第6話:荒野に響く悔恨
「嘆きの死の谷」と呼ばれるその場所は、文字通り死の匂いに満ちていた。
両側を切り立った黒い岩肌に挟まれた谷底には、かつてここで命を落とした兵士たちの白骨や、錆びついた武具が無数に散らばっている。空は分厚い鉛色の雲に覆われ、太陽の光すら届かない。吹き抜ける冷たい風が、岩の隙間を通り抜ける際に「ヒュウ、ヒュウ」と不気味な音を立てており、それが無念の死を遂げた者たちの嘆き声のように聞こえることから、その名が付けられていた。
「出やがれ、魔王軍の犬ども! この勇者レオンハルトが、貴様らの首を獲りに来てやったぞ!」
谷の中央で、血走った目をしたレオンハルトが叫んだ。
彼の銀色の甲冑は泥と血で汚れ、かつての輝きは見る影もない。過労と魔力枯渇によって頬はこけ、息は荒い。それでも彼は、己の虚栄心を満たすためだけに聖剣を振り上げ、狂ったように咆哮を上げていた。
その後方で、レグナスは絶望的な表情で弓を構えていた。彼のエルフとしての鋭敏な感覚は、すでに谷の奥深くから迫り来る「圧倒的な死の気配」を正確に捉えていた。今すぐ逃げ出さなければ全滅する。細胞のすべてがそう警鐘を鳴らしているというのに、彼の足は動かなかった。ここでレオンハルトを見捨てれば、自分のこれまでの旅も、見て見ぬふりをしてきた罪も、すべてが無意味な徒労に終わってしまうという意地があったからだ。
そして、彼らからさらに離れた岩陰で、フィーリアは膝を抱えてうずくまっていた。
虚ろな目は宙を彷徨い、手にした杖は力なく地面に落ちている。彼女はもう、魔物の気配にすら反応を示さず、ただブツブツと何かの許しを乞うように呟き続けていた。
「……随分と騒々しい虫が入り込んできたと思えば。人間の勇者か」
地鳴りのような低い声が、谷底を震わせた。
谷の最奥、濃い霧の中から姿を現したのは、山のように巨大な四足歩行の魔獣だった。全身を覆う漆黒の鱗は鋼よりも硬く、鋭い牙が並ぶ顎からは瘴気が漏れ出している。魔王軍四天王の一角、黒竜将ガルヴァドス。かつて国軍の精鋭をたった一体で壊滅させた、本物の化け物だった。
「待っていたぞ、化け物! 俺が貴様を討ち取り、このレオンハルトこそが真の英雄だと世界に証明してやる!」
レオンハルトは狂笑を上げ、聖剣に魔力を集中させた。光の刃が形成され、周囲の闇を切り裂く。それは確かに勇者の名に恥じない、強力な一撃だった。だが、彼には決定的なものが欠けていた。
「レオンハルト、待て! 単独で突っ込むな!」
レグナスの制止の声は、レオンハルトの耳には届かなかった。
彼は地面を蹴り、黒竜将の正面へと無謀な突撃を敢行した。以前の彼であれば、クレイトスが前衛でタワーシールドを構え、魔物の強烈な攻撃を完全に受け止めてヘイトを集めている隙に、側面や背後からこの一撃を叩き込んでいたはずだ。
だが今は、彼の前に立つ盾は存在しない。
黒竜将の巨大な赤い瞳が、真っ直ぐに向かってくるレオンハルトをゴミを見るような目で見下ろした。
「愚かな」
黒竜将が前足の巨大な爪を無造作に振り下ろした。
空気を引き裂く轟音と共に、レオンハルトの頭上に死の鉄槌が迫る。
その瞬間、レオンハルトの脳裏に「回避できない」という直感が閃いた。これまでは、どんな凶悪な攻撃が来ようとも、必ずクレイトスが間に割って入り、その重厚な盾で弾き返してくれていた。その絶対的な安心感が、彼の動きから防御や回避の選択肢を奪い、攻撃一辺倒の戦い方を染み込ませてしまっていたのだ。
「あ……」
己の致命的な過ちに気づいた時、すでに遅かった。
レオンハルトが咄嗟に掲げた聖剣ごと、巨大な爪が彼を地面に叩きつけた。
「ガアアアアッ!?」
