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月光の下で穢れた聖女と、静かに背を向けた戦士~遅すぎた後悔と壊れた英雄たち~  作者: ledled


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第3話:月光が照らした終焉

不気味なほどに静かな夜だった。

風の音も、夜行性の虫の鳴き声も、獣たちの遠吠えすら聞こえない。まるで世界そのものが息を潜めているかのような静寂の中で、俺は寝袋の中で一人、どうしても閉じることのできない目を開いたままテントの天井を見つめていた。


疲労は骨の髄まで染み込んでいるはずだった。今日のオーガの群れとの戦闘は過酷を極め、盾を構え続けた両腕は鉛のように重い。普段なら、横になった瞬間に泥のような眠りに落ちているところだ。

だが、今夜はどうしても眠りにつくことができなかった。

胸の奥底で、得体の知れない黒い靄のようなものが渦巻いている。心臓の鼓動が不規則に早鐘を打ち、理由のない焦燥感がじわじわと全身を蝕んでいくような感覚。それは、長年の戦士としての勘が発する、致命的な危険を知らせる警鐘に他ならなかった。


脳裏に浮かぶのは、最近のフィーリアの姿だ。

彼女の笑顔は、日を追うごとにどこか不自然になっていた。俺が声をかけるたびにビクッと肩を震わせ、目を合わせようとしない。俺の差し出す手から逃げるように距離を置くことも増えた。

俺はそれを、過酷な旅によるストレスや、死と隣り合わせの恐怖からくるものだと信じ込んでいた。俺の優しさが足りないからだ、もっと彼女を守らなければ、と自分を責めてすらいた。

だが、本当にそうなのか?

今日、彼女がふと見せた、虚ろで熱を帯びたような瞳。あれは恐怖に怯える者の目だっただろうか。何か別の、俺の知らない深い沼に沈み込んでいるような、そんな危うさを孕んでいなかったか。


思考が堂々巡りを繰り返し、息苦しさが増していく。

俺はたまらず寝袋から這い出し、重い革のブーツを履いた。冷たい夜風にでも当たれば、この馬鹿げた胸騒ぎも少しは収まるかもしれない。剣の柄に無意識に手をかけながら、音を立てずにテントの入り口を潜り抜けた。


外は、青白い月光が容赦なく降り注いでいた。

野営地の中央にある焚き火はすでに熾火となり、かすかな赤い光を放つのみだ。周囲の木々は、黒い巨人のように俺たちを囲い込んでいる。

俺はふと、フィーリアのテントに目を向けた。

入り口の布が、わずかに開いている。

胸の動悸が一気に跳ね上がった。俺は足音を殺して彼女のテントに近づき、隙間から中を覗き込んだ。

もぬけの殻だった。寝袋は乱れ、そこに彼女の姿はない。


「フィーリア……?」


かすれた声が漏れる。まさか、魔物に攫われたのか? いや、それなら見張りのレグナスが気づくはずだ。

俺は視線を上げ、レグナスが警戒にあたっているはずの太い樫の木の枝を見上げた。エルフである彼は、俺たち人間よりもはるかに少ない睡眠で活動できる。

だが、樹上に彼の姿はなかった。

いや、いないのではない。よく見ると、太い幹の陰に身を潜め、俺たちの野営地ではなく、森の奥の特定の方向をじっと見つめている影があった。その背中には、極度の緊張と、何かを見て見ぬふりをするような、奇妙な硬直が見て取れた。


「レオンハルトも、いない……」


リーダーのテントもまた、主を失って空っぽだった。

俺の頭の中で、バラバラだったパズルのピースが、不吉な音を立てて組み合わさっていく。

俺はもう、夜風に当たるなどという悠長な言い訳を捨てていた。柄を握る手に力を込め、レグナスが背を向けている方角、すなわち森の最も深い暗がりへと向かって歩みを進めた。


枯れ枝を踏まないように、草の擦れる音さえも殺して進む。

月明かりが差し込む場所と、完全な闇が交差する獣道を抜けていく。

どれくらい歩いた頃だろうか。前方にある巨大な岩の陰から、微かな音が聞こえてきた。

水が跳ねるような、湿った音。布が擦れる音。

そして、か細い声。


「あ、あっ……ひっ……」


フィーリアの声だ。

俺の頭に真っ先に浮かんだのは、やはり魔物の襲撃だった。声は苦痛に喘いでいるように聞こえた。俺は血の気が引くのを感じながら、すぐさま剣を引き抜き、岩を回り込んで飛び出そうとした。


