サイドストーリー:玉座に届く滑稽な喜劇
地の底よりさらに深く、陽の光など永遠に届くことのない奈落の底。
天を突くようにそびえ立つ黒曜石の城、その最奥に位置する大玉座の間には、息が詰まるような重厚な魔力が満ちていた。
赤黒い溶岩が壁の隙間から滝のように流れ落ち、不気味な光を部屋全体に投げかけている。その中央、巨大な骸骨をあしらった玉座に深く腰を下ろしているのは、魔界の絶対的な支配者である魔王ゼラヴォスだった。
「──報告は以上でございます。勇者レオンハルト、およびその一党は、我が『嘆きの死の谷』にて完全に粉砕いたしました。勇者の息の根は、この私の爪で確かに断ち切っております」
玉座の前に片膝をつき、恭しく頭を垂れているのは、魔王軍四天王の一角である黒竜将ガルヴァドスだ。彼の巨大な鋼の鱗には、まだ微かに人間の血の匂いがこびりついている。
「ご苦労だった、ガルヴァドス。しかし……」
魔王ゼラヴォスは、肘掛けに頬杖をつきながら、どこか退屈そうに目を細めた。
「ずいぶんと、あっけなかったな。あの勇者レオンハルトといえば、光の神の加護を受け、我が軍の前線基地を次々と陥落させてきた脅威であったはずだ。それが、お前一人の前にあっさりと全滅したというのか?」
「魔王様の疑問もごもっともです。実は、討ち取った私自身が一番拍子抜けしております」
ガルヴァドスはゆっくりと立ち上がり、腕を組んだ。
「奴の聖剣から放たれる魔力は、確かに本物でした。直撃を受ければ私とて致命傷は免れなかったでしょう。しかし、奴の戦い方はあまりにも常軌を逸していました。私が巨大な爪を振り下ろした時、並の剣士であれば当然回避か防御の姿勢をとる軌道でした。ところが奴は、足すら止めず、まるで『自分には絶対に攻撃が届かない』と盲信しているかのように、真っ直ぐに突っ込んできたのです」
「回避を忘れた特攻、というわけか」
「はい。結果として、私の爪は奴の脳天から下半身までを何の抵抗もなく押し潰しました。後衛にいた弓使いも無駄矢を放つだけで機能しておらず、回復役である聖女に至っては、戦闘が始まる前から虚ろな目で震えているだけの、ただの肉人形に成り下がっておりました」
ガルヴァドスの報告に、玉座の間に並び立つ他の幹部たちから、ざわめきと嘲笑が漏れた。
「信じられませんわね」
扇で口元を隠し、妖艶な笑みを浮かべたのは妖魔将カルミラだ。
「あれほど『世界を救う』だの『絆の力』だのと高らかに謳っていた光の使徒たちが、まるで素人のような連携で自滅したなんて。何か罠だったのではなくて?」
「罠などではない。奴らは本当に、ただの烏合の衆になり下がっていたのだ」
「ふふふ……その謎については、私の配下が持ち帰った面白い情報がございますよ」
影の中から滑り出るように現れたのは、幻影将ゼクストだった。彼は魔王軍における情報収集と諜報の要であり、世界中に不可視の使い魔を放っている。
ゼクストは仰々しくお辞儀をすると、玉座の魔王を見上げた。
「魔王様、そして皆様。世界を恐怖に陥れた勇者パーティーが、なぜかくも無惨に弱体化したのか。その真実を、極上の喜劇としてご覧に入れましょう。彼らを滅ぼしたのは我ら魔王軍ではなく、彼ら自身の内に潜む『愚かな人間の業』であったのです」
ゼクストが指を鳴らすと、玉座の間の空中に巨大な幻影のスクリーンが浮かび上がった。
そこに映し出されたのは、夜の森の光景だった。青白い月光が照らし出しているのは、かつての勇者レオンハルトと、聖女フィーリアの姿だ。
『黙れ。お前たちはいいよな。何も背負っていない……俺がどれだけの地獄を歩いているか、お前に分かるか!?』
