
レオ様はわたしを閉じ込めておきたいなんて言うけれど、それはこっちのセリフなの。
誰の目も届かない場所で、ずっと二人で過ごせたらいい。そんなことを思っているなんて……きっとレオ様にはお見通しなんだろうけれど。
「レオシス様、どうか私を愛してください。あなたがエミリア様を愛しているのは知っています。それでも、私はこれが初恋なのです。諦めたくないのです」
あまりにもストレートな愛を乞う言葉に、わたしの呼吸が乱れた。
思わず扇をぎゅっと握ると、レオ様の手が重なってきた。
大丈夫だと伝えるように、わたしの手を優しく握りしめてくれる。それがなんだかすごく嬉しくて、目の奥が熱くなる。
「アルドリッジ嬢の気持ちには応えられない。俺が愛するのは、リアだけだから」
「あなたが私を好きになってくれるなら、私はなんだってするわ。婚約の条件だって、破格だったはずよ。それだけのものを、私はあなたに捧げられる。だから、お願い」
ティアナ様は泣き出しそうに顔を歪めている。
胸の前で手を組み、祈るようなその様子に必死さが伝わってくる。
「私を愛して」
レオ様はそれに答えなかった。
いつものような微笑もなく、ただ首を横に振るばかり。
その様子を見たティアナ様の顔が、羞恥からかかあっと一気に赤くなる。
これだけの告白をして、断られるとは思っていなかったのかもしれない。
勢いよく立ち上がったティアナ様は、わたしを指差しながら大きな声を出した。
「どうしてよ! 私がここまでしているのに! エミリア様には私の婚約者をあげるから、それでいいでしょう!?」
激昂したティアナ様に、わたしは溜息をついてしまった。
彼女の気持ちが、恋じゃないとは言わない。それを判断する権利はわたしにはないから。
でも……ティアナ様は自分の気持ちを押し付けている。それが愛だとは思わない。
わたしが何かを口にするよりも早く、部屋の温度が一気に下がった。
レオ様を見れば、その瞳が怒りで色を濃くしていた。
「なにも良くないんだけど。リアに他の男を宛がうとか、本気で言ってる? ふざけたことを口にするなよ、ティアナ・アルドリッジ」
いけない。
本気で怒っている。
わたしが慌てるのと同時に、見守ってくれていた先生方が魔法障壁を展開するのが分かった。
ティアナ様とわたし達の間に張られた障壁は、ひどく分厚い。
それだけレオ様の魔法を警戒しているのだろう。
「レオ様、落ち着いて」
「止めるな、エミリア。この女はここで始末した方がいい」
「さすがに止めざるを得ないわ。レオ様と一緒に居られなくなるのは嫌だもの」
「俺が証拠を残すと思うか? 何も残らなければいいんだ」
「レオ様、目撃者が多すぎるわ。非のない先生方まで巻き添えにするつもり?」
いつもよりも早口なレオ様は、ティアナ様を睨みつけたままでわたしの事を見てくれない。
その腕を掴んで軽く揺らしながら、なんとか気を引こうと言葉を繋げた。
レオ様の怒りに正面から当てられたティアナ様は顔色を悪くして、ソファーに座り込んでしまっている。
わたしの言葉にレオ様は周囲を見回して、ようやく先生方がいる事を思いだしたようだ。
長くて深い深呼吸を繰り返してから、その今にも破裂してしまいそうだった怒りを落ち着けている。
「……俺の世界にはリアしかいらないんだ」
呟くような言葉は、誰に聞かせるためのものだったのか。
わたしは分かっているとばかりに、レオ様の背をそっと撫でた。
レオ様はわたしへと目をやり、いつものように笑ってくれる。やっとわたしを見てくれて、ほっと息をついてしまった。
部屋を満たしていた緊張感が薄れていく。
先生達の顔はまだ強張っているけれど、展開されていた魔法障壁がゆっくりと消えていった。
一度目を伏せたレオ様は、穏やかな微笑を浮かべてからティアナ様へと顔を向けた。
「これで諦めてくれたと思うけど。でも、俺はもうあなたの顔を見たくないんだ。だから、これでさよならだね」
「……え?」
まだ呆然としているティアナ様は、瞬きを繰り返している。
レオ様が先生の方を見ると、教務主任の先生が空咳をしてから一歩前に出た。
「アルドリッジさん、君の留学はこれで終了することになった」
「は……? 待って、え……? どういうこと?」
予想外の言葉だったのか、ティアナ様は理解が出来ていないようだ。
先生からレオ様、そしてわたしに視線を巡らせて、首を傾げている。眉を寄せ、分からないといった表情だ。
先生が再度口を開く前に、ノックの音が響いた。
近くの先生がドアを開けると、入室してきたのは──エレオノーレ様。その後ろからはアンネリーゼ様が入ってくる。
更に後ろからは、一人の男性。
男性は衛兵らしき数人を引き連れていた。
「ティアナ、あなたは自分で終わらせたのよ」
エレオノーレ様が口を開く。
いつも疲れた顔をしていたエレオノーレ様だけど、なんだか今日は晴れ晴れとして見える。
「……エレオノーレ様も嬉しそうだな」
「だめよ、レオ様。しーっ」
レオ様がぽつりとそんな事を言うものだから、慌てて窘める羽目になった。
