サイドストーリー:傍観者の罪と永劫の鎖
鈍い、吐き気を催すような痛みが全身を支配していた。
いや、全身ではない。右腕の肘から先が、ぽっかりと虚無に消え去っている。そこに何もないという事実が、幻肢痛となって脳を焼き切るように苛んでくる。
「あ……がっ……」
ここはどこだったか。霞む意識の中で必死に記憶を手繰り寄せる。
そうだ、嘆きの死の谷だ。黒竜将ガルヴァドス。圧倒的な死の化身。
勇者レオンハルトは無惨な肉塊に変わり果てた。俺は魔法障壁ごと吹き飛ばされ、そのまま意識を失ったのだ。
体を動かそうとしたが、全く力が入らない。エルフの誇りである清廉な魔力は、黒竜将の瘴気によって魔力回路ごとズタズタに破壊され、体内で腐臭を放っているように感じられた。
遠くで、何かが土を這いずるような音が聞こえる。
「クレイトス……ごめんなさい……ごめんなさい……」
微かに聞こえてきたのは、壊れた人形のように同じ言葉を繰り返すフィーリアの声だった。彼女は完全に狂気を発症し、谷の奥へと力なく消えていった。助けを呼ぶことも、彼女を止めることもできない。
そして、俺の耳は別の足音を捉えた。
下品で下劣な、薄汚れた笑い声。野盗、あるいは死体漁りの群れだ。
「おい、こっちにまだ息のあるやつがいるぞ!」
「エルフじゃねえか。しかも上玉だ。腕が一本ねえが、奴隷商人に売り飛ばせばそれなりの金貨になるぜ」
汚い手が俺の金髪を乱暴に掴み上げる。
抵抗しようにも指一本動かせない。俺はただ、汚臭を放つ彼らの顔を見つめながら、これから始まる地獄の幕開けを絶望と共に受け入れることしかできなかった。
首と足首に重い鉄の首輪を嵌められ、粗末な木製の檻の中で揺られること数週間。
俺は、大陸の暗部を巡る奴隷商人の荷馬車に乗せられ、あてのない旅を続けていた。
食事として与えられるのは腐りかけの残飯と泥水だけ。美しいと称賛された金髪は汚れきって固まり、エルフの白い肌は鞭の痕と痣に覆われている。隻腕となった右腕の傷口は不衛生な環境で膿み、高熱が俺の思考を常に鈍らせていた。
だが、どれほど肉体が衰弱しようとも、エルフの長い歴史を刻むための強靭な記憶力だけは、俺の頭を明晰なまま保たせていた。狂うことすら許されない。それが今の俺にとって最大の呪いだった。
檻の冷たい鉄格子に寄りかかりながら、俺は何度も、何度も、あの愚かな旅の終焉を思い返していた。
俺は、パーティの中で最も冷静で、客観的な視点を持つ「常識人」であると自負していた。
感情で動く人間たちを俯瞰し、世界の命運という盤面の上で、彼らをどう動かせば最も効率的に魔王討伐という大義を成し遂げられるか。それを計算し、調整するのが自分の役目だと思い込んでいたのだ。
だが、それは傲慢な思い上がりであり、ただの事勿れ主義に過ぎなかった。
最初に異変を感じたのは、いつだったか。
過酷な戦闘が続き、レオンハルトの精神が目に見えて摩耗し始めた頃だ。彼は夜の野営で、何度もフィーリアをテントの外へ連れ出していた。
エルフの鋭い聴覚は、風に乗って運ばれてくる微かな衣擦れの音や、フィーリアの押し殺したような嗚咽、そしてレオンハルトの狂気を孕んだ囁きを、確実に捉えていた。
二人の間に、仲間としての信頼を逸脱した、歪で醜悪な支配関係が築かれつつあること。俺はそれを、最初の段階で気づいていたのだ。
もしあの時、俺が彼らの間に割って入り、レオンハルトを殴り飛ばしてでも止めていれば。
もしあの時、不器用に薪を割り、スープを煮込んでいたクレイトスに、真実を耳打ちしていれば。
