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うつけ者と笑われた若き前田利家、槍働きと義理人情で織田家を駆け上がり、やがて百万石の祖となる  作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第3話 荒子を出るための名

兄たちが那古野へ向かった朝から、荒子の空気は少し変わった。


屋敷の中が静かなのではない。

むしろ人の出入りはある。畑のこと、馬のこと、年貢のこと、家中の用向きは何一つ減らぬ。

だが犬千代にとっては、そのどれもが妙に遠かった。


自分だけが置いていかれている気がする。


門の向こうへ消えていった兄たちの背を、犬千代は何度も思い返していた。

馬上の姿。供を従えた歩み。那古野へ向かう者の顔。


あそこへ行くのは、自分でなければならぬ。

そう思っているのに、今の自分は荒子の屋敷で槍を振っているしかない。


腹立たしかった。


腹立たしいからこそ、犬千代はその日の朝も川原へ出た。

槍を持ち、ひたすら突く。踏み込む。引く。構え直す。

朝靄の中で繰り返しているうち、いつの間にか腕が鉛のように重くなる。掌の皮はまた剥け、汗が顎から落ちた。


「まだやるのか」


又兵衛の声だった。


犬千代は振り返らずにもう一突きしてから、ようやく槍を下ろす。


「止める理由がねえ」


「昨日も同じことを言っておった」


「昨日と今日は違う」


「それも昨日聞いた」


犬千代は少しだけ笑いかけ、すぐ真顔に戻った。


「兄上たちは、今ごろ若殿の前にいるのかもしれねえ」


「かもしれぬな」


「俺はここだ」


「ここで腐るか、ここで研ぐかはお前次第だ」


分かりきったことを、と犬千代は思った。

だが分かりきっていることほど腹に障る時がある。


犬千代は槍を強く握った。


「那古野へ行くには、順を待つしかねえのか」


又兵衛は少し考えるように空を見た。


「順を飛ばすのは難しかろう。だが」


「だが?」


「順の外から目に入ることはある」


犬千代は眉をひそめた。


「どういうことだ」


「立場ではなく、噂で先に届く者もおる。働きで名が立つ者もおる。特にあの若殿は、面白い者の話を好むと聞く」


噂。働き。名。


犬千代の胸がわずかに熱くなる。


「じゃあ、俺が名を立てりゃいいのか」


「そう簡単ではない」


「簡単じゃなくていい」


又兵衛はそこで犬千代を見た。

この小倅は、無理だと言われるほど目を燃やす。昔からそうだ。だが今の目つきは、ただ喧嘩をしたい子どものそれではない。何かを掴むまで食らいつく獣の目だった。


「何をする気だ」


「分からねえ」


犬千代は正直に言った。


「けど、待ってるだけは嫌だ」


「嫌だ嫌だで突っ走ると、ろくなことにならぬぞ」


「ろくなことにならなくても、何も起きねえよりましだ」


又兵衛は深く息をついた。


「……お前は本当に、そういうところだけは変わらぬな」


「変わる気もねえ」


「いや、少しは変われ」


そう言いながらも、又兵衛の口元はわずかに緩んでいた。


その日の昼、荒子の村外れで小さな騒ぎが起きた。


犬千代が屋敷へ戻る途中、田を見回っていた下男が息を切らして走ってくる。


「又兵衛殿! 又兵衛殿! 川下の橋のところで、荷駄が止まっております!」


又兵衛が振り返る。


「何だと」


「片輪がぬかるみに取られ、馬も暴れて……近くの百姓ではどうにもなりませぬ!」


犬千代の耳がぴくりと動いた。


川下の橋。

あそこは荒子を出入りする者が使う道だ。旅人や商人だけでなく、時には武士の一行も通る。


「何の荷だ」


又兵衛が問う。


「分かりませぬ! ただ、供の男たちが妙に気が立っておって……」