だが、次の一瞬で、俺の足は地面に縫い付けられたように止まった。


「レオンハルト……さま……だめ、そこ……」

「いい声だ、フィーリア。もっと俺を癒してくれ。お前の全てで、俺の渇きを潤してくれ」

「あぁっ……あああっ……」


それは、悲鳴ではなかった。

苦痛によるものでも、助けを求めるものでもなかった。

甘く、とろけるような、濃密な快楽に溺れきった女のあえぎ声だった。


俺は息をするのも忘れ、岩の陰からそっと視線を前に向けた。

そこは、周囲の木々が開け、夜空から満月の光がスポットライトのように降り注ぐ、小さな円形の空間だった。

冷たい月光が照らし出していたのは、あまりにも残酷で、あまりにも醜悪な真実だった。


脱ぎ捨てられた純白の神官服が、泥にまみれて地面に散らばっている。

その傍らで、見慣れた銀色の甲冑の一部が無造作に放り出されていた。

そして、柔らかな草の絨毯の上で、二つの肉体が激しく絡み合っていた。


俺の視線の先には、仰向けに倒されたフィーリアの姿があった。

その上に覆い被さっているのは、間違いなく俺たちが命を預けるリーダー、勇者レオンハルトだった。彼の逞しい背中が、獣のような荒い息遣いと共に上下している。

だが、俺の心を永遠に破壊したのは、レオンハルトの裏切りそのものではなかった。

レオンハルトの肩越しに見えた、フィーリアの表情だ。


彼女の顔は、俺が見たこともないような熱を帯び、紅潮していた。

瞳は焦点が定まらずに蕩けており、半開きの唇からはとめどなく甘い吐息と涎がこぼれ落ちている。

彼女の細い腕は、レオンハルトの背中に強くしがみつき、彼の背に爪を立てていた。その指先には、明確な執着と、もっと深く求めているという意志が宿っている。

無理やり犯されているわけではない。脅されているわけでもない。

彼女は、自らの意志で、この背徳の快楽に全身まで浸りきっていたのだ。


「クレイトスには……こんなこと、されたこと、ない……っ」

「当然だ。あの愚図に、お前の奥底を暴くことなどできるはずがない。お前は俺だけのものだ」

「はい……っ、私は、あなたの……」


その言葉が俺の耳に届いた瞬間。

俺の中で、何かが完全に、そして永遠に終わりを告げた。


激しい怒りが湧き上がることはなかった。

叫び声を上げて飛び出し、レオンハルトを斬り捨てることもしなかった。

フィーリアにすがりつき、なぜだと泣き叫ぶこともなかった。

俺の全身を支配したのは、ただただ果てしなく冷たい、氷のような虚無感だった。


俺は何のために盾を構えてきたのだろう。

何のために、自分の体を血で染めながら、この仲間たちを守ってきたのだろう。

全ては、俺の滑稽な自己満足に過ぎなかったのだ。

俺が命を懸けて守り抜こうとした清廉潔白な聖女は、どこにも存在しなかった。目の前で淫らに腰をくねらせているのは、俺の愛を足蹴にし、別の男の腕の中で快楽に狂う、見知らぬ雌でしかなかった。

