表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
うつけ者と笑われた若き前田利家、槍働きと義理人情で織田家を駆け上がり、やがて百万石の祖となる  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/18

第5話 若殿の前で

「ならば、よく見てやろう。犬千代、お前がどこまで前へ出られるか」


信長のその一言は、犬千代の胸へまっすぐ落ちた。


脅しのようでもあり、面白がりのようでもあり、だがただ戯れに言っているのではないことだけは分かる。

那古野へ呼ばれ、こうして目の前に立たされている以上、もう荒子の悪童として笑われて済む場所ではない。


犬千代は膝をついたまま、喉の奥で息を整えた。


信長は犬千代の返答を待つでもなく、近くの敷居にもたれぬよう立っている。

その立ち方が妙に軽い。だが隙があるように見えて、どこにも隙がない。

荷車の前で見た時もそうだった。目を離した瞬間にこちらの懐へ入ってきそうな、得体の知れぬ軽さである。


「顔を上げよ」


言われ、犬千代はゆっくりと顔を上げた。


信長の目が真正面からぶつかる。


その瞬間、犬千代は妙な感覚を覚えた。

睨まれているのではない。

探られているのだ。

皮や肉の奥にある、もっと腹の底のものを。


犬千代は反射的に目を逸らしそうになり、かろうじて踏みとどまった。


怖いなら怖いまま、立っておれ。


又兵衛の声が胸の内で蘇る。

犬千代はその言葉を噛みしめるように、信長を見返した。


信長の口元が、わずかに歪む。


「荒子で見た時よりは、少しよい顔だ」


犬千代の耳が熱くなる。


「あの時は、泥だらけでした」


「今は違うと申すか」


「……少しは」


信長は、くっと喉の奥で笑った。


「少しは、か」


その笑い方が、犬千代には妙に癇に障る。

見下されているようでもあり、試されているようでもあり、何より自分の内側を勝手に面白がられている気がするからだ。


だが、腹を立てるだけでは前に進めぬ。

那古野へ来るまでの間に、犬千代もそこだけは少し学んでいた。


信長は後ろを振り返り、廊下の向こうにいた小姓へ言った。


「人を呼べ」


「は」


小姓が足音も軽く下がっていく。


犬千代はそれを見送りながら、いよいよ胸が騒ぎ始めるのを感じた。

ただ会って言葉を交わして終わりではない。

何かある。


信長はそんな犬千代の様子を知ってか知らずか、平然と問いを投げた。


「犬千代」


「は」


「お前は何をしに来た」


唐突な問いだった。

だが答えは、思ったよりすぐ出た。


「呼ばれたので参りました」


「つまらぬ」


ぴしゃりと言われ、犬千代の表情が固まる。


「では……若殿にお目にかかるため」


「半分だな」


「半分」


「それだけのためなら、顔を見て帰せば済む」


信長は一歩だけ近づいた。


「お前は、もっと腹の中に持っておろう」


犬千代の喉が詰まる。


持っている。

ある。

あるが、それをここでどう言えばよいのか分からない。


名を上げたい。

前へ出たい。

兄たちの後ろでは終わりたくない。

前田の名を大きくしたい。

いつか戦場へ出たい。


どれも本当だ。

けれど、どれを言っても足りない気がした。


信長は黙って待っている。

急かしもしない。助けもしない。

その沈黙の方が、犬千代には余計に苦しかった。


やがて犬千代は、腹をくくるように口を開いた。


「俺は」


言ってから、自分の声が思ったより低く出たことに気づく。


「俺は、前へ出たくて参りました」


信長の目が少しだけ細くなる。


犬千代は続けた。


「荒子では、いつまでも四男坊の犬千代です。兄上たちの後ろにおる小倅です。けれど、それで終わるつもりはありませぬ」


呼吸が熱い。

それでも言葉は止まらなかった。


「若殿に呼ばれたなら、ただ見られて帰るためではなく、俺を覚えていただくために来ました」


部屋の空気が、すうっと静まったように思えた。


又兵衛でさえ、横で息を呑んでいる気配がある。

言い過ぎたか。

そう思った瞬間にはもう遅い。


だが信長は、怒らなかった。


むしろ、その目の奥が少しだけ明るくなったように見えた。


「なるほど」


その時、廊下の向こうから数人の足音が近づいてきた。


若い者たちだった。

犬千代と同じか、少し上か。武家の子らしい身なりで、立ち居振る舞いにも荒子の村とは違う整え方がある。

その中には、小姓らしき者もいれば、すでに若殿の傍に出入りしていると分かる者もいる。


皆、部屋へ通されるなり、そこに犬千代がいるのを見て一瞬だけ目を留めた。

見慣れぬ顔だ。しかも荒子上がりの小倅が、若殿の前に座っている。


その視線が、犬千代には痛いほど分かった。


見られる。


女にも、又兵衛にも、あの武士にも言われた言葉が蘇る。

武も、言葉も、立ち方も、見られる。


信長はその若者たちを一瞥すると、犬千代を指した。


「こやつは荒子の犬千代だ」


犬千代の背中に熱が走る。


「先日見かけて、少し気になった」


その言い方ひとつで、若者たちの空気が微かに変わる。

気になった。

若殿がそう言う相手を、軽く扱えるはずがない。


だが同時に、快く思わぬ者がいても不思議ではなかった。


信長は続ける。


「お前たち、退屈しておったであろう」


若者たちの何人かが、ほんのわずかに顔を引き締める。

嫌な予感がしたのだろう。犬千代にも同じものがあった。