事態は全く違う結末を迎えていただろう。パーティは一度瓦解したかもしれないが、クレイトスの力があれば、少なくともフィーリアが快楽の泥沼に沈む前に救い出すことはできたはずだ。
だが、俺は動かなかった。
『世界を救う大義の前に、個人の貞操など些末な問題だ』
『ここで波風を立ててレオンハルトの機嫌を損ね、パーティが解散になれば、魔王軍を討伐する計画が白紙に戻ってしまう』
『フィーリアが勇者のプレッシャーの捌け口になることで全体が回るなら、それは必要な犠牲だ』
俺は、そんなもっともらしい理屈を並べ立て、自分の目を塞ぎ、耳を塞いだ。
結局のところ、俺はクレイトスのことなど、便利な「盾」としてしか見ていなかったのだ。彼がどれほどフィーリアを愛し、純粋な心で俺たちを守ってくれていたか。その重みを理解しようともせず、ただの駒として消費しようとした。
クレイトスがすべてを知り、パーティを去ろうとしたあの朝の光景が、今でも鮮明に蘇る。
『不満? ないさ。ただ、俺の役目は終わった。それだけだ』
氷のように冷たい彼の声。
俺はあの時、必死に彼を引き留めようとした。だが、あの時の俺の言葉に、彼自身を心配する響きは一欠片もなかった。
『お前がいなければ、誰が前衛で攻撃を凌ぐんだ!』
その言葉が、俺の醜い本性のすべてを物語っていた。俺はクレイトスという人間を引き留めたかったのではなく、自分の身を守る安全な「肉の壁」を失うことを恐れただけだったのだ。
『そうか。大義のためなら、仲間が裏切られ、道化を演じさせられているのを見て見ぬふりできるんだな。立派な常識人だ』
クレイトスが最後に向けてきた、あの軽蔑に満ちた瞳。
その通りだ。俺は常識人などではない。大義という言葉を隠れ蓑にして、他人の痛みに目を背け、ただ安全な後方から弓を引いていただけの、卑怯で浅ましい傍観者だったのだ。
だからこそ、俺は最も恐ろしい罰を受けることになった。
荷馬車が行き着いたのは、魔王軍の支配下に入った東の辺境、活火山が連なる灼熱の採掘場だった。
ここは、人間や亜人の奴隷たちが、魔王軍の武具となる黒曜鉄を昼夜問わず掘り出させられている地獄の底だ。
「おい、そこの欠損エルフ! 手が止まってるぞ!」
背中に鋭い痛みが走り、肉が裂ける音がした。
オークの看守が振るう鞭が、俺の背中を無慈悲に打ち据えたのだ。
「ぐぅっ……!」
俺は泥と汗にまみれた地面に這いつくばりながら、隻腕となった左手だけで、自分と同じくらいの大きさがある鉄鉱石の塊を必死に引き摺った。
右腕がないためバランスが取れず、何度も石の角に足をぶつけ、爪先から血を流す。
かつて、弓の弦を引くために鍛え抜かれたしなやかな指先は、今や泥と血で汚れ、爪は剥がれ落ちている。精密な射撃で魔物の急所を撃ち抜いていた栄光の弓使いは、どこにもいない。いるのは、ただ魔王軍の最下層で石を運ぶだけの、醜い欠損奴隷だけだ。
過酷な労働の中、休憩時間に看守の魔物たちが交わす会話が、俺の耳に届く。
「聞いたか? グランセル王国が完全に陥落したらしいぜ。王族も貴族も、ゼクスト様とカルミラ様の部隊に皆殺しにされたってよ」
「あっはは! ざまあねえな! 光の勇者とやらが死んだから、人間どもは誰も抵抗できなかったらしいな」
「世界はもう魔王様のものだ。俺たちもこれで一生安泰だな!」
その言葉を聞くたびに、俺の心臓は焼かれた鉄串を突き立てられたように痛んだ。
王国が滅びた。数え切れないほどの人間が惨殺され、世界は魔王の闇に飲み込まれた。
