第5話:破滅への歯車
西の国境を越え、赤茶けた荒野が広がる自由都市バロア。
砂埃が舞う大通りから一本路地に入った場所にある、冒険者や傭兵たちが集う薄暗い酒場で、俺はエールの入った木製のジョッキを傾けていた。
店内は、汗と酒と安葉巻の匂いが入り混じった独特の熱気を帯びている。俺は壁際の目立たない席に陣取り、注文した硬い干し肉をナイフで少しずつ削りながら、周囲の喧騒をBGM代わりに静かな時間を過ごしていた。
「おい、聞いたか? あの勇者レオンハルトのパーティ、最近ひどい有様らしいぜ」
「ああ、東の商人から聞いたよ。前衛の要だった盾役が抜けてから、連携がガタガタになってるってな。この前も、中級の魔物討伐クエストで大怪我を負って撤退したらしい」
「魔王を倒す英雄様が聞いて呆れるぜ。盾役が一人抜けただけでそこまで崩れるもんかね?」
「そりゃあ、前衛が崩れりゃ魔法使いも弓使いも機能しなくなるからな。あの勇者様、自分の力に過信しすぎてたんじゃないか?」
隣のテーブルから聞こえてきた下世話な噂話に、俺はジョッキを口に運ぶ手を一瞬だけ止めた。
だが、それだけだ。
心臓の鼓動が早まることもなければ、心配で胸が締め付けられることもない。俺の心に浮かんだのは、「やはりそうか」という冷めた納得感だけだった。
俺がいなくなった後、あの三人がどうなるかなど、火を見るよりも明らかだった。レオンハルトは確かに圧倒的な攻撃力を持っている。だが、その攻撃力は「絶対に背後や側面を突かれない」という絶対の安心感、つまり俺の盾があってこそ100%発揮されるものだ。
俺はジョッキの残りを一気に飲み干し、テーブルに銅貨を数枚置いた。
あのパーティはもう俺の過去だ。彼らがどうなろうと、野垂れ死のうと、今の俺には一切関係のないこと。
俺は酒場を出て、夕日に染まる異国の街並みを歩き出した。俺の背中には、もう重厚なタワーシールドはない。身軽な革鎧と、取り回しの良い長剣。それが、すべてを捨てて新しく生き直す俺の今の相棒だった。
俺が遠い異国の地で新たな生活に馴染み始めていた頃。
東の山岳地帯に広がる険しい渓谷では、かつての栄光を完全に失った英雄たちが、無惨な泥試合を繰り広げていた。
「チィッ! なぜこんな雑魚どもに手こずる!」
レオンハルトの怒号が、谷底に虚しく響き渡る。
彼らを囲んでいるのは、数十体のワーゴブリンの群れだった。個々の戦闘力はそれほど高くないが、集団での連携と素早い動きが厄介な魔物だ。以前のパーティであれば、俺がタワーシールドで敵の攻撃をすべて一手に引き受け、一箇所に集めたところをレオンハルトの広範囲魔法剣で一掃して終わる、ただの作業のような戦闘だった。
だが、今は違う。
「レオンハルト、右から来るぞ! 回避しろ!」
後方からレグナスが鋭い警告を発するが、ワーゴブリンの素早い連携攻撃に、レオンハルトは完全に後手に回っていた。
前衛で敵のヘイト(敵意)を集める壁役がいないため、魔物たちは四方八方から無秩序に襲いかかってくる。レオンハルトは攻撃に専念することができず、飛んでくる矢や槍を弾き返し、回避するために莫大な体力と魔力を消費させられていた。
「邪魔だ、失せろ!」
レオンハルトが聖剣を薙ぎ払い、数体の魔物を吹き飛ばす。だが、その大振りの攻撃によって生じた隙を見逃さず、別のワーゴブリンが彼の死角から短剣を突き立てた。
「ぐあっ……!」
レオンハルトの左肩から鮮血が噴き出す。彼は苦痛に顔を歪めながらも、反撃でその魔物を斬り伏せた。
「レグナス、援護はどうした! 何をモタモタしている!」
「無茶を言うな! こちらにも敵が回り込んでいるんだ!」
レグナスの悲痛な叫び声が返ってくる。
彼は本来、安全な後方から戦況を俯瞰し、的確な射撃で敵の急所を撃ち抜くスナイパーだ。だが、前衛が機能していない現在、彼は後衛に迫る敵を自力で処理しなければならず、本来の精密な射撃を行う余裕など全く失われていた。エルフの誇る弓の技術は、ただの自衛手段へと成り下がっている。
「フィーリア! 回復だ、早くしろ!」
肩を押さえながらレオンハルトが叫ぶ。
だが、後方の安全な岩陰で杖を握りしめているフィーリアは、ガタガタと震えるばかりで魔法の詠唱を始めようとしなかった。
「フィーリア! 何をしている、俺の肩が見えないのか!」
血走った目で睨みつけるレオンハルトの怒鳴り声に、彼女はビクッと肩を跳ねさせ、ひきつったような顔で杖を前に突き出した。
「お、大いなる光よ……我らが傷を……癒やし……」
彼女の杖の先端から、弱々しい光の粒子が漏れ出す。だが、それはレオンハルトの肩の傷を塞ぐどころか、触れた傍から霧散して消えてしまった。
回復魔法が発動しないのだ。
聖女の力は、清らかな祈りと、迷いのない精神を源泉としている。だが、今のフィーリアの心は、取り返しのつかない罪悪感と深い絶望によって、真っ黒に淀みきっていた。
彼女の脳裏には、四六時中、クレイトスが最後に向けてきたあの氷のような視線が焼き付いている。自分が犯した背徳の罪。自分の欲望のために、最も愛してくれた人を裏切り、その心を壊したという事実。
