10.真実の愛
わたしは参考書を片手に持ち、足早に廊下を歩いていた。
休憩時間の廊下には人が多い。お喋りに興じている生徒達をかわしながら歩みを進めると目的とした背中が見えてくる。
安心してしまって、ほっと息をつきながら声をかけた。
「ミルズ先生、少しよろしいですか」
先生は立ち止まって振り返る。そしてにっこりと笑ってくださった。
「フューラー君。何かあったかな?」
ミルズ先生は法学科で教鞭をとっている。魔法科にいるわたしが直接学ぶことはないのだけれど、質問をしたくて先生の元に通っているうちに名前を覚えてくださったのだ。
「この参考書の例題について、お聞きしたいことがありまして。いまお時間よろしいですか?」
「ああ、もちろん」
二人で廊下の端に寄り、わたしは栞を挟んでおいた参考書を開いた。
先生が読みやすいように開き、質問個所を指で示す。
「ここの新規建設に関する申請書の書き方なのですが、王国法と照らし合わせると齟齬があるように思うのです」
「うん、これはね──」
説明を聞きながら、参考書の端にメモを取っていく。
先生の教え方は非常に分かりやすい。難しい単語は嚙み砕いた言い方に変えて下さるので、とても助かっている。
「──ありがとうございました」
「また分からないところがあったら、いつでも聞きにおいで」
時間を取らせたにも関わらず、ミルズ先生はにこやかな態度を崩さずに手を振って去っていく。
教えることが好きなのだと、以前にお話しされていたことを思い出す。それに甘えて、分からないことがあると聞いてしまっているのだけれど。
「エミリア様、どうなさったんですか?」
声をかけてきたのは、フューラー侯爵家の寄子である子爵家の令嬢だ。彼女は王宮文官になることを目指していて、法学科に通っている。
「ミルズ先生に分からないところを聞いていたの」
「エミリア様は魔法科でしたよね? 法学にも興味がおありなんですか?」
「ええ。わたくしが学べば、レオシス様のお役に立てるかもしれないから」
魔法科のわたしが、様々な分野を学んでいるのは偏にレオ様のためだ。
将来、公爵家を継ぐレオ様は大変忙しくなるだろう。でもわたしに出来ることがあれば、レオ様の負担を少しでも減らせるかもしれない。
その一心で、わたしは励んでいる。
「まぁ……とっても素敵です」
わたしの言葉に、彼女は胸の前で手を合わせて深い息を漏らした。その頬はうっすらと上気しているようにも見える。
分かりやすい彼女からの好意が、なんだかとても気恥ずかしい。
「私、エミリア様は何でも出来ると思っていたのですが……それはたくさん努力をしてきたからなんですね。凄いです」
「わたくしは積み重ねていくことしか出来ないの。階段を一段飛ばしで上がることも、駆け上がっていくことも出来ないから。だから凄いわけじゃなくてよ」
「いいえ! レオシス様のためにそれだけの努力が出来るのは、とても凄いことです。これこそ真実の愛ですね」
ここでもまた、真実の愛という言葉を聞くとは思わなかった。
彼女は好意から言ってくれているというのは分かるけれど、なんだかそれはしっくりこない。
真実の愛云々は別にしても、彼女がわたしを慕ってくれているのは分かるから、「ありがとう」とだけ伝えて微笑んだ。
彼女と別れ、わたしは自分の教室へと急いだ。
法学科と魔法科の校舎は別だ。少し急がないと次の授業準備が間に合わなくなってしまう。
足早に回廊を歩いていると、中庭から賑やかな声が聞こえてくる。
何かあったのだろうかと足を止めると、そこに居たのはエレオノーレ様と留学生のティアナ様だった。エレオノーレ様の派閥令嬢達も数人侍っているのが見える。
ティアナ様と直接お話したわけではないけれど、ここから見る限り楽しそうに過ごしているように見える。それに少しほっとした。慣れない場所に来ているのだから、出来るなら楽しく過ごしていただきたいと思う。
また歩き出そうとした顔を前に戻した瞬間、わたしの隣にグレーテが立っていたものだから、驚きに悲鳴をあげそうになってしまった。
慌てて両手で口を押さえる。参考書は抱えるように持っていたから落とさないで済んだけど、心臓がひどく騒がしい。ここにあると主張するように早鐘を打っている。
浅くなりそうな息を、意識して深く吐き出しながらグレーテを睨んで見せると、少し子どもっぽい表情でグレーテは笑っていた。
「驚かせてしまった?」
「危うく悲鳴をあげそうになるほどにね」
「エミリアが悲鳴を上げたら、厄介なことになるから気を付けないといけないわね」
そう言って笑うグレーテに反省している様子はない。
わたしは参考書を持ち直し、彼女の脇を肘でつついてから歩き出した。
「ティアナ様、楽しそうに過ごしていらしてほっとしたわ。エレオノーレ様の気配りがあってのことね」
「エレオノーレ様がうまくやっているっていうのは、間違いないわね。大変ご苦労されているみたいだけど」
「そうなの?」
グレーテと並んで、回廊を歩く。
熱気を孕んだ夏の風が、わたしの髪を揺らしていく。じっとりとしたその風が不快で、わたしは手のひらに風を生み出した。水魔法と風魔法を合わせた簡単なものだけど、涼む分にはちょうどいい。
それを自分とグレーテに向かって流すと、少しすっきりした気持ちになる。
「ティアナ様は大変優秀な方なのは間違いないそうよ。魔力も豊富で、知識もある。魔法センスにも秀でているそうだから、留学生に選ばれたのも納得ってわけね」
それなら、エレオノーレ様が苦労されているというのは、何に対してなのだろう。
心の中の問いが顔に出ていたのか、グレーテはわたしを見てからクスりと笑った。
「非常に気位の高い方なんですって」
「でもそれは、家格を思えばそうなんじゃない?」
ティアナ様は公爵令嬢だ。なにもおかしいところはないと思うのだけど。
魔法科の校舎に入ったわたし達はそのまま廊下を教室へと向かう。校舎内は快適な温度になるよう魔法具で設定されているから、体にまとわりつくような不快感がすうっと抜けていった。
グレーテは周囲に視線をやってから、わたしの耳元へと口を寄せた。
「言い方を選ばなければ、高慢なんですって。過激なところもあるから、自国ではその被害にあったご令嬢も少なくないそうよ」
「そうなの……」
「それから、ティアナ様には婚約者がいるんだけどね。彼女……この国で、真実の愛のお相手を見つけたいそうなの」
「ええ?」
また聞いた、真実の愛。
隣国では“真実の愛”が流行っていて、レオ様に言わせればそれは浮気を声高に叫ぶもので……ああもう、頭がおかしくなりそう。
「それはエレオノーレ様がご苦労なさるのも、無理はないわね」
それだけ言うのが精いっぱいだった。
たぶん、わたしやグレーテとも合わないだろう。
だから近付かないに越したことはない。
口には出していないけれど、グレーテも同意見なのかわたしを見て大きく頷いた。
何事もなく、留学期間が終わればいいのだけど。
口に出すと叶わないような気がして、その言葉は飲み込んだ。