世界を救う大義名分を掲げる勇者は、その実、仲間の恋人を寝取り、己の欲望を満たすだけの浅ましい獣だった。


月光に照らされて、キラリと光るものが地面に落ちた。

激しい動きの中で千切れたのだろう。俺が昨日彼女に贈った、鳥の形をした木彫りのペンダントだった。

フィーリアはそれに気づく様子すらなく、ペンダントを無残に背中で踏み躙りながら、さらに高い声を上げてレオンハルトを抱きしめた。


その瞬間、俺の心は完全に死んだ。

愛も、信頼も、情熱も、すべてが一瞬にして灰と化し、吹き飛んでいった。

残ったのは、これ以上この汚らわしい空間に一秒たりとも留まりたくないという、冷徹なまでの拒絶だけだった。


俺は音を立てずに剣を鞘に戻した。

表情の筋肉は凍りつき、呼吸は限りなく静かで浅くなっていた。

自分の鼓動すら聞こえない。まるで、自分という存在が幽霊にでもなってしまったかのような錯覚を覚えながら、俺はゆっくりと背を向け、来た道を戻り始めた。

足取りは驚くほど軽かった。もはや、俺の肩に乗っていた「守るべきもの」という重圧が、完全に消え去っていたからだ。


野営地に戻った俺は、自分のテントに入り、淡々と荷物をまとめ始めた。

必要最低限の食料と水、数枚の金貨。そして、使い慣れた愛剣だけを腰に差す。

長年俺の体を守り抜き、数え切れないほどの魔物の攻撃を弾き返してきた重厚なタワーシールドは、テントの隅に立てかけたままにした。

もう、誰も守る必要はない。この盾は、これからの俺には無用の長物だった。


「クレイトス……何をしている」


テントの入り口に、一つの影が落ちた。

振り返ると、そこには青ざめた顔をしたレグナスが立っていた。エルフの鋭い目は、俺が荷造りをしている異様な光景を捉え、微かに震えている。


「見ればわかるだろう。荷物をまとめている」


俺の声は、自分でも驚くほど平坦で、何の感情もこもっていなかった。


「こんな夜更けに、どこへ行くつもりだ。明日は渓谷を抜けて……」

「抜ける。俺はこのパーティを抜ける」

「なっ……何を馬鹿なことを言っている! 突然どうしたんだ、何か不満でもあるのか!?」


レグナスは血相を変えてテントに入り込み、俺の肩を掴もうとした。

だが、俺は冷たくその手を払い除け、彼を真っ直ぐに見据えた。


「不満? ないさ。ただ、俺の役目は終わった。それだけだ」

「役目が終わっただと? お前がいなければ、誰が前衛で攻撃を凌ぐんだ! レオンハルトの剣も、フィーリアの回復も、お前の盾があってこそだろうが!」

「そのフィーリアの回復は、もう俺には必要ない。レオンハルトの剣もな」


俺の言葉の裏にある決定的な真意に、レグナスはハッとして息を呑んだ。

彼の顔色が、一瞬にして土気色に変わる。


「お前……まさか……」

「お前は、知っていたんじゃないのか? レグナス」


俺は一歩だけ彼に近づき、氷のような視線でその目を射抜いた。


「エルフの鋭い聴覚と視覚を持つお前が、あの二人の腐りきった関係に気づいていないはずがない。いつからだ? いつからお前は、俺をピエロにして高みの見物を決め込んでいたんだ?」

「ち、違う! 俺は……俺はただ、世界を救うためにはパーティの和を乱すべきではないと……」

「そうか。大義のためなら、仲間が裏切られ、道化を演じさせられているのを見て見ぬふりできるんだな。立派な常識人だ」


俺の口から出たのは、怒鳴り声ではなく、冷酷な嘲笑だった。

レグナスは言い返す言葉を失い、その場に崩れ落ちそうになるのを必死に堪えていた。彼の中にある罪悪感が、彼の全身を締め上げているのが手に取るように分かった。


「止めないでくれ、レグナス。俺はもう、お前たちに何の感情も湧かない。ただ、関わりたくないだけだ」


俺はそう言い残し、荷物を背負ってテントを出た。


空が、白々と明け始めていた。

夜の闇が後退し、朝霧が森の木々の間を縫うように漂っている。

俺が野営地を出て、別の街道へと続く道に足を踏み入れようとした、その時だった。


「クレイトス……?」


朝靄の向こうから、草を掻き分ける音と共に、一つの影が現れた。

フィーリアだった。

乱れた髪を丁寧に梳かし、泥にまみれていたはずの神官服を何事もなかったかのように綺麗に着込んだ彼女が、そこに立っていた。レオンハルトとは時間をずらして、一人で先に戻ってきたのだろう。


彼女は、旅装束で荷物を背負った俺と、その背後で呆然と立ち尽くすレグナスの姿を見て、ピタリと足を止めた。

その顔に、一瞬だけ戸惑いが走る。だが、彼女はすぐにいつものような、弱々しくも愛らしい「聖女の笑顔」を顔に貼り付けた。


「どうしたの? こんな朝早くから。どこかへ行くの? もしかして、一人で水汲みに行こうとして……」


言葉を紡ぎながら俺に近づこうとした彼女の足が、不自然に止まった。

俺が、彼女を見つめ返したからだ。


俺の瞳には、かつて彼女に向けていた温かな愛情も、絶対的な信頼も、心配するような優しさも、一片たりとも残っていなかった。

軽蔑すら通り越し、まるで道端の石ころを見るような、無機質で冷酷な視線。

俺が『すべて』を見て、そして『すべて』を知ったのだと、彼女の生存本能が瞬時に理解したのだろう。


フィーリアの顔から、みるみるうちに血の気が引いていくのが分かった。

真っ白になった唇が微かに震え、大きく見開かれた瞳の奥に、言葉では言い表せないほどの純粋な恐怖が浮かび上がる。


「ク、レイトス……ちが、違うの、これは……私は……」


歯の根が合わないような声で、彼女は一歩後ずさりをした。

言い訳をしようとする言葉は、恐怖で喉の奥に張り付き、音にならなかった。


俺は何も答えなかった。

罵倒する言葉すら勿体なかった。

俺はただ、無言のまま彼女の足元に視線を落とした。

彼女の神官服の裾のあたり。そこに、泥に塗れた小さな木片が引っ掛かっていた。俺が贈ったペンダントの残骸だ。

彼女は、自分がそれを落とし、踏み躙ったことすら気づかずに、偽りの笑顔で俺の前に戻ってきたのだ。


俺の視線を追って、フィーリアも自分の足元を見た。

そして、そこに何があるのかを認識した瞬間、彼女の喉からヒュッと空気が漏れるような音が鳴った。

完全に息の根を止められたかのように、彼女は両手で自分の口を塞ぎ、その場にへたり込んだ。


俺は最後に一度だけ、氷の刃のような視線で彼女の顔を貫いた。

そして、もはやそこには何の未練もないと示すように、ゆっくりと踵を返した。


「クレイトス……待って……お願い、行かないで……!」


背後から、フィーリアの悲痛な叫び声が聞こえた。

だが、その声が俺の心に届くことは二度とない。

俺は一度も振り返ることなく、朝靄の立ち込める森の奥へと、静かに歩み去っていった。

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