サイドストーリー:斜陽の王国、愚か者たちの終路
大陸の東部を統べる広大な国家、グランセル王国。
その中心に位置する王都の白亜の城は、何世紀にもわたって繁栄と平和の象徴として君臨してきた。玉座の間には金糸のタペストリーが飾られ、大理石の床は塵一つなく磨き上げられている。天井を彩る巨大なシャンデリアが放つ光は、これまで数々の祝宴を華やかに照らし出してきた。
だが、今日の玉座の間に満ちているのは、祝祭の空気などではなかった。そこにあるのは、凍りつくような沈黙と、底知れぬ恐怖、そして醜いパニックだけだった。
「嘘だ……嘘だと言え! 光の神の加護を受けた勇者レオンハルトが、あの最強のパーティが全滅したなどと!」
金と宝石で飾られた王冠を戴く初老の男、国王アルトリウスの怒号が、広大な玉座の間に空しく響き渡った。
彼は玉座から身を乗り出し、血走った目で階下に平伏す伝令の兵士を睨みつけている。その震える手は玉座の肘掛けを強く握りしめ、顔面は死人のように蒼白だった。
「ほ、報告によりますと、勇者御一行は『嘆きの死の谷』にて魔王軍四天王の一角、黒竜将ガルヴァドスと交戦。勇者レオンハルト様は戦死、弓使いのレグナス様は行方不明、聖女フィーリア様は精神に異常を来し、魔力を失った状態で発見されたとのことです……!」
伝令の兵士は、床に額を擦りつけながら泣きそうな声で答えた。
その言葉が決定的な死刑宣告となって、玉座の間に集まっていた貴族や大臣たちの間に悲鳴のようなざわめきが広がった。
「馬鹿な! 勇者殿には国庫から莫大な資金と最高級の霊薬を支援していたはずだ! なぜ負ける!」
「聖女はどうしたのだ! あの女の回復魔法があれば、どんな致命傷でも治せるはずだろうが!」
「おのれ、レオンハルトめ……! この国の命運を託してやったというのに、たかが四天王の一匹に敗れるとは何たる無能か!」
貴族たちは口々に勇者たちを罵り始めた。
彼らは皆、豪奢な絹の服を着込み、丸々と肥え太っている。彼らは魔王軍との戦いなど一度も経験したことがない。安全な王都の城壁の中でワインを傾けながら、ただ「勇者」という名の偶像にすべての責任と重圧を押し付け、自分たちは高みの見物を決め込んでいたのだ。
『魔王の討伐が遅れているようだが、いったい何をしているのか』
『国民の不安を鎮めるためにも、早急に目に見える戦果を挙げよ』
『世界を救う宿命を背負ったお前が、この程度の魔物に手こずってどうする』
彼らがレオンハルトに送り続けていたのは、激励ではなく、見栄と保身からくる冷酷な催促状だった。勇者が日々どれほどの恐怖とプレッシャーに精神をすり減らしていたかなど、彼らは想像すらしたことがなかった。そして、その極限の重圧がレオンハルトの精神を歪め、フィーリアへの背徳的な支配という狂行に走らせた最大の要因であることを、彼らは永遠に理解できないだろう。
「陛下、お待ちください。報告書には続きがございます」
喧騒を切り裂くように、軍務大臣が青ざめた顔で進み出た。彼の手には、前線の偵察部隊から送られてきた詳細な羊皮紙が握られている。
「勇者パーティが崩壊した直接の原因は、どうやら黒竜将との戦闘以前にあったようです。数週間前、前衛を務めていた盾役の戦士、クレイトスがパーティを離脱しております」
「クレイトス……? 誰だそれは。あの無骨で地味な戦士のことか」
国王アルトリウスは忌々しそうに顔を顰めた。
「たかが盾役一人が抜けたからといって、勇者の力が落ちるわけがなかろう! 代わりの肉盾など、傭兵ギルドでいくらでも雇えばよかったのだ!」
「それが……間に合わなかったのです。クレイトスという男が抜けた直後から、勇者パーティは下級の魔物相手にも苦戦を強いられ、連携が完全に瓦解していました。偵察部隊の見解では、勇者レオンハルトの圧倒的な攻撃力は、あのクレイトスという戦士の『絶対に攻撃を通さない完璧な防御』があってこそ成立する、極めて危うい戦術だったとのこと。盾を失った勇者は、ただの無謀な特攻兵に過ぎなかったのです」
軍務大臣の言葉に、玉座の間は再び水を打ったような静寂に包まれた。
かつて、勇者パーティが王都で凱旋パレードを行った時のことだ。
国王や貴族たちは、華やかなレオンハルトや美しいフィーリア、神秘的なレグナスばかりを称賛し、パーティの最後尾で黙々と重いタワーシールドを背負って歩くクレイトスを、まるで荷物持ちの従者のように扱っていた。
