第4話:去りゆく背中、壊れゆく絆
朝靄が立ち込める森に、耳をつんざくような悲痛な叫びが響き渡った。
「クレイトス……待って……お願い、行かないで……!」
フィーリアの声だった。それは、これまで俺が聞いてきた彼女のどんな声よりも醜く、悲惨で、絶望に満ちていた。
背後で、彼女が泥にまみれた地面を這うようにして追いすがってくる気配がする。神官としての矜持も、聖女としての体面もかなぐり捨て、ただ俺の足元にすがりつこうと手を伸ばしているのが分かった。
だが、俺の歩みは微塵も揺らがなかった。
「来るな」
振り返ることなく、俺は低く、ひび割れた声で言い放った。
怒りも、悲しみも、憎悪すらも込められていない。ただ事実として、彼女という存在を俺の視界から、俺の人生から完全に排除するための、絶対的な拒絶の言葉。
そのたった一言が、不可視の刃となってフィーリアの全身を貫いたのだろう。背後で、彼女の動きがピタリと止まる気配がした。
「ああ……ああっ……そんな……クレイトス……私が、私は……」
喉の奥から絞り出すような、嗚咽とも呼べないような音が森に響く。
彼女は自分が何をしてしまったのか、今更ながらに理解したのだ。己の抱えていたストレスや恐怖を言い訳にし、勇者の与える甘い毒に溺れ、抗いがたい快楽に身を委ねた。その代償として、彼女は自分を誰よりも愛し、命を懸けて守り続けてきた男の心を、完全に、そして永遠に破壊したのだ。
だが、俺にはもう彼女を哀れむ気持ちすら湧かなかった。彼女の涙も、後悔の叫びも、今の俺にとってはただの不快な雑音に過ぎなかった。
「何事だ、朝から騒々しい」
その時、野営地の奥から不機嫌そうな声が響いた。
草を掻き分ける音と共に現れたのは、レオンハルトだった。彼は上半身裸のまま、肩に上着を羽織っただけの無防備な姿だった。その首筋には、昨夜フィーリアがつけたであろう生々しい爪痕と、赤い痕跡がはっきりと残っていた。
彼は、旅装束で背を向けて立つ俺と、地面に崩れ落ちて泣き叫ぶフィーリア、そして青ざめて立ち尽くすレグナスの姿を交互に見やった。
「クレイトス、荷物なんか背負って、どういうつもりだ」
レオンハルトの声には、状況を正確に把握しきれていない戸惑いと、リーダーとしての威圧感が混ざっていた。
俺はゆっくりと足を止め、振り返った。
俺の無機質な視線が、レオンハルトの首筋の痕跡を舐め、そして彼の目を真っ直ぐに射抜く。
その瞬間、レオンハルトの表情が凍りついた。俺の目からすべてを悟ったのだ。俺が昨夜の密会を見ていたこと。そして、彼らがひた隠しにしてきた醜悪な秘密が、完全に露見したということを。
「……気づいたか」
レオンハルトは僅かに目を細め、低い声で呟いた。その声には、謝罪の色は微塵もなかった。
「俺は抜ける。お前たちのお遊びの盾になる趣味はない」
淡々と告げる俺の言葉に、レオンハルトの顔がカッと熱を帯びた。
彼は世界を救う勇者としての絶対的なプライドを持っている。自分が裏でどんな非道な行いをしていようと、それを面と向かって否定され、見下されることなど、彼の肥大化した自尊心が許すはずがなかった。
焦燥と、それを隠すための猛烈な怒りが、彼の端正な顔を醜く歪めていく。
「抜けるだと? 貴様、自分が何を言っているのか分かっているのか。俺たちは魔王を倒す宿命を負った英雄のパーティだぞ。個人のつまらない感情で、世界を救う大義を放棄するというのか!」
「大義だと?」
俺は鼻で笑った。冷え切った嘲笑が、朝の静寂に響く。
「聖女を脅し、自分の欲望の捌け口にしておいて、どの口が大義を語る。お前が背負っているのは世界じゃない、ただの自己愛だ」