幸いにも皆の耳には届いていないのか、それとも聞かないふりをしてくれたのか。どちらか分からないけれど、わたしもなかったことにした。
「自分でってどういう事? お兄様までいらっしゃるなんて……なんの冗談?」
ティアナ様の声が震えている。
入室してきた男性は、ティアナ様の兄君だったのか。
確かに言われてみれば、青い髪も空色の瞳もティアナ様と同じでよく似ている。
「あなたは学園の風紀を著しく乱したとして、留学取りやめとなったの。あなたの私物は全てまとめてあるから、このままもう帰れるわ」
「い、いやよ! 私は、レオシス様と……!」
青い顔で首を横に振るティアナ様は、まるで子どもが駄々をこねる様子に似ていた。
「あなたが嫌だと言っても、これはもう決まったの。留学生として勉学に励むつもりなら、二人に謝罪するようにと言われたはずよ」
淡々と説明するエレオノーレ様の言葉に、ティアナ様はわたし達へと顔を向ける。
唇が震え、言葉にならない声が吐息交じりに消えていった。
そう、ティアナ様が謝罪を拒んだあの時に、留学は取りやめとなったのだ。
これは学園長判断で、王家の承諾も得ているものだ。ティアナ様の生家であるアルドリッジ家にも通達がいっている。
もうお迎えが来るとは思わなかったけれど……ティアナ様が謝罪をしないというのは、予想がついていたのだろう。
「そんなの、言われないと分からないじゃない……」
エレオノーレ様とアンネリーゼ様は顔を見合わせ、首を横に振った。揃ったその仕草はさすが双子だといいたくなってしまう。
「それなら、これからも理解することはないでしょう。もうお会いすることはないでしょうけれど、どうぞお元気で」
アンネリーゼ様がにっこりと笑って言葉を紡ぐ。
隠しきれない明確な拒絶に、ティアナ様はぽろぽろと涙をこぼしてしまった。
「……連れていけ」
ティアナ様の兄君が指示すると、衛兵がティアナ様を抱えるようにして立たせた。そのまま有無を言わさず引きずっていく。
ティアナ様は縋るような視線をレオ様に向けたけれど、レオ様が見ていたのは……わたしだった。
興味がないといったように、わたしのことだけを見つめている。
それに絶望したような顔をしたティアナ様は、何かを叫ぼうとしたけれど、察知した衛兵に口を押さえられて連れていかれてしまった。
先生達もそれに追随するように部屋を後にする。
教務主任の先生とアンネリーゼ様が目配せを交わしているのが分かったから、ここで一度区切りとなるのだろう。
ティアナ様が部屋を後にしてもまだ聞こえた悲鳴が不自然にぶつりと消えたのは、先生の誰かに眠らされたのかもしれない。
静寂を取り戻した部屋の中、皆が息をついたのが印象的だった。
「レオシス様、エミリア様。二人には大変迷惑をかけたわね」
「そうですね。でもアンネリーゼ様のせいでも、エレオノーレ様のせいでもありませんから」
アンネリーゼ様が近づいてきて、声をかけてくれる。
いつも通りの微笑を浮かべたレオ様の言い方は、少しぶっきらぼうだ。まだ怒りが落ち着いていないのか、疲れてしまったのか。
どちらにせよ、あとで甘やかしてあげなくては。
わたしも同じ気持ちだから、大きく頷いた。
エレオノーレ様はしっかり対処してくださっていた。感謝こそすれど、文句なんてひとつもない。
「エレオノーレ様もお疲れ様でした」
「ありがとう。……これで学園内も落ち着くといいけれど」
「きっと大丈夫ですよ」
労う言葉に、エレオノーレ様がほっとしたように笑う。
目の下にはうっすらとしたクマが出来ている。お化粧でも隠せないほどだ。今日からはゆっくり休めるといいのだけど。
一度話が落ち着いたところで、アンネリーゼ様がティアナ様の兄君へと顔を向けた。
それを合図とするように、一歩前に出てきた彼は深く頭を下げた。
「ギルベルト・アルドリッジと申します。この度は愚妹がご迷惑をおかけして、大変申し訳ありませんでした」
レオ様が先に立ち、わたしもレオ様の手を借りて立ち上がった。
「顔を上げてください。もう終わったことですので、お気になさらず」
レオ様の声に顔を上げたギルベルト様は、自分の胸に手を当ててもう一度礼をした。
この人も疲れた顔をしている。今回の件で通達がいって、ティアナ様を迎えに来るにあたって大変だったのだろう。
「ありがとうございます。寛大なお言葉に感謝します」
そう言って微笑むギルベルト様の視線が、わたしに向けられた。
その瞬間、レオ様がわたしの前に一歩踏み出した。わたしから見えるのはレオ様の広い背中だけになってしまった。
「あらあら」
アンネリーゼ様とエレオノーレ様の声が揃う。
この行動が何を示しているのか、皆にはバレバレみたいだ。
もちろん、わたしにも。
ギルベルト様の目に、わたしを触れさせたくなかったのだ。
こんな分かりやすい行動をしているのに、きっとその表情はいつものような穏やかな微笑なのだろう。
「……本当に、可愛い人ね」
わたしがぽつりと呟くのと、ギルベルト様が苦笑いを漏らすのは同時だった。