すべては、俺たちのパーティが崩壊したからだ。
そしてその崩壊の引き金は、レオンハルトの狂気とフィーリアの裏切りではあるが、それを止める機会を自ら放棄した「俺の傍観」が招いた結果でもある。
大義のために見て見ぬふりをした結果が、大義そのものの完全なる敗北と、世界の滅亡。
これ以上の皮肉があるだろうか。俺の浅はかな計算と保身は、世界中の何百万という命を地獄へ突き落としたのだ。
俺が背負っている岩の重さは、俺が犠牲にした者たちの怨嗟の重さそのものだった。
「おい、さっさと立て! まだノルマの半分も終わってねえぞ!」
再び看守の鞭が飛び、俺の頬を切り裂いた。
口の中に血の味が広がる。俺は無言のままふらつく足で立ち上がり、再び重い石に左手をかけた。
死にたい。
何度もそう思った。看守に逆らって殺されれば、この苦しみから解放される。あるいは、自ら舌を噛み切って死ぬことだってできる。
だが、俺にはそれができなかった。
エルフとしての無駄に高いプライドが死を拒んでいるのではない。これは、俺自身に課せられた「罰」なのだと、心の奥底で理解してしまっているからだ。
人間の寿命は短い。レオンハルトのように無惨に殺されるか、あるいはフィーリアのように狂気に逃げ込んで心を壊すか。クレイトスのようにすべてを断ち切って別の生き方を見つけるか。
だが、エルフである俺の寿命は、人間とは比べ物にならないほど長い。
俺はこれから数百年もの間、この地獄のような採掘場で、鞭に打たれ、泥を這いずり、ただ生き長らえなければならないのだ。
右腕を失った喪失感も、見て見ぬふりをした後悔も、世界を滅ぼした罪悪感も、時間という風化に頼ることはできない。エルフの完璧な記憶力は、あの夜のクレイトスの冷たい目と、王国の滅亡を告げる魔物たちの声を、昨日起きたことのように鮮明に保ち続けるだろう。
狂うことも許されず、忘れることも許されない。
肉体がどれほど朽ち果てようとも、この明確な罪の意識だけが、俺の精神を永遠に責め立て続けるのだ。
夕暮れ時。
一日の強制労働が終わり、鉄格子の檻に戻される道すがら。
俺はふと、西の空を見上げた。
血のように赤い夕日が、分厚い黒雲の隙間から差し込み、荒野の果てを赤く染めている。
あの空の向こう。遥か遠い西の地で、クレイトスは生きているだろうか。
俺たちという呪縛から解放され、重い盾を下ろした彼は、きっと自由に、自分のためだけの人生を歩んでいるはずだ。
彼にはその資格がある。彼は最後まで誠実であり、ただ純粋に愛する者を守ろうとしただけだったのだから。
彼を裏切り、彼を愚弄し、彼を消費しようとした俺たちは、それぞれの因果応報を完璧な形で受け取った。
「……すまなかった、クレイトス」
ひび割れた唇から、誰にも聞こえないほどの小さな声が漏れた。
それは、彼が去る朝に言うべきだった、ただ一つの真実の言葉。
だが、もはやその声が彼に届くことは永遠にない。俺はもう二度と、あちら側の光の当たる場所へは戻れないのだ。
「何ボソボソ言ってやがる! さっさと歩け!」
背中を蹴り飛ばされ、俺は泥だらけの地面に倒れ込んだ。
痛みすらも、今ではただの日常の一部だ。
俺は重い鉄の首輪を引き摺りながら、ゆっくりと立ち上がった。
俺の歩む道は、終わりのない暗闇の底。
傍観という罪を犯した代償として、永劫の鎖に繋がれた哀れなエルフの末路。
俺は涙すら枯れ果てた目で、再び重い足取りを地獄へと進めていった。