又兵衛は顔をしかめた。


ただの百姓の荷駄ではない。

この時勢、どこぞの家中の荷や書状が混じっていてもおかしくない。止めれば道が塞がる。荒子の顔にも関わる。


「人を集めろ」


又兵衛が言うより早く、犬千代は走り出していた。


「おい、犬千代!」


「先に行く!」


又兵衛の怒鳴り声を背に受けながら、犬千代は土道を蹴った。


橋まではそう遠くない。

田の畦を飛び越え、小道を曲がり、川風の匂いが強くなったところで、すぐに騒ぎの声が聞こえた。


着いてみると、なるほど面倒な有様だった。


橋の手前のぬかるみに、荷車の片輪が深く沈み込んでいる。馬は半ば横を向いて荒く鼻を鳴らし、手綱を取っている男たちも苛立ちを隠せていない。

荷車の横には、荷を守るように立つ武士が二人。どちらも旅装だが腰のものは本気だ。百姓相手に気を立てるのも無理はない顔つきだった。


村の者たちは遠巻きにしているだけで、近づききれない。


「引け! もっと引け!」


「駄目です、車輪が食い込んで……!」


「橋を塞ぐな!」


怒鳴り合いばかりが増え、誰も要を見ていなかった。


犬千代は息を整える暇も惜しんで、ずかずかと荷車へ近づいた。


「おい!」


一斉に視線が集まる。


旅装の武士の一人が、露骨に眉をひそめた。


「何だ、小僧」


「引くだけじゃ抜けねえ」


犬千代は車輪の沈み具合をひと目見て言った。


「ぬかるみの縁が崩れてる。下に板か石を噛ませろ。馬は真っ直ぐ引かせろ。今のまま横へ暴れさせたら、余計に沈む」


武士が鼻で笑う。


「小僧が口を出すな」


「口だけじゃねえ。やるぞ」


犬千代はそう言うなり、近くに転がっていた丸太を拾い上げた。

重い。だが持てる。百姓の男二人に顎をしゃくる。


「お前ら、板はあるか!」


「い、板なら、橋の補修用が……」


「持ってこい! あと縄!」


「おい、小僧――」


旅装の武士がまた言いかけたが、犬千代はもう聞いていなかった。

車輪の前の泥を足で蹴り崩し、沈んだ輪の横へ丸太を差し込む。ぬかるみは冷たく、すぐ膝まで泥が跳ねた。


「そこ押さえろ!」


百姓たちがあわてて従う。


「馬の頭を正面へ! 横を向かせるな!」


手綱を握っていた男が思わず犬千代を見た。

子どものくせに、命令の出し方が妙に淀みない。腹の据わり方だけは、一人前どころかその辺の大人より強い。


犬千代は続けざまに叫ぶ。


「一度で引くな! 合図したら少し浮かせる! 車輪の下へ板を差し込むから、その時だけ踏ん張れ!」


戻ってきた百姓が板を抱えてくる。

犬千代は泥だらけの手でそれを奪い取り、車輪の縁へ押し当てた。


「今だ!」


馬がいななき、荷車がぎし、と鳴った。


車輪がわずかに持ち上がる。


「差し込め!」


犬千代が板を突っ込み、丸太で支える。

次の瞬間、泥がはね、足元が滑る。犬千代の体がぐらついた。


危ない、と誰かが叫んだ。


だが犬千代は手を離さなかった。

肩ごと泥へ突っ込みながら板を押し込む。


「引けえッ!」


叫びとともに馬が前へ出る。

荷車が大きくきしみ、片輪が泥を噛んで持ち上がり――そのまま、ぐぐっと前へ抜けた。


周囲から一斉に息が漏れる。


荷車は橋の手前でようやく安定した。

馬も落ち着き、手綱の男がはっとしたように息をつく。


犬千代はその場にしゃがみ込み、泥だらけの腕で額の汗を拭った。

心臓がうるさい。だが、口元は自然と吊り上がっていた。


どうだ。


そう言わんばかりの顔である。


旅装の武士が、今度は真正面から犬千代を見た。


「お前……どこの子だ」


犬千代は立ち上がった。

膝まで泥。袖も泥。頬にも泥。とても武家の子の見た目ではない。

だが目だけはぎらぎらしている。