『あのような地味な男が、なぜ光の勇者の隣にいるのだ』と嘲笑う者すらいた。
だが、その「地味な男」こそが、勇者という脆い剣を根元で支え、パーティ全体を死の淵から守り抜いていた真の要だったのだ。そして、彼らが信奉していた光の勇者は、その最強の盾の恋人を寝取り、自らの手で唯一の防衛線を破壊するという愚行を犯した。
すべては、人間たちの傲慢さと無知が招いた自滅だった。
「……終わりだ」
一人の老貴族が、膝から崩れ落ちて呟いた。
「勇者が死んだとなれば、魔王軍を抑える抑止力は存在しない。我が国の軍隊など、あの化け物どもの前では紙切れも同然だ……!」
「静まれ! 貴様ら、王の御前であるぞ!」
宰相が声を張り上げるが、すでにパニックの火種は抑えきれないところまで燃え広がっていた。
「逃げるのだ! 金塊と馬車を用意しろ! 西の自由都市へ逃げ込むしか……」
「国境はすでに封鎖されているはずだ! 海路を使え!」
醜い言い争いと怒号が飛び交う中、玉座の間の巨大な樫の扉が、凄まじい轟音と共に吹き飛んだ。
「ひぃっ!?」
「な、何事だ!」
粉々になった扉の破片が床に散らばり、舞い上がった土煙の中から、一人の兵士が血まみれになって転がり込んできた。彼の背中には、黒い羽の生えた不気味な矢が深々と突き刺さっている。
「へ、陛下……お逃げ、くだ……」
兵士はそれだけを言い残し、ガクリと首を落として息絶えた。
兵士の死体を跨いで玉座の間に足を踏み入れたのは、黒いローブを身に纏い、顔の半分を仮面で隠した男だった。その背後には、空気を震わせるほどの圧倒的な瘴気が立ち込めている。
「ごきげんよう、グランセル王国の愚かな豚共」
男の声は、まるで劇場で喜劇の挨拶をするかのように軽やかで、どこか楽しげだった。魔王軍四天王、幻影将ゼクストである。
「き、貴様は……魔王軍の幹部か! なぜ結界で守られた王城に……!」
軍務大臣が剣を抜き放ちながら叫ぶが、その声は恐怖で裏返っていた。
「結界? ああ、あの薄紙のような魔力層のことですか。あんなものは、我が輩が到着する前に、ガルヴァドス殿のブレス一発で王都の城壁ごと吹き飛んでおりますよ」
ゼクストが仮面の奥の目を細めて笑うと同時に、城の窓の外から地鳴りのような爆発音が立て続けに響いた。
ステンドグラスが粉々に砕け散り、そこから王都の光景が見下ろせた。
美しい白亜の建物は次々と炎に包まれ、逃げ惑う市民たちが、空を覆い尽くす飛竜の群れと、地上を蹂躙する魔獣たちによって次々と惨殺されている。阿鼻叫喚の地獄絵図が、そこには広がっていた。
「王都の防衛軍は、およそ五分で全滅いたしました。残るはこの城のネズミたちだけです」
ゼクストの背後から、コツン、コツンと優雅なヒールの音を響かせて現れたのは、妖魔将カルミラだった。彼女は扇で口元を隠し、怯えきった貴族たちを値踏みするように見回した。
「ずいぶんと丸々と太った豚たちね。これなら、私の可愛いペットたちの良い餌になりそうだわ」
「ひ、ひぃぃぃっ! 助けてくれ! 金ならいくらでも払う!」
「私は関係ない! 勇者に無理を強いたのはあの宰相だ!」
貴族たちは完全に理性を失い、互いを突き飛ばしながら玉座の間の奥へ、奥へと逃げようとする。だが、彼らの退路はすでに黒い影の魔物たちによって塞がれていた。
「おやめなさい、見苦しい。あなた方が崇め奉っていた勇者殿に笑われますよ」
ゼクストが指を鳴らすと、玉座の間の空中に巨大な幻影のスクリーンが浮かび上がった。
そこに映し出されたのは、夜の森の中で、レオンハルトがフィーリアに馬乗りになり、己の欲望を満たしている醜悪な光景だった。
『クレイトスには……こんなこと、されたこと、ない……っ』
『当然だ。あの愚図に、お前の奥底を暴くことなどできるはずがない。お前は俺だけのものだ』
幻影の中から響く、甘く淫らな声と、狂気に満ちた背徳のやり取り。
それを目にした国王アルトリウスと貴族たちは、信じられないものを見るように目を丸くし、言葉を失った。
「これ……は……」
「勇者と聖女だと? 馬鹿な、何かの幻術だ……!」
「幻術ではありませんよ。これは現実に起きた、正真正銘の事実です」
ゼクストは冷酷な笑みを深めた。