「貴様……!」
レオンハルトが腰の聖剣に手をかけようとする。だが、彼は剣を抜かなかった。いや、抜けなかったのだ。俺から放たれる、一切の感情を削ぎ落とした死神のような気迫に、彼自身が本能的な恐怖を感じていたのだろう。
「行きたいなら行け! 貴様のような脳筋の盾役など、代わりはいくらでもいる! 俺は勇者だ、貴様がいなくても魔王など必ず打ち倒してみせる!」
それは、完全な負け犬の遠吠えだった。
焦りと恐怖を必死に取り繕うための、空虚な怒鳴り声。
俺はもはや彼に返す言葉すら持たなかった。最後に一度だけ、地面に這いつくばって泣き続けるフィーリアと、その横で顔を覆うレグナスを一瞥した。
「好きにしろ。二度と俺の前に顔を出すな」
それが、俺がかつての仲間たちに向けた最後の言葉だった。
踵を返し、朝靄の立ち込める森の奥へと歩き出す。背後からレオンハルトの怒号が響いていたが、それもすぐに遠ざかり、やがて鳥のさえずりと風の音にかき消されていった。
俺の胸の中は、驚くほど空っぽだった。
怒りも、悲しみもない。ただ、これまで両肩に重くのしかかっていた「彼らを守らなければならない」という呪縛から解放された、奇妙な身軽さだけがあった。
クレイトスの背中が完全に朝靄の向こうへと消え去った後。
残された野営地には、死のような重苦しい静寂が降り降りていた。
「クレイトス……あああ……っ……」
フィーリアは、泥だらけになった地面に顔を押し当て、狂ったように泣き叫び続けていた。
彼女の心は完全に引き裂かれていた。
クレイトスのあの冷たい視線。ゴミを見るような目。彼に拒絶された瞬間、彼女はやっと自分の犯した罪の恐ろしさを理解したのだ。
レオンハルトに求められることで得ていた、あの歪んだ優越感と背徳の快楽。それがどれほど浅ましく、汚らわしいものだったのか。彼女は自分を「犠牲者」だと思い込もうとしていた。クレイトスを守るために、仕方なく体を差し出したのだと。だが、昨夜の自分は明らかに快楽に溺れ、自ら彼を求めていた。
その醜い真実を、世界で一番愛する人に、最も見られたくない形で見せつけてしまった。
取り返しがつかない。もう二度と、あの温かい手で抱きしめてもらうことはできない。彼が不器用な笑顔で向けてくれた絶対的な愛情は、もう二度と戻ってこない。
その後悔が、鋭い刃となって彼女の精神をズタズタに切り裂いていた。
「泣くのはやめろ、フィーリア」
苛立ちを隠せない声で、レオンハルトがフィーリアの腕を掴み、強引に立たせようとした。
「あいつはもう行った。俺たちの旅に、あんな意志の弱い男は不要だ。お前には俺がいるだろう。俺がお前を……」
「触らないで!!」
フィーリアは、獣のような金切り声を上げ、レオンハルトの手を激しく振り払った。
その力強さと、彼女の瞳に宿る明確な嫌悪感に、レオンハルトは呆然と立ち尽くした。
「フィーリア……お前……」
「あなたのせいよ……あなたが私を脅したから! クレイトスを殺すって言ったから! だから私は……私は……!」
彼女は自分の頭を両手で掻きむしり、狂乱したように叫び続けた。
自分の中に芽生えた醜い快楽の記憶を消し去りたいかのように、彼女はレオンハルトに向かって泥を投げつけ、泣き崩れた。
レオンハルトの顔が、屈辱と怒りで朱に染まる。
「俺のせいだと? 昨夜、俺の背中に爪を立てて啼き喚いていたのはどこのどいつだ! お前も楽しんでいただろうが!」
「違う! 違う、ちがうっ……!!」
二人の醜い罵り合いが、静かな朝の森に響き渡る。