「荒子の犬千代だ」


「前田の?」


「そうだ」


武士は何か言いかけ、そこで口を閉ざした。

代わりに荷車の奥へ目を向ける。


その荷の傍らに、今まで姿を見せていなかった男がいた。


いつからそこにいたのか分からない。

派手ではないが質の良い衣をまとい、腰には刀。供の者たちがさりげなく気を払っていたところを見ると、ただの随行ではない。


男は荷車と犬千代を見比べ、ふっと口元を緩めた。


「面白い小僧だな」


犬千代はその声に、胸の奥が少しざわつくのを感じた。

高くはない。だが通る声だ。

何より、あの“見られている”感じがあった。


男はゆっくり近づいてくる。


「名をもう一度」


「……犬千代」


「犬千代か」


男はそれを口の中で転がすように言った。


「前田の家の者が皆こうだとすれば、荒子も退屈せぬな」


「俺は俺だ」


犬千代はすぐに言い返した。


供の者たちの顔色が変わる。

また始まった、と言わんばかりの気配だった。


だが男は怒らない。

むしろ、少し楽しそうに犬千代を見る。


「そうか。では、お前はお前として名を立てたいのだな」


その一言に、犬千代の喉が詰まった。


図星だった。


兄たちの名の下ではない。

前田家の四男坊として埋もれるのでもない。

自分の名で、自分として前へ出たい。


その思いを、この男はひと目で見抜いたように言ったのだ。


「……悪いか」


犬千代が絞り出すように返すと、男は首を横に振った。


「悪くない。若い者は、それでよい」


又兵衛がそこへようやく駆けつけてきた。


「犬千代! 勝手に――」


言いかけた又兵衛の目が、男の姿を捉えた瞬間に変わる。

背筋がぴんと伸び、驚きと緊張が一度に顔へ出た。


「……これは」


男は軽く手を上げた。


「よい。面白いものを見せてもらった」


又兵衛はすぐに頭を下げる。


犬千代はその反応を見逃さなかった。

ただの旅の武士ではない。又兵衛がこれほどかしこまる相手だ。


「若君」


供の一人が小さく呼ぶ。


犬千代の耳がその呼び名を拾った。


若君。


胸の奥がどくんと鳴る。


まさか、と思った時にはもう遅い。

男の方が犬千代へ視線を戻していた。


「犬千代。今日は泥だらけだな」


犬千代は、そこで初めて自分の格好を思い出した。

袖も、脚も、顔まで泥まみれだ。

だがそんなことが急にどうでもよくなった。


「……若君って、あんた」


男は答えなかった。

代わりに、ほんの少しだけ笑う。


それだけで十分だった。


犬千代の背筋に、ぞくりとしたものが走る。


織田三郎信長。


噂の若殿。

うつけと笑われ、けれど静かなままでは終わらぬと囁かれる男。


その人が、今、自分の目の前にいる。


犬千代は、何か言わねばと思った。

だが腹の中にある言葉が多すぎて、どれも喉で詰まる。


信長はそんな犬千代を眺め、ふいに言った。


「那古野へ来い」


その言葉は、まるで石を投げ込まれたように犬千代の胸へ落ちた。


「……え」


間の抜けた声が出る。

それが悔しかった。


信長は続ける。


「話には聞いていたが、なるほど。ただ血の気が多いだけではないらしい」


犬千代の耳が熱くなる。

褒められているのか試されているのか分からない。

だが目の前の男は、本気でそう言っている。


「若君、それは――」


又兵衛が何か言いかける。

信長は軽く手で制した。


「順はある。だが、順だけではつまらぬ」


その目が、犬千代へまっすぐ向く。


「お前は、前へ出たがる目をしている」


犬千代は一歩、前へ出た。

まるでその言葉に引かれるように。


「行く」


答えは、考えるより先に出た。


「那古野へ行く。今すぐでも行く」