「世界を救うと持ち上げられた勇者は、あなた方が押し付けた重圧に耐えきれず、仲間の女を脅して狂い咲いた。聖女は快楽に溺れ、弓使いは保身からそれを見て見ぬふりをした。そして、彼らがパーティから追い出した盾役の男こそが、彼らを生かし続けていた唯一の生命線だったのです」
「……」
「あなた方は、その盾役の男を鼻で笑い、不当に扱い続けた。あなた方が真実を見る目を持っていれば、あるいは勇者を追い詰めず、あの戦士の功績を正しく評価していれば、こんな結末にはならなかったかもしれない。世界を滅ぼしたのは我ら魔王軍ではなく、あなた方自身の傲慢と愚かさなのですよ」
ゼクストの言葉は、鋭い刃となって国王の心を抉った。
後悔。絶望。そして、自分たちが信じていたものが最初から腐りきっていたという残酷な真実。
アルトリウスは玉座から滑り落ち、床に這いつくばるようにして頭を抱えた。
「ああ……あああ……神よ……!」
「神などいませんわ。いるのは、自らの欲望で首を絞め合った滑稽な人間たちだけ」
カルミラが扇をパチンと閉じると、それを合図に魔物たちが一斉に貴族たちへと襲いかかった。
血飛沫が舞い、悲鳴と肉の裂ける音が玉座の間に響き渡る。豪奢な絹の服は血に染まり、金貨や宝石が床に散らばっていく。
国王アルトリウスは、自らの体が巨大な魔獣の牙に引き裂かれる直前、脳裏に一人の男の背中を思い浮かべていた。
重厚なタワーシールドを背負い、誰にも称賛されることなく、ただ黙々と仲間のために一番前を歩いていた無骨な戦士の背中を。
(……許してくれ……クレイトス……我々が、間違って……)
その謝罪の言葉が声になることはなく、アルトリウスの視界は完全な闇に包まれた。
数時間後、王都グランセルは完全に地図から消滅した。
白亜の城は崩落して黒い瓦礫の山と化し、かつての繁栄の面影はどこにもない。国境を越えて逃げようとした者たちも、ことごとく魔王軍の追撃部隊によって狩り尽くされ、グランセル王国という国家は、その長い歴史に最も醜悪で無惨な終止符を打った。
東の大陸は完全に魔王の支配下となり、空は分厚い黒雲に覆われ、太陽の光が届くことは二度となかった。
人々は恐怖に震え、絶望の中で魔物たちに怯えながら死を待つだけの日々を送ることとなる。
自分たちが無自覚に叩き割ってしまった「絶対の盾」の価値を、取り返しがつかなくなってから思い知りながら。
一方その頃。
魔王軍の侵攻の手がまだ届いていない、遥か西の果て。
自由都市バロアは、今日も活気に満ちていた。青く澄み渡った空の下、市場には商人たちの威勢の良い声が響き、酒場からは陽気なリュートの音色が漏れ聞こえてくる。
街の郊外にある小さな依頼掲示板の前で、一人の大柄な男が立ち止まっていた。
彼は背中に使い込まれた革のリュックを背負い、腰には傷一つない新しい長剣を差している。かつて東の国で「勇者の引き立て役」と蔑まれていた男、クレイトスだ。
「おい、クレイトス! 今日も護衛の仕事か?」
通りすがりの若い傭兵が、親しげに声をかけてきた。
「ああ。隣町まで商人の荷馬車を護衛するだけの、簡単な仕事だ」
「お前ほどの腕があれば、もっと稼げる危険なモンスター討伐でもいけるのによ。相変わらず堅実だな」
「大金なんて必要ないさ。美味い飯と酒が飲めて、ぐっすり眠れるベッドがあれば、それで十分だ」
クレイトスは短く笑い、掲示板から依頼書を剥がした。
東の国が滅亡したという噂は、風の便りとしてこの街にも少しずつ届き始めていた。勇者の死も、王都の崩壊も。
だが、その話を聞いても、クレイトスの心には何の波風も立たなかった。
彼にとって、東の国での出来事は、もう遠い昔に読んだ出来の悪い悲劇の舞台劇のようなものだった。フィーリアの裏切りも、レオンハルトの傲慢も、今となっては自分とは無関係の、遠い世界の出来事だ。
「……さて、行くか」
クレイトスは眩しい太陽に向かって一度だけ目を細めると、西へ続く街道へと歩き出した。
彼がかつての仲間たちの末路や、王国の滅亡を知って涙を流すことはない。
彼らの愚かさが招いた破滅は、彼ら自身が支払うべき代償であり、クレイトスが背負う義理など一欠片も存在しないのだから。
澄んだ西風が彼の短い髪を揺らす。
もう守るべき重い盾はない。身軽になった彼を縛り付けるものは、この世界のどこにも存在しなかった。
かつてすべてを失い、そしてすべてを捨て去った男は、ただ己の意志だけを道標に、新天地の陽光の中を静かに歩み続けていった。