幻影の中から、レオンハルトの狂気を孕んだ声が響く。彼はフィーリアを大木に押し付け、盾役であるクレイトスの命を交渉材料にして、彼女の身体を強要していた。
そのやり取りを見た魔王軍の幹部たちは、一様に呆れたような息を吐いた。
「あらあら……」
カルミラが扇をパタンと閉じて冷笑する。
「これが世界を救う勇者様のやることかしら? 自分のプレッシャーに耐えきれず、味方の女を脅して慰み者にするなんて。私たち悪魔でも、もう少しスマートな手口を使いますわよ」
「力を持つ者が弱者を蹂躙するのは世の常だが、仲間内でそれをやるのは下策の極みだ。軍の士気を根本から崩壊させる行為に他ならない」
ガルヴァドスも忌々しそうに鼻を鳴らした。
幻影の映像は切り替わり、今度は別の日の夜が映し出された。
月光が降り注ぐ森の奥。そこには、脱ぎ捨てられた神官服と、激しく体を重ね合うレオンハルトとフィーリアの姿があった。
『いい声だ、フィーリア。もっと俺を癒してくれ。お前の全てで、俺の渇きを潤してくれ』
『あぁっ……あああっ……クレイトスには……こんなこと、されたこと、ない……っ』
聖女の口からこぼれる淫らな嬌声と、背徳の快楽に完全に溺れきったその表情。
映像を見ていたカルミラが、腹を抱えて笑い出した。
「あはははっ! 見てごらんなさい、あの清純ぶった聖女の顔! 脅されて仕方なく、なんていう言い訳が全く通用しないほどに悦びの頂点に達していますわ! 人間の女というのは、本当に滑稽で愛らしい生き物ね」
だが、ゼクストは薄い笑みを浮かべたまま、その映像の「端」を指差した。
「皆様、この喜劇の真の主役は、あちらでございます」
ゼクストの指差す先、巨大な岩の陰。
そこには、一切の音を立てず、感情を完全に押し殺した目で二人の交尾を見下ろしている、一人の大柄な戦士の姿があった。
勇者パーティーの前衛を担っていた盾役、クレイトスだ。
「……ほう」
玉座に座る魔王ゼラヴォスが、初めて興味深そうに身を乗り出した。
「ガルヴァドスよ。この戦士の気配の消し方、どう見る」
「……見事です。極限の怒りや悲しみに支配されれば、どれほど鍛え抜かれた戦士でも必ず魔力の揺らぎや殺気が漏れるもの。しかし、この男からは『何も』感じられない。まるで自分が風景の一部にでもなってしまったかのような、完璧な隠密行動です。並の盾役ではありません」
「ご名答です」
ゼクストが一礼する。
「この男こそが、勇者パーティーの真の要でした。彼はその卓越した技術と無尽蔵の体力で、敵の攻撃の全てを一手に引き受け、味方に一切の傷を負わせないという奇跡のような防衛線を構築していたのです。勇者が防御を忘れるほどの無謀な特攻をかけられたのも、全てはこのクレイトスという男の完璧な援護があったからこそ」
「なるほど」
魔王ゼラヴォスは、映像の中で静かに背を向けて立ち去るクレイトスの姿を見つめた。
「最強の盾に守られていることに気づかず、己の実力だと過信した愚かな勇者。そして、その盾の心を永遠にへし折るような裏切りを行った。……自ら防壁を取り払い、丸腰で戦場に出てきたというわけだ。ガルヴァドスの前に現れた彼らが、なぜあのように脆かったのか、これで全ての辻褄が合った」
映像は最後に、朝靄の野営地に切り替わった。
荷物を背負い、冷徹な目でかつての仲間たちを切り捨てるクレイトス。
そして、自分が落とし、自ら踏み躙ったペンダントの残骸に気づき、全てを取り返しがつかない形で失ったことを理解して泣き叫ぶフィーリア。
言い訳を並べ立て、虚勢を張るレオンハルト。
『来るな』
その短い一言で、クレイトスは彼らを地獄の底へと突き落とし、二度と振り返ることなく森の奥へと消えていった。
「……見事なものだ」
