第6話 那古野へ通う小倅
荒子へ戻る道すがら、犬千代は妙に静かだった。
あれほど那古野へ行きたがり、若殿の前へ出たがっていたくせに、いざ帰り道になると、口数が急に減る。
又兵衛は馬の脇を歩きながら、何度か横目で犬千代を見た。
犬千代は前を向いたまま、ずっと考えている顔をしていた。
「どうした」
又兵衛がたまりかねて問う。
「何がだ」
「何が、ではない。さっきから黙りこくっておる」
犬千代はすぐには答えなかった。
春の道は明るい。畑の向こうに村が見え、空は高く、風も穏やかだ。
けれど犬千代の胸の中だけは、まだ那古野の庭のままだった。
最初の負け。
二度目に届いた浅い一撃。
最後の若侍に喉元を取られた、あの静かな一瞬。
信長の「見えぬことを見えぬと言えたのは悪くない」という声。
そして――「しばらく那古野へ通え」の一言。
どれも残っている。
胸の中に、火傷の跡みたいに。
「……俺は」
ようやく犬千代が口を開いた。
「弱えな」
又兵衛は少しだけ目を細めた。
「あたりまえだ」
犬千代は顔をしかめる。
「そういう言い方すんな」
「何だ。今さら慰めてほしいのか」
「いらねえ」
「なら、あたりまえだ。お前はまだ子どもだ。荒子で喧嘩が強くても、那古野でそのまま通るわけがない」
犬千代は唇を噛んだ。
腹立たしい。
だが、その腹立たしさの半分は又兵衛にではなく、自分自身に向いていた。
「……でも、届いた」
「二度目はな」
「浅かったけどな」
「浅くとも届いた」
犬千代は少しだけ目を上げた。
那古野で何もできなかったわけではない。
まるきり相手にもされなかったわけでもない。
信長は見ていた。言葉もくれた。通えとも言った。
ならば、あとは食らいつくだけだ。
その思いがじわじわと腹の底に戻ってくる。
「又兵衛」
「何だ」
「明日から、今までよりもっとやる」
「何をだ」
「全部だ」
又兵衛は思わず笑った。
「便利な言葉だな、“全部”は」
「槍も、木刀も、立ち方も、黙り方もだ」
犬千代は真顔で言った。
「那古野の連中は、武だけじゃねえ。立ってるだけで違った」
その言葉に、又兵衛は笑みを消した。
犬千代は続ける。
「俺が庭へ出た時、あいつらは最初から俺を見てた。どんな構えをするか、どんな顔で負けるか、何を言うか、全部だ。……ああいうの、荒子にはねえ」
又兵衛は静かに頷いた。
「そうだな」
「俺は、まだ荒子の喧嘩のままだ」
「それに気づいただけでも、今日行った甲斐はある」
犬千代はしばらく黙り、それから小さく言った。
「……次は、もっと見せる」
その声は低かった。
燃えるようではなく、芯の方から熱い声だった。
荒子へ戻ると、犬千代を待っていたのは家人たちの視線だった。
那古野から戻った。
若殿に会った。
試された。
そういう噂は、犬千代が口を開くより先に屋敷を巡っている。
女房衆は犬千代の着物の裾を見て、「また土をつけて」と言いながらも、前より少し違う目で見る。
下男たちは遠巻きにちらちら見ては、あまり軽口を叩かなくなった。
年長の者たちも、露骨には聞いてこないが、犬千代がどんな顔で帰ったかを確かめているようだった。
その中で、一番面倒だったのは兄たちである。
夕餉のあと、縁先で風に当たっていた犬千代のところへ、年の近い兄が来た。
兄は犬千代ほど血の気は多くないが、その分だけ人を見る目がある。
「若殿に会ったそうだな」
いきなり本題だった。
犬千代は少しだけ肩をすくめた。
「会った」
「どうだった」
「どうって」
「どう見られた」
その問いに、犬千代はすぐには答えられなかった。
どう見られた。
それを自分でうまく言えるほど、まだ整理がついていない。
兄は犬千代の沈黙をどう取ったのか、小さく笑った。
「怒鳴られたか」
「怒鳴られてねえ」
「では呆れられたか」
「呆れられてもねえ」
「なら面白がられたか」
犬千代はむっとして兄を見た。
その表情だけで、兄はだいたい察したらしい。
「図星か」
「うるせえ」
「だろうな。お前は昔から、真面目に扱うより面白がった方が早い」
犬千代は本気で殴りたくなったが、辛うじてこらえた。
もう那古野を見た後だ。ここで兄に噛みつけば、本当に子どものままのような気がした。
兄はその反応を見て、少しだけ目を細めた。
「だが、悪いことではない」
犬千代が眉をひそめる。
「何がだ」
「若殿に面白がられるというのは、それだけで得難いことだ。つまらぬ者は、見られもしない」
犬千代はそこで初めて兄の顔をまともに見た。
兄はからかっているようでいて、言っていることは本気だった。
「……俺は、通えと言われた」
兄の目が少しだけ動く。
「ほう」
「しばらく那古野へ通って、どこまで覚え、どこまで前へ出るか見てやるって」
兄は短く息を吐いた。
「それは……思ったより大きいな」
「大きいのか」
「大きいとも」
兄は縁先の柱に寄りかかった。
「お前は自分のことしか考えておらぬから分からんだろうが、若殿が“見てやる”と言うのは軽くない。まして、お前のようなまだ立場の薄い者にとってはな」
犬千代の胸が少しだけ膨らむ。
だが同時に、少しだけ重くもなった。
軽くない。
そう言われると、信長の一言がますます重みを持ち始める。
兄はそんな犬千代の顔を見て、ふっと笑った。
「浮かれるなよ」
「浮かれてねえ」
