第4話 那古野の若殿
信長と会った日から、犬千代の時間はそれまでとは違う速さで流れ始めた。
朝は前より早くなった。
槍を握る手つきは荒いままでも、一本一本の突きに込める気が変わった。
ただ悔しいから振るうのではない。
ただ喧嘩に負けぬためでもない。
見られたのだ。
織田三郎信長に。
その事実が、犬千代の胸の中で何度も燃え返す。
槍を振るたびに、あの男の目が浮かぶ。
荷車の前で、泥だらけの自分を見て、面白いと言ったあの目だ。
次に会う時は、ただの小倅では終わらぬ。
その思いだけで、犬千代は腕の痛みも掌の擦り切れも苦にしなかった。
そして、約束は思っていたより早くやって来た。
それは晴れた朝のことだった。
荒子の屋敷に、那古野から正式の使いが来たのである。
今度は前のような橋のたもとでも、立ち聞きの噂でもない。
門前に馬が止まり、前田家の者が揃い、座敷が整えられ、迎える側の空気が最初から違っていた。
犬千代は縁の影からその一部始終を見ていた。
使者は二人。
先頭の男は痩せぎすで、どこか冷えた目をしている。口数が少なそうで、無駄な礼も無駄な威圧もない。そういう手合いの方が犬千代には怖かった。
男は座敷に通されるなり、短く告げた。
「那古野の若殿より仰せにて、前田家の犬千代を召される」
その一言が落ちた瞬間、犬千代は胸の奥を何かに殴られたような気がした。
本当に来た。
話ではない。
噂でもない。
若殿の気まぐれでもない。
自分が呼ばれた。
前田家の年長者が、慎重に言葉を選びながら応じる。
「……犬千代を、でございますか」
「左様。若殿は以前、荒子にて犬千代を見ておられる」
「心得ております」
「ならば話は早い。明後日、那古野へ上がらせよ」
明後日。
あまりに急だ、と犬千代は思った。
いや、ずっと待ち焦がれていたはずなのに、いざ“明後日”と具体的に言われると、急すぎるようにも思えたのだ。
けれど、その“急”こそが嬉しかった。
待たされるのは、もう終わる。
その夜、犬千代は早く寝かされるはずだった。
だが眠れるわけがない。
布団に入っても、明後日という言葉が頭から離れなかった。
那古野へ行く。
若殿に会う。
自分がどう見られるのか。
何を言うべきか。
いや、それ以前に、失礼を働けばどうなる。荒子での無礼とはわけが違う。
胸の内は熱いのに、体の芯は妙に冷えていた。
そのまま寝返りを打ち続け、ついには起き上がってしまう。
障子の外は深い藍色で、屋敷はしんと静まっている。
犬千代はそっと廊下へ出た。
すると、縁側に一つの影があった。
又兵衛である。
「……寝ておられぬか」
犬千代が声をひそめると、又兵衛は暗がりの中で鼻を鳴らした。
「お前こそ」
「寝られるかよ」
「だろうな」
又兵衛はそこで少し脇へずれた。座れ、ということらしい。
犬千代は無言で隣に腰を下ろした。
夜の風が静かに吹き、遠くで虫が鳴いている。
荒子の夜は、いつも通りの荒子の夜だ。
けれど犬千代にとっては、明後日にはもう今まで通りではない。
「又兵衛」
「何だ」
「俺は、何を着ていけばいい」
又兵衛は少し笑った。
「ようやく、そこを気にするか」
「うるせえ」
「そうだな……武家の子として恥ずかしくないものを着る。だが、飾り立てればよいというものでもない」
犬千代は真顔で聞いていた。
「歩き方もだ。急ぐな。きょろきょろするな。かといって縮こまるな」
「難しいな」
「難しいとも」
又兵衛は夜の庭を見ながら続ける。
「那古野は荒子ではない。あそこには、お前のように前へ出たがる者が山ほどいる。武の強い者も、口の回る者も、腹の深い者もな」
「……分かってる」
「いや、お前はまだ半分も分かっておらぬ」
犬千代は少しむっとしたが、反論しなかった。
信長に呼ばれたからといって、自分が急に強くなったわけではない。荒子では噛みつけても、那古野ではどうなるか分からない。
その現実くらいは、今の犬千代にも分かる。
又兵衛はふいに犬千代の横顔を見た。
「怖いか」
その問いに、犬千代は少しだけ黙った。