その重圧に精神を押し潰された彼女に、神聖な光を操る資格などすでに残されていなかった。
「なぜ治らない! お前は聖女だろうが! 使えない女め!」
傷の痛みに苛立つレオンハルトが、容赦のない罵声を浴びせる。
フィーリアは杖を取り落とし、両手で顔を覆って泣き崩れた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……クレイトス、助けて……」
無意識に零れ落ちたその名前が、レオンハルトの肥大化したプライドをさらに深く抉った。
「その名前を出すな!!」
狂乱したようなレオンハルトの怒号が響く。彼は怒りに任せて魔力の制限を解除し、周囲の地形ごと破壊するような無謀な大魔法を放った。
爆炎が巻き起こり、ワーゴブリンの群れは灰となって消え去ったが、その代償としてレオンハルト自身も魔力枯渇による激しい眩暈に襲われ、その場に膝をついた。
「……最悪だ」
息も絶え絶えになりながら歩み寄ってきたレグナスが、焼け焦げた惨状を見渡して呻いた。
彼の美しい金髪は泥と汗にまみれ、エルフ特有の澄んだ瞳には、深い疲労と絶望の影が落ちていた。
野営地に戻っても、地獄のような空気は変わらなかった。
以前なら、温かいスープの匂いと、俺の不器用な冗談、そしてフィーリアの笑顔があった場所。今そこにあるのは、冷え切った空気と、互いを憎悪するような鋭い視線だけだ。
レグナスは一人で索敵を行い、罠を警戒し、野営の準備を強いられていた。過労は限界を超え、エルフの鋭い感覚すらも麻痺し始めている。
彼は焚き火の前で虚ろな目をしているフィーリアと、テントの奥で苛立ちを隠せないレオンハルトを見て、ついに決断を下した。
「レオンハルト、話がある」
レグナスはテントに入り、腕の傷を布で縛っているリーダーに向き合った。
「もう限界だ。この数週間のクエスト、成功率は半分以下だぞ。前衛がいないまま無茶な戦闘を繰り返したせいで、物資も魔力も底を突きかけている。フィーリアの精神状態も最悪だ」
「だから何だ。休めとでも言うのか」
レオンハルトは暗い瞳でレグナスを睨み返した。
「そうだ。一度、大きな街へ戻ろう。そこで新しい盾役を雇うか、少なくとも態勢を立て直す時間が必要だ。このまま進めば、俺たちは全滅する」
それは、パーティの生存を考えた上での最も理にかなった提案だった。
だが、世界を救う勇者という立場に固執し、焦燥感に支配されたレオンハルトに、その常識的な言葉が届くはずもなかった。
「断る」
「レオンハルト!」
「俺が『クレイトスがいないと何もできない無能』だと認めて、街の連中に笑われろと言うのか! 噂はもう広まっているんだぞ! 『勇者は前衛の盾役に見捨てられた』とな!」
レオンハルトが立ち上がり、レグナスの胸倉を掴んだ。
彼の顔には、焦りと、狂気に近い強迫観念が張り付いていた。彼はクレイトスを見下し、自分の力を過信していた。だからこそ、クレイトスがいなくなった途端に落ちぶれたという事実を、絶対に認めることができなかったのだ。
「俺は勇者だ! 世界を救う宿命を持った特別な存在なんだ! 盾役の代わりなんて、俺の圧倒的な力でいくらでも補える!」
その瞳は血走り、正気とは思えない光を放っていた。
レグナスは掴まれた胸元を見下ろし、深い絶望の溜息をついた。かつて尊敬していたリーダーの姿は、そこにはもうなかった。ただ自分の虚栄心を守るために仲間を死地に引きずり込もうとする、哀れな男がいるだけだった。
レオンハルトはレグナスを突き飛ばし、テーブルの上に広げられた地図を乱暴に指差した。
「明日は、この先にある『嘆きの死の谷』へ向かう。あそこには魔王軍の幹部である四天王の一人、黒竜将が陣を構えているはずだ」
「なっ……正気か!? あそこは国軍の一個大隊が全滅した場所だぞ! 今のボロボロの俺たちで勝てる相手じゃない!」
「勝つさ。俺が一人で奴の首を刎ねてみせる。そうすれば、世間の馬鹿どもも、俺の真の力を認めるだろう。クレイトスなんていう足手まといがいなくなったからこそ、大金星を挙げられたのだとな!」
もはや、説得は不可能だった。
レオンハルトの目的は「魔王を倒して世界を救う」ことから、「己の健在を誇示し、クレイトスを見返す」という極めて個人的で歪んだものへと完全にすり替わっていた。
「……お前は、完全に狂っている」
レグナスは静かにそう言い残し、テントを出た。
夜風が冷たく頬を撫でる。焚き火のそばでは、フィーリアが膝を抱え、ブツブツと意味不明な言葉を呟きながら揺れていた。彼女の心はすでに現実から逃避し、崩壊の淵に立っている。
止める者は誰もいない。
狂気に駆られた勇者、心を失った聖女、そして諦観に支配された弓使い。
歯車は完全に狂い、修復不可能なほどに歪んでしまった。
彼らはもはや、世界を救う英雄のパーティなどではない。死の運命に魅入られ、自ら奈落の底へと行進を続ける、哀れな亡者の群れでしかなかった。
明日の夜明けと共に、彼らは確実に死が待つ谷へと足を踏み入れる。
破滅へのカウントダウンは、最後の数字を刻もうとしていた。