「今日は一つ、面白いものを見ようと思う」


信長はそう言って、部屋の外へ視線を向けた。


「庭へ出よ」


犬千代の胸が跳ねる。


庭。


武家の庭で行われる「面白いもの」が、花見や蹴鞠であるはずがない。

まして、若殿が退屈しのぎに若い者たちを呼んだとなれば、なおさらだ。


犬千代は立ち上がる。

膝はちゃんと動いた。よかった、とどこか冷静な自分が思う。


広い庭には、すでに木刀や稽古用の槍が用意されていた。

春の日差しが明るい。だが空気はぴんと張っている。


若者たちが左右に分かれ、犬千代はその真ん中へ出された。

どうなるのかと思う間もなく、信長が縁側へ腰を下ろす。


「犬千代」


「は」


「お前は前へ出たいと言ったな」


「は」


「ならば、出てみせよ」


その一言で、全員がどういう場か悟った。


犬千代の腹の底が熱くなる。

比べられる。

見られる。

ここで何も見せられねば、荒子の小倅が少し珍しかった、それで終わる。


信長は若者たちの中から一人を顎で示した。


「お前」


名を呼ばれた若者が前へ出る。

犬千代より三つ、四つは上だろう。体つきも一回り大きい。動きに迷いがなく、すでに何度もこういう場をくぐっていると分かる。


「木刀でよい」


信長が言う。


「当てた方を勝ちとする。だが、ただ勝てばよいわけではない」


その付け足しに、犬千代は少しだけ目を細めた。

ただ勝てばよいわけではない。

では、何を見られるのか。


立ち方か。

間合いか。

引かぬ気性か。

それとも、勝ち方そのものか。


若者が木刀を取る。

犬千代の前へ進み、軽く一礼した。


犬千代も礼を返す。

荒子の喧嘩とは違う。

ここでは最初から全部見られている。


木刀を握ると、手の中に少しだけ安心が戻ってきた。

武具を持てば、やることは単純になる。

前へ出る。

読む。

当てる。

それだけだ。


相手が構える。


犬千代も構える。


その瞬間、庭の音が遠くなった。

信長が見ている。

那古野の若者たちが見ている。

又兵衛も見ている。

だが犬千代の目には、今は正面の相手しか映らない。


「始めよ」


声が落ちた。


相手が先に動いた。


速い。


犬千代の内側で、ほとんど反射みたいに何かが弾けた。

考えるより先に半歩退き、木刀を斜めに差し出す。甲高い音が鳴り、腕に重みが食い込んだ。


重い。


荒子の喧嘩とはわけが違う。

打ち込みに迷いがない。

試す打ちではなく、最初から取りに来ている。


犬千代は歯を食いしばる。

押される。

だが、そのまま崩れはしない。


相手が木刀を引く。


次が来る。


犬千代はそこで、あえて前へ出た。


又兵衛の稽古。

川原での踏み込み。

何度も言われた「前へ出たがる気性」。

その全部が、足に乗る。


相手の二打目が落ちるより早く、犬千代は懐へ飛び込んだ。


若者の目がわずかに見開く。


近い。


だが近ければいいわけではない。

犬千代の木刀は、相手の肩口を狙って振り上がり――その途中で、下から巻き上げるような一撃に弾かれた。


甘い。


そう思った瞬間にはもう、相手の木刀が犬千代の胴を浅く打っていた。


「……っ!」


息が詰まる。

だが倒れない。


犬千代は半歩よろけ、すぐに立て直した。

痛い。

悔しい。

だが、今ので終わりではない。


信長の声が飛ぶ。


「止めよ」


二人が動きを止める。


犬千代の心臓は耳のすぐそばで鳴っていた。

負けた。

当てられた。

最初の一番で、負けた。


腹の底が煮えたぎる。

悔しさが熱になって喉まで上がる。

だがここで地団駄を踏めば、それこそ荒子の小倅で終わる。


犬千代はそれを、歯で噛み殺した。


信長が縁側から言う。


「どうだ、犬千代」


その問いは残酷だった。

負けた者に、どうだ、と聞く。

試されているのは、負けた後の顔だと犬千代は直感した。


「……速うございました」


「それだけか」


犬千代は呼吸を整える。


悔しい。

認めたくない。

けれど、認めねば次が見えない。


「俺は、勝てると思って近う入りました。だが、勝てる形に入ったつもりで、相手の手の内へ入っておりました」


庭の空気が少し変わる。

若者たちの視線が、ほんの少しだけ違うものになる。


信長の口元がまた歪んだ。


「ほう」


犬千代は続けた。


「ですが、次はもっとやれます」


言った瞬間、自分でも胸が熱くなった。

負けて悔しい。

けれど、それ以上に次が欲しい。


信長は、しばし犬千代を眺めていたが、やがて笑った。


「面白い」


その一言で、犬千代の中の悔しさが、また別の熱へ変わる。


「よい。では次だ」


犬千代の目が上がる。


次。


もう一度やらせるのか。

それとも、別の誰かと。


信長は今度は別の若者を指した。


「犬千代。負けて終わる顔ではなかったな。ならば、もう少し見てやる」


犬千代は木刀を握り直した。


掌はじっとりと汗ばんでいる。

腕も少し痺れていた。

それでも、目だけはさっきより熱くなっている。


荒子の外は広い。

那古野は厳しい。

若殿の前では、容赦なく剥かれる。


だが、それでいい。


ここで負けて、覚えて、食らいついて、前へ出る。

それが今の自分にできることだ。


犬千代は深く息を吸った。


「参ります」


その声は、最初より少しだけ低く、少しだけ強くなっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