怖い。
認めたくはない。
だが、怖くないと言えば嘘になる。
若殿に会うこと自体は楽しみだ。
嬉しい。
胸が熱くなる。
けれど、それと同じだけ、試されることが怖い。
荒子でなら“犬千代”で済む。
喧嘩っ早い小倅、意地っ張りの四男坊。そう見られてもまだ戻る場所がある。
だが那古野は違う。
あそこでは、見られたものがそのまま自分になる気がした。
「……少しだけだ」
犬千代が小さく言うと、又兵衛は「少しで済めば上等だ」と返した。
「怖さを知らぬ者は、すぐ死ぬ。だが怖さに呑まれる者も使いものにならぬ」
「じゃあどうすればいい」
「腹の奥へ沈めておけ」
又兵衛の声は静かだった。
「顔に出すな。足に出すな。声に出すな。怖いなら怖いまま、立っておれ」
犬千代はその言葉を胸に刻むように聞いた。
怖いなら怖いまま、立っておれ。
それは今までの犬千代にはなかった考え方だった。
恐れを怒りでかき消すのではない。
意地で押し流すのでもない。
胸の内に置いたまま、それでも前に立つ。
その方が、ずっと大人の戦い方のように思えた。
明後日の朝、犬千代は新しい着物を着せられた。
いつものように裾をからげて走り回るためのものではない。
きちんとした武家の子らしい装いで、帯も髪もいつも以上に整えられている。
犬千代は、どうにも落ち着かなかった。
「苦しい」
「帯を緩めるな」
「首が痒い」
「掻くな」
「これじゃ戦えねえ」
「今日は戦へ行くのではない」
支度をしている女房衆が次々にぴしゃりと言う。
犬千代は不服そうな顔をしながらも、今日は珍しく大人しく従った。
女たちに囲まれながら、ふと鏡代わりの金具に映った自分の顔が見える。
見慣れた犬千代だ。
けれど、少し違う。
着物が違うからではない。
この顔のまま那古野へ行くのだ、と思った瞬間、自分の目つきや口元の歪みまで気になり始めたのだ。
「そんなに睨まぬことです」
髪を整えていた女が言う。
「睨んでねえ」
「睨んでおります」
「これが普通だ」
「那古野では、普通を少し変えなさいませ」
犬千代は言い返しかけたが、やめた。
腹は立つ。立つが、今は噛みつくより飲み込む方が得だと、ようやく分かり始めていた。
出立の前、年長者の前に出る。
座敷に通された犬千代は、膝をついて頭を下げた。
普段ならここでじっとしているだけでも落ち着かない。けれど今は違う。胸がうるさいほど鳴っているのに、体は案外静かだった。
「犬千代」
「は」
「此度は那古野へ参り、若殿のお目にかかる」
「は」
「よく聞け。前田の名を汚すな」
犬千代は、一瞬だけ顔を上げかけ、すぐに抑えた。
前田の名。
その言葉の重みが、以前とは少し違って響く。
ついこの間までは、家の名など兄たちの背に乗っているもののように思えていた。自分はその外側で、勝手に名を立てるしかないと思っていた。
だが今は違う。
前田の名を背負うからこそ、那古野へ行ける。
その上で、自分の名も立てるのだ。
両方だ。
どちらかではない。
年長者は続けた。
「だが、縮こまるな。呼ばれた以上、お前は前田の子として見られる。堂々としておれ」
「は」
「堂々とすることと、無礼は違う。そこを取り違えるな」
犬千代は、ほんの少しだけ口の端を動かした。
「……分かっております」
「その言い方がもう少し柔らかければ、なお良いのだがな」
座敷に小さく笑いが起こった。
犬千代は少しだけ耳が熱くなった。
いよいよ出立である。
供として又兵衛がつくことになった。
馬はまだ犬千代一人で長く乗りこなせるほどではないため、主には又兵衛の差配で進む。
それでも犬千代は、荒子の門を出る時、背筋を伸ばして前を見た。
道は白く、朝の光を受けている。
荒子の土の匂いが、少しずつ背後へ遠のいていく。
「犬千代」
又兵衛が小さく呼ぶ。
「何だ」
「きょろきょろするなと言ったそばから、きょろきょろするな」
「してねえ」
「しておる」
「少ししかしてねえ」
「それをしておると言う」