「今の顔で言うか」
犬千代は顔を背けた。
だが兄は続ける。
「面白がられるのは入口にすぎぬ。そこから先、お前が本当に残るかどうかは別だ」
その言葉は、那古野で感じたものと同じ重さを持っていた。
入口にすぎぬ。
そうだ。
信長の目に留まったからといって、そこで終わりではない。
むしろ始まりだ。
犬千代は、縁先の向こうの暗がりを見た。
那古野の庭。
木刀を構える若者たち。
何気なく立っているだけで揺れぬ若侍。
あの中へ、これから何度も踏み込んでいくのだ。
腹が熱くなる。
「……残る」
犬千代が低く言うと、兄は少し意外そうな顔をした。
「何だ」
「俺は残る。面白かっただけの小倅じゃ終わらねえ」
兄はそれを聞いて、しばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「そう言えるなら、少しはましだ」
「少しは、ばっかりだな」
「お前は増長すると手がつけられぬからな」
翌朝から、犬千代の稽古は本当に変わった。
槍はもちろん振るう。
だが、それだけではない。
立つ。
歩く。
座る。
礼をする。
返事をする。
庭石の間を足音を立てぬよう歩く。
廊下の角を曲がる時に慌てぬ。
人の言葉を最後まで聞く。
聞いてから返す。
そんなことまで始めたので、又兵衛は最初こそ目を丸くした。
「どうした」
「何がだ」
「お前が礼の稽古など、明日は槍が空を飛ぶかもしれぬ」
「うるせえ」
犬千代はむっとしつつも、言い返す言葉の勢いは少し抑えた。
「若殿の前で見られるんだ」
「そこに戻るか」
「戻る」
犬千代は真顔で言った。
「俺が木刀を持つ前から見られてた。なら、木刀を持たねえ時も見られてるってことだろ」
又兵衛は一瞬だけ黙り、やがて低く笑った。
「……ようやく、そこまで頭が回ったか」
「最初から回ってる」
「回っておったなら、荒子の座敷に飛び込まぬ」
犬千代は顔をしかめた。
あれはあれで必要だった、と言い返したかったが、今はやめておく。
そういう我慢を覚えつつある自分に、犬千代自身も少し驚いていた。
数日後、二度目の那古野行きの日が来た。
今度は初めてではない。
だが気は緩まない。むしろ最初より重かった。
一度目は面白がられても済んだ。
二度目は違う。
通えと言われた以上、今回は「来ただけ」では済まない。
又兵衛とともに那古野へ入ると、前回より周囲がよく見えた。
城下のざわめき。
人の流れ。
館へ通じる道で出会う者たちの目。
どれも前より細かく見える。
それだけ、自分も少しは落ち着いたということかもしれない。
館へ通され、控えの間で待つ。
前回と同じはずなのに、胃のあたりが少し重い。
犬千代は自分の膝の上に置いた手を見下ろした。
掌の擦れはもう薄い皮になり、また新しい傷が上から重なっている。
「犬千代」
又兵衛が低く呼んだ。
「何だ」
「肩が上がっておる」
犬千代ははっとした。
無意識に力んでいたらしい。ゆっくり肩を落とす。
「怖いか」
前にも聞かれた問いだった。
犬千代は少しだけ息を吐いた。
「……前よりは、怖い」
「なぜだ」
「一度見られた後だからだ」
又兵衛は何も言わず、少しだけ頷いた。
その時、障子の向こうで小姓の声がした。
「荒子の犬千代、参れ」
犬千代は立ち上がる。
立つ。
歩く。
慌てるな。
見られる。
心の中で何度も繰り返しながら、犬千代は那古野の廊下を進んだ。
庭へ出ると、前回顔を合わせた若者たちがすでにいた。
彼らの視線が、一斉に犬千代へ向く。
前より露骨だった。
珍しがるだけではない。
測る目。
値踏みする目。
中には、あからさまに面白くなさそうな目もある。
荒子の小倅。
若殿が通わせることにした者。
その名札が、もう犬千代には貼られている。
胸がざわつく。
だが、逃げるほどではない。
その中の一人、前回二度目に相手をした若者が、犬千代へ近づいてきた。
背は高くないが、目つきは相変わらず鋭い。
「来たな」
短い声だった。
犬千代も短く返す。
「来た」
若者は犬千代の顔をじっと見た。
「今日は飛び込んでこぬのか」
少しだけ棘のある言い方だ。
からかいというより、探りに近い。
犬千代はその目を見返した。
「飛び込めば、またお前の手の内に入る」
若者の眉が、ほんのわずかに動く。
「覚えておるのか」
「忘れるか」
若者は、そこで初めて少しだけ口元を緩めた。
「ならよい」
それだけ言って離れる。
犬千代は、その背を見ながら胸の内で小さく思った。
那古野の連中は嫌な奴らかと思っていたが、そうとばかりも限らぬらしい。
少なくとも、まるきり無視はされていない。
見られている。
それはつまり、相手にもされているということだ。
その時、奥の廊下から信長が現れた。
空気が変わる。
誰も大声を出したわけではない。
けれど、皆の背が自然に伸び、庭に目に見えぬ線が引かれたようになる。
犬千代も一歩退き、頭を下げた。
信長は庭を見回し、その中で犬千代のところだけ、ほんの一瞬長く目を留めた。
それだけで、犬千代の背筋が熱くなる。
「始めるぞ」
信長の声が落ちる。
前回と同じようで、少し違う。
犬千代はもう、ただ庭へ出された小倅ではない。
通う者として、ここに立っている。
何を見せる。
どこまで出る。
その問いを抱えたまま、犬千代は木刀へ手を伸ばした。