魔王ゼラヴォスは、心底感心したように深く頷いた。
「怒り狂って復讐に走るでもなく、相手を罵倒して自己正当化を図るでもない。己が命を懸けて守る価値がないと判断した瞬間に、一切の未練を断ち切り、ただ静かに見切りをつけて去る。それこそが、最も冷酷で、最も正しい選択だ」
「ええ。勇者も聖女も、この男の不器用な優しさに完全に甘え切っていたのでしょう。彼が永遠に自分たちを許し、守り続けてくれると信じて疑わなかった。その結果が、あの『死の谷』での無惨な最期です」
「人間とは、本当に面白い生き物だな」
魔王は玉座からゆっくりと立ち上がり、巨大なマントを翻した。
「絆や愛といった美辞麗句で自らを着飾りながら、その本質は欲望と傲慢で泥のように濁っている。我ら悪魔の方が、よほど己の欲望に忠実で清々しいというものだ」
魔王の言葉に、幹部たちも同調するように冷酷な笑みを浮かべた。
「して、ゼクストよ。そのクレイトスという戦士は、今どこで何をしている? 万が一、別の勇者を見出し、再び我らの前に立ち塞がるようなことがあれば厄介だが」
「ご安心ください、魔王様」
ゼクストは胸に手を当て、恭しく答えた。
「彼は東の地を完全に捨て、現在は西の国境を越えた自由都市バロアに滞在しております。重いタワーシールドは売り払い、身軽な長剣一本を腰に差して、ただの気ままな冒険者として日銭を稼ぐ毎日です。夜は酒場で安酒をあおり、傭兵たちと笑い合っているとか。もはや、世界を救うなどという大義には、一片の興味も抱いておりません」
「そうか」
魔王はふっと口角を上げ、満足げに頷いた。
「人間の裏切りによって心を閉ざし、しがらみから解放された男か。彼が再び我らに刃を向けることはあるまい。むしろ、自らの手で最強の盾を捨て去り、我らの勝利を確固たるものにしてくれた人間たちの愚かさに、今は感謝の杯を上げたい気分だ」
「ちなみに、生かしておいた聖女ですが」
ゼクストが思い出したように付け加えた。
「現在も『死の谷』を徘徊し、亡霊のように戦士の名を呼び続けております。魔力は完全に枯渇し、正気を失った彼女は、野盗にすら相手にされない薄汚れた肉塊と化しています。助けを呼ぶ声は誰にも届かず、永遠に癒えることのない後悔という地獄を、死ぬまで味わい続けることでしょう」
「ふん。自業自得という言葉すら生ぬるいな」
ガルヴァドスが鼻で笑い、カルミラが「お可哀想に」と全く感情のこもっていない声で呟いた。
「さあ、喜劇の鑑賞はここまでだ。余興は終わった」
魔王ゼラヴォスが重々しい声で告げると、玉座の間の空気が一変した。
圧倒的な魔力の波動が放たれ、城全体が地鳴りのように震え始める。幹部たちは一斉に表情を引き締め、魔王の前に傅いた。
「我らを脅かす光の使徒は、彼ら自身の愚かさによって自滅した。今こそ、人間どもの脆弱な国々を蹂躙し、この世界を我が魔界の闇で覆い尽くす時だ。全軍に出撃の命を下せ!」
「「「ははっ!!」」」
魔王の号令に応え、悪魔たちの雄叫びが奈落の底に響き渡った。
勇者という絶対的な希望を失い、自らの手で崩壊を招いた人間たちに、もはや魔王軍の進撃を止める術はない。
彼らが信じた「絆」は偽りであり、彼らが掲げた「大義」は欲望に塗り潰された。
人間が織りなす滑稽な愛憎劇の代償として、世界は今、本当の終焉を迎えようとしていた。
その頃、遥か西の自由都市バロアの安酒場では、一人の男が静かにエールのジョッキを干していた。
遠い東の空が不吉な黒雲に覆われ始めていることなど知る由もなく、彼はただ、目の前にある硬い干し肉を噛みちぎりながら、新しい自分の人生を気負いなく歩み続けていた。
世界がどうなろうと、もう彼には関係のないことだった。