鈍い骨の砕ける音と、耳を疑うような絶叫が響き渡る。
砂埃が晴れた後、そこにあったのは、もはや人間の原型を留めていない血みどろの肉塊だった。下半身を完全に押し潰され、内臓をぶちまけながら、レオンハルトは血の泡を吹いて痙攣していた。
「レオンハルト!!」
レグナスが絶叫し、渾身の力を込めた魔力矢を連射した。
三本の光の矢が黒竜将の顔面に向かって飛ぶが、分厚い漆黒の鱗に弾かれ、火花を散らすだけで傷一つ負わせることができない。
「クレ……イ、トス……た、すけ……」
地面に這いつくばるレオンハルトが、虚ろな目で宙に手を伸ばす。
最期の瞬間に彼が求めたのは、自分が裏切り、見下し、追放したはずの不器用な戦士の名前だった。彼の肥大化したプライドは完全に粉砕され、己の愚かさを呪う暇すら与えられず、黒竜将の無慈悲な二度目の踏みつけによって、その哀れな命を散らした。
「ああ……あああっ……」
レグナスは弓を持つ手を震わせた。
終わりだ。すべてが終わった。
世界を救う大義も、勇者の栄光も、俺が守ろうとしたパーティの和も。すべては俺が真実から目を背け、歪みに蓋をし続けた結果だ。
黒竜将の冷酷な視線が、今度はレグナスへと向けられた。
圧倒的な魔力の波動が放たれ、強烈な瘴気のブレスが谷底を薙ぎ払う。
「ぐああああああっ!!」
レグナスは咄嗟に防壁の魔法を展開したが、まるで紙屑のように吹き飛ばされた。
岩壁に激しく叩きつけられ、弓を引くための右腕が肘から先で無惨にちぎれ飛ぶ。大量の血を流しながら地面に転がった彼は、痛みに身悶えすることもできず、ただ薄れゆく意識の中で己の罪を悔いた。
もしあの時、レオンハルトを止めていれば。クレイトスに真実を話して、全員で向き合っていれば。
エルフの長い寿命を持て余した彼が、最後に見た景色は、灰色に曇った絶望の空だった。
「……退屈な余興だ。魔王様を脅かす勇者と聞いていたが、ただの羽虫に過ぎなかったか」
黒竜将は鼻で笑い、谷の奥へと踵を返そうとした。
だが、その時。岩陰から聞こえてきた微かな嗚咽の音に、巨大な魔獣は足を止めた。
「ひっ……いやっ……こないで……」
フィーリアだった。
仲間が惨殺される光景を目の当たりにし、彼女の精神は完全に崩壊していた。腰を抜かし、地面を後ずさりながら、涙と鼻水にまみれた顔で首を振っている。
黒竜将はゆっくりと彼女に近づき、その巨大な顔を近づけた。
腐敗したような瘴気の匂いが、フィーリアの肺を満たす。彼女は恐怖のあまり声も出せず、ただ目を固く閉じて死を待った。
だが、黒竜将は彼女を殺さなかった。
「……戦う意志すらない空っぽの肉人形か。殺す価値もない」
興味を失った魔獣は、彼女の存在を路傍の石のように無視し、そのまま霧の向こうへと姿を消していった。
静寂が戻った死の谷。
残されたのは、無惨に砕け散った勇者の死体と、右腕を失い息絶え絶えの弓使い。そして、無傷のまま取り残された聖女だけだった。
「ああ……あああ……」
フィーリアは、震える足で立ち上がり、血だまりの中を歩いた。
レオンハルトの死体を見下ろしても、何の感情も湧かなかった。レグナスの傍らに跪き、回復魔法をかけようとしたが、彼女の杖からは一筋の光すら生まれなかった。
彼女は完全に力を失っていた。
清らかな祈りを捧げる心は、背徳の快楽と裏切りの罪に汚染され、二度と回復することはない。
「なんで……なんで、私だけ……」
フィーリアは廃墟と化した谷底で、一人膝をついた。
生き残ってしまった。仲間が皆殺しにされる中、自分だけが無様に生き長らえてしまった。
その事実が、彼女にとって死よりも重い地獄の苦しみとなってのしかかる。