それを見ていたレグナスは、ついに耐えきれなくなり、怒号を上げた。
「いい加減にしろ!!」
エルフの魔力を込めた声が、空気を震わせた。
レオンハルトとフィーリアが、弾かれたように動きを止める。レグナスは拳を強く握り締め、ギリギリと歯を食いしばっていた。
「お前たちが裏で何をしていようと、俺は目をつぶるつもりだった……。だが、これは何だ! パーティの要である前衛を追い出し、互いを罵り合う。これが世界を救う英雄の姿か!」
レグナスの言葉は、彼らへの怒りであると同時に、自分自身への激しい嫌悪と悔恨でもあった。
異変に気づいていながら、大義のために見て見ぬふりをした結果がこれだ。彼が守ろうとした「パーティの和」など、最初から腐りきった砂上の楼閣に過ぎなかったのだ。
「レオンハルト、お前がどれだけの重圧を抱えていたかは知っている。だが、その代償をクレイトスとフィーリアに押し付けたお前の罪は、決して許されるものではない」
「俺に説教する気か、レグナス! お前だって知っていて黙っていたんだろうが! 共犯者のくせに、今更善人ぶるな!」
レオンハルトの反論は、レグナスの心の一番痛い部分を正確にえぐった。
レグナスは反論できず、力なくうなだれた。
修復不可能な亀裂。
かつて、背中を預け合い、数々の死線を共に乗り越えてきた四人の絆は、たった一夜にして完全に粉砕された。
そこにあるのは、互いへの不信感、責任転嫁、そして自己嫌悪だけだ。
クレイトスが残していった重厚なタワーシールドが、持ち主を失い、冷たい朝露に濡れてテントの傍らに転がっている。それはまるで、このパーティの守りが永遠に失われたことを象徴する墓標のようだった。
「……出発の準備をしろ」
長い沈黙の後、レオンハルトが吐き捨てるように言った。
「魔王討伐の期限は迫っている。ここで立ち止まるわけにはいかない。俺たちは三人でも進む」
その声には、かつてのような力強さも、仲間を鼓舞する響きもなかった。
あるのは、己の正当性を証明しなければならないという、焦燥に駆られた独りよがりな意地だけだった。
フィーリアは地面に座り込んだまま、抜け殻のように虚空を見つめている。彼女の瞳からは光が失われ、ただ涙だけが止めどなく流れ続けていた。
レグナスは重いため息をつき、無言で自分の荷物をまとめ始めた。
こうして、崩壊した英雄たちは、後戻りのできない破滅への道を歩み始めた。
一方、その頃。
俺は森を抜け、太陽が高く昇り始めた荒野の道を一人で歩いていた。
足取りは軽く、背負っている荷物も気にならない。
ずっと俺の左腕を重く縛り付けていた盾がないことが、これほどまでに自由な感覚だったとは知らなかった。
心の中は相変わらず空っぽだった。
だが、その空洞に吹き込む風は、決して不快なものではなかった。
俺はもう、誰かのために血を流す必要はない。誰かの背中を守るために、自分の命をすり減らす必要もない。
「さて……これからどこへ行くか」
俺は立ち止まり、眩しい太陽を見上げた。
あいつらと向かうはずだった魔王軍の砦は東だ。ならば、俺は西へ行こう。国境を越え、誰も俺を知らない場所へ。
胸の奥に、ほんの僅かにだが、冷たい棘のような痛みが残っている。
それは、フィーリアの笑顔や、レオンハルトと交わした盃の記憶だろう。だが、その痛みすらも、俺の決意を鈍らせることはなかった。
かつての絆は壊れた。俺はそれを自分自身の手で完全に切り捨てたのだ。
俺は再び歩き出した。
過去を振り返ることは、二度とない。
俺の足跡は、荒野の砂に刻まれ、やがて吹く風にかき消されていった。