供の者たちがどよめく。

だが信長は笑った。


「今すぐとは言わぬ」


「じゃあ、いつだ」


「焦るなと言っても、無駄か」


「無駄だ」


「よかろう」


信長はそう言って、犬千代を上から下まで一度見た。


泥だらけの格好。

荒い息。

ぎらつく目。

まだ幼い体。


どこからどう見ても、完成には程遠い。

だが、目だけは面白い。

そう言わんばかりの視線だった。


「近いうちに呼ぶ」


犬千代の喉が鳴る。


「本当か」


「嘘を言ってどうする」


「……約束だな」


供の者たちの空気がまた固くなった。

若殿に向かって、約束だな、と言う小倅がどこにいる。


だが信長は、むしろ愉快そうに笑った。


「面白い。よかろう、約束だ」


その言葉を聞いた瞬間、犬千代の中で何かが決定的に動いた。


荒子の中で燻っていた火に、外から風が吹き込んだのだ。

もう戻れない。

いや、戻る気もない。


信長は踵を返し、荷車の方へ戻った。

供の者たちも慌てて従う。

又兵衛は深く頭を下げたまま動けずにいる。


犬千代だけが、その背を食い入るように見ていた。


織田三郎信長。


ただ噂で聞いていた男ではない。

本当にいる。

そして、自分を見た。


荷車が動き出し、橋を渡って道の先へ消えていく。

犬千代はその背が見えなくなるまで、じっと立ち尽くしていた。


やがて又兵衛が顔を上げ、深々と息を吐く。


「……お前は」


「何だ」


「また、とんでもないことをやった」


犬千代はようやく振り返った。

頬に泥が乾き、そこへ風が当たってひび割れるような感触がした。

だが顔は笑っていた。


「違う」


「何が違う」


「今度は、向こうから見つけたんだ」


又兵衛は一瞬だけ言葉を失った。

確かにその通りだった。


犬千代が勝手に飛び込んだのではない。

泥だらけで荷車へ突っ込み、勝手に采配し、若殿の目の前へ出た。

けれど最後に「来い」と言ったのは、信長の方だ。


犬千代は川の向こうを見た。

那古野へ続く道は、春の光の中で白く伸びている。


「俺、行くんだな」


呟く声は、信じきれぬようでもあり、すでにその先を見ているようでもあった。


又兵衛は頭を抱えたくなった。

だが同時に、胸のどこかが熱くなるのも否定できない。


この小倅は、本当に村の中では終わらぬのかもしれない。

四男坊として燻るだけではなく、前へ、前へと出て、やがて大きな名へ届くのかもしれない。


犬千代は泥だらけの手で槍を拾い上げた。


その握り方が、少しだけ変わっていた。

まだ幼い。まだ粗い。

だが、ただ憧れて振るう槍ではない。

これから本当に、道を切り開くための槍になっていく。


「又兵衛」


「何だ」


「帰ったら、今日の続きだ」


「何のだ」


「槍の稽古に決まってる」


又兵衛は思わず吹き出した。


「若殿に会ったばかりで、それか」


「だからだ」


犬千代は那古野の方角から目を逸らさぬまま言った。


「見られたんだ。次に会う時は、もっと前へ出られるようになってなきゃつまらねえ」


又兵衛は、とうとう笑ってしまった。


「まったく、食らいつくことだけは一人前だ」


犬千代は答えず、ただ槍を肩に担いだ。


荒子の空は高い。

川の流れも、土の匂いも、何も変わらない。

けれど犬千代にとっては、もうすべてが変わっていた。


村の外の男が、自分を見た。

若殿が、自分を呼ぶと言った。

それだけで世界は、急に遠くまで開ける。


犬千代は歩き出した。


泥だらけの足で。

胸の内に熱い火を抱いたまま。

那古野へ向かう日は、もう遠くないと知って。

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