もしあの夜、レオンハルトに脅された時、彼を拒絶して大声で助けを呼んでいれば。
クレイトスなら、必ず駆けつけて守ってくれたはずだ。たとえ勇者が相手でも、あのタワーシールドで私の前に立ちはだかり、命を懸けて守り抜いてくれたはずなのだ。
「何があっても、俺が一番前でお前を守る。俺の盾は、お前のためにあるんだからな」
いつか聞いた、彼の不器用で誠実な言葉が、脳裏に鮮明に蘇る。
あの温かい笑顔。ゴツゴツとした優しい手。私に向けられていた、何の見返りも求めない絶対的な愛情。
それらを自らの手で泥にまみれさせ、永遠に壊してしまったのは、他の誰でもない自分自身だ。
「クレイトス……ごめんなさい……ごめんなさい……!」
フィーリアは泥だらけの地面に顔を押し当て、枯れるまで涙を流し続けた。
狂ったように彼の名前を叫び、助けを求め、許しを乞うた。だが、どんなに泣き叫ぼうとも、あの頼もしい背中が目の前に現れることは二度とない。
彼女はこれからの長い人生を、魔力も名誉も愛する人も失ったただの小汚い女として、この永遠に癒えない生き地獄のような後悔を抱えたまま生きていかなければならないのだ。
廃墟の谷に響き渡る彼女の慟哭は、誰の心に届くこともなく、ただ冷たい風に流されていった。
その頃。
東の死の谷から遥か遠く離れた、西の自由都市バロア。
街の喧騒から少し離れた小高い丘の上で、俺は一人、夕暮れの空を見上げていた。
数日前、冒険者ギルドで飛び交っていた噂話が、ついに確定の報として届いた。
『勇者レオンハルトのパーティ、黒竜将との戦闘で全滅。勇者は死亡、弓使いは行方不明、聖女は発狂して廃人と化した』
その知らせを聞いた時、ギルドの連中は顔を青ざめさせ、世界の終わりが来たかのように騒ぎ立てていた。無理もない。魔王を倒すはずだった希望の星が、あっけなく散ったのだから。
だが、俺の心は凪いだ水面のように静かだった。
彼らの死を喜ぶような復讐心もない。かつての仲間を失った悲しみもない。
ただ、「そうか」という冷たい事実だけが、俺の頭を通り過ぎていった。
俺は丘の草地に座り込み、腰に差した新しい長剣の柄を撫でた。
俺はもう、誰かの盾ではない。自分の身は自分で守り、自分が生きたいように生きる、ただの風来坊だ。
この数ヶ月、自由都市での生活は思いのほか悪くなかった。気のいい傭兵たちと酒を酌み交わし、適当な依頼をこなして日銭を稼ぐ。誰かの顔色を窺う必要も、裏切りに怯える必要もない、身軽で気楽な日々。
オレンジ色に染まる空の向こうに、かつて共に旅をした仲間たちの顔が思い浮かんだ。
レオンハルトの傲慢な笑顔。レグナスの呆れたようなため息。
そして、フィーリアの作り物の笑顔と、あの夜の蕩けた表情。
胸の奥底に、ほんの微かな痛みが走ったような気がしたが、俺はそれを深呼吸と共に外へ吐き出した。
もう、完全に終わったことだ。
彼らは彼らの選んだ道を行き、その結果を受け取った。俺は俺の道を行き、今こうして生きている。それだけのことだ。
「……さようなら、フィーリア」
遠い空に向かって、俺は一度だけ彼女の名前を呟いた。
そこに恨み言はなかった。愛の残滓もなかった。
それは、かつて自分が愛した幻想への、完全なる決別の言葉だった。
俺はゆっくりと立ち上がり、草の汚れを払った。
太陽は地平線の向こうへと沈みかけ、新しい夜が始まろうとしている。
振り返ることはしない。過去はすべて、あの東の森に置いてきた。
俺は前を向き、二度と戻らない力強い足取りで、丘を下り始めた。
明日はどの街へ行こうか。そんなことを考えながら歩く俺の背中は、もう誰の重荷も背負っていない、ただ自由な風だけを纏っていた。