犬千代は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
けれど、少しだけ安心したのも事実だった。那古野へ向かう道で、又兵衛がいつも通りの調子でいてくれることがありがたかった。
道中、犬千代は思っていた以上によく黙っていた。
見慣れぬ道。
行き交う旅人。
田畑の広がり。
小さな寺。
用水を渡る橋。
荒子の外にも人は生き、息づき、それぞれの用で行き交っている。その一つひとつが新鮮だった。
けれど、それをいちいち口に出すのはこらえた。
見られる。
立ち方も、黙り方も。
その言葉が何度も腹の中で転がる。
日が高くなる頃、那古野の城下が見えてきた。
犬千代は思わず息を呑んだ。
荒子とは、空気が違う。
人の数がまず違う。
荷を引く者、物を売る者、走る小者、槍を持った武士、商人、女、子ども、坊主。
あらゆるものが一つところへ集まり、ざわめきが絶えない。
匂いも混ざっている。土だけではない。獣、汗、味噌、焼けた魚、鉄、香、いろいろなものが入り乱れている。
犬千代の胸がざわついた。
ここが若殿のいる場所。
ここが、時代の匂いのする場所。
だがそのざわつきを顔に出すまいと、犬千代は唇を引き結ぶ。
又兵衛が横目でそれを見て、少しだけ感心したように言った。
「少しは様になってきたな」
「少しだけか」
「だいぶ、とはまだ言わぬ」
「けちだな」
「お前がすぐ増長するからだ」
そうして犬千代たちは、ついに那古野の館へ通された。
門をくぐる時、犬千代は無意識に背筋を伸ばした。
中へ入れば、荒子とは別の緊張が肌を打つ。
控える者たちの足音一つにも、無駄な揺れがない。
犬千代は、自分が本当に“外”へ来たのだとその時ようやく実感した。
案内の者に導かれ、控えの間へ通される。
「ここで待て」
短い言葉とともに、障子が閉められた。
犬千代は、そこではじめて大きく息を吐いた。
「……来たな」
自分でも分かるほど、声が少しだけ掠れていた。
又兵衛は小さく頷く。
「ああ。来た」
「若殿は、すぐ会うのか」
「分からぬ。待たされることもあろう」
犬千代は膝の上で拳を握った。
怖いなら怖いまま、立っておれ。
見られる。
縮こまるな。
いろいろな言葉が頭を巡る。
その時、廊下の向こうで足音が止まった。
障子の向こうに、人の気配がある。
一人ではない。だが、その中に明らかに他と違う静けさを持つ気配が混じっていた。
犬千代は息を止めた。
障子が、静かに開く。
差し込んだ光の向こうに立っていたのは、あの日、荷車の前で自分を見た男だった。
織田三郎信長。
華美な装いではない。
けれど、そこに立つだけで空気の向きが変わる。
目が合った瞬間、犬千代はあの日と同じ、胸の内を見透かされるような感覚を覚えた。
信長は、犬千代の姿を頭から足先まで一度眺めた。
整えられた着物。固くした表情。膝を揃えた座り方。
だが、その奥でなお消えていない獣じみた火。
ふっと、信長の口元が歪む。
「来たか、荒子の犬千代」
その声は低く、静かで、そしてどこか楽しんでいた。
犬千代は、喉の奥で何かが跳ねるのを感じながらも、なんとか言葉を返した。
「……お呼びにより、参りました」
少し硬い。
だが噛まずに言えた。
信長の目がわずかに細くなる。
「ほう。少しは猫を被れるらしい」
犬千代の耳が熱くなった。
からかわれている。
けれど、その物言いが嫌ではなかった。
むしろ、試されているのだと分かった。
犬千代は顔を上げた。
怖い。
だが、立つ。
今は座っているが、それでも心は立つのだ。
「被っているのではありませぬ」
「では何だ」
「……見られると聞きましたので」
その返しに、又兵衛が横でぎくりとした気配がした。
言い過ぎか、と犬千代も一瞬思う。
だが信長は、次の瞬間、はっきりと笑った。
「面白い」
その一言で、犬千代の腹の底に熱が走る。
信長は部屋の中へ一歩入ると、犬千代の前で立ち止まった。
「ならば、よく見てやろう。犬千代、お前がどこまで前へ出られるか」
その言葉とともに、那古野での最初の時間が始まった。




