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うつけ者と笑われた若き前田利家、槍働きと義理人情で織田家を駆け上がり、やがて百万石の祖となる  作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第2話 那古野へ向かう風

荒子の朝は早い。


まだ空に淡い灰色が残っているうちから、厩では馬が鼻を鳴らし、台所では火打石の音がして、女たちが桶を運ぶ気配が屋敷の内を行き来し始める。

前田家の屋敷もまた、その朝のざわめきとともにゆっくり目を覚ましていく。


だが、その日ばかりは、いつもより少しだけ空気が違っていた。


張っているのだ。


まるで、まだ見えぬ何かを迎える前のように。


犬千代は夜明け前から目を覚ましていた。

というより、ほとんど眠れなかった。


布団の中で目を閉じれば、那古野の二文字が胸の奥で熱を持つ。

若殿。

織田三郎信長。

荒子の外。

戦の匂いがする場所。


そう思うだけで、腹の底がじっとしていられなかった。


「……寝ておれぬ」


誰に聞かせるでもなく呟いて、犬千代は起き上がった。


障子の外はまだ薄暗い。

冷えた空気が肌を刺す。

だがそれすら心地よかった。


着物を整え、帯を締める。

髪はまだ幼さの残る結い方だ。手元も乱暴で、美しくとはいかない。

けれど今日は、それでも構わないと思えた。


どうせ、いずれ全部変わる。


幼い呼び名も、着方も、立ち方も、物を見る目も。

荒子の犬千代のままでは、那古野へは行けぬ。

いや、行けたとしても、そこで飲み込まれるだけだ。


犬千代は、そっと自分の手を見た。

掌には、ここ数日の槍稽古でできた擦り傷がまだ赤く残っている。

柔らかな子どもの手ではない。だが、本物の武士の手にもまだ遠い。


「まだ足りねえ」


口に出すと、余計にその思いが濃くなった。


そのまま犬千代は裏手へ回り、槍を持って川原へ向かった。


朝靄の薄く残る河原に立つと、犬千代はひとつ深く息を吸った。

水の匂い。湿った土の匂い。草の青い匂い。

荒子の匂いだ。


生まれてからずっと嗅いできた匂い。

けれど今朝は、それがまるで出立の前の名残のようにも思えた。


犬千代は槍を構えた。


一歩。


踏み込む。


まだ浅い。

自分でも分かる。


もう一歩。


突く。


穂先がぶれる。

脇が甘い。腰が浮く。


「くそ……」


唇を噛む。

それでも止めない。


突いて、引いて、また突く。

石突が土を擦り、踏み込みの足が湿った地面に沈む。

朝の冷えた空気の中で、犬千代の吐く息だけが次第に熱を帯びていった。


何度目かの突きを繰り返した時、背後から声が飛んだ。


「今日はやけに気が急いておるな」


振り返るまでもない。

又兵衛だった。


犬千代は舌打ちもせず、そのままもう一突きしてから槍を下ろした。


「急いてるんじゃねえ」


「では何だ」


「……遅いのが嫌なんだ」


又兵衛は近づきながら眉をひそめた。


「何がだ」


「全部だ」


犬千代は槍を握り直したまま言った。


「槍を覚えるのも、那古野へ行くのも、名を上げるのも。全部遅え」


その言葉は、年端もいかぬ少年のものにしては、ずいぶんと切実だった。


又兵衛はすぐには口を開かなかった。

犬千代のこういう時の声は、ただの癇癪とは少し違う。喧嘩の最中に吠える時より、よほど深いところから出ている。


「お前はまだ子どもだ」


又兵衛がようやく言う。


「知ってる」


「知っておるようには見えん」


「見えなくていい」


「強がるな」


犬千代はそこで初めて、少しだけ顔を歪めた。


「強がって何が悪い」


「悪いとは言わぬ」


「皆、俺にそう言う。まだ子どもだ、順がある、待て、今はまだ早い。……でも待ってるうちに、兄上たちはどんどん先へ行く」


朝靄の向こうで川が静かに流れている。

鳥が一羽、水辺から飛び立った。


犬千代はその先を見たまま続けた。


「俺は家の中で、一番でも二番でもねえ。最初から前へ出られる立場じゃねえ。だったら、待ってたら本当に何も来なくなる」


又兵衛は黙って聞いていた。


言ってしまえば、これは武家の家の定めだ。

長子から順に重みがあり、立場があり、期待がかかる。

四男の犬千代がそれに苛立つのは自然だ。だが自然であることと、それをどう扱うかは別である。


又兵衛はゆっくりと犬千代の傍らに立った。


「犬千代」


「何だ」


「焦るな、と言っても焦るのだろうな」


犬千代は答えず、代わりに鼻を鳴らした。


「ならばせめて、焦りを前へ出る力に変えよ。暴れるだけでは犬のままだ」


犬千代は顔をしかめた。


「また犬か」


「お前が犬千代だからだ」


それは珍しく又兵衛らしい冗談だった。

犬千代は少しだけ口の端を動かしたが、すぐ真顔に戻った。


「……犬のままで終わるつもりはねえ」


「なら、それでよい」


又兵衛はそう言って、川原の土に足先で線を引いた。


「ここから、ここまで。一息で踏み込め」


犬千代が目を向ける。

今の自分の踏み込みより、半歩ぶんほど先だ。


「無茶だ」


「お前は無茶が好きだろう」


「好きでやってるわけじゃねえ」


「できぬと思うならやめろ」


その言い方に、犬千代の目が変わった。


槍を構える。

腰を落とす。

息を吸う。


できるか、できぬか。

そんなことより、やるかやらぬかだ。


犬千代は地を蹴った。


踏み込み、突く。


ぐらり、と体勢が崩れた。

だが倒れず、石突を強引に引いて持ちこたえる。穂先は標より少し下を刺したものの、線までは届いていた。


又兵衛は何も言わなかった。

代わりに、ほんのわずかだけ目を細める。


犬千代は荒い息のまま顔を上げた。


「……届いた」


「ああ」


「見たか」


「見た」


「次はもっと先だ」


又兵衛はそこで初めて笑った。


「まったく、食らいつくことだけは誰にも負けぬな」


犬千代は槍を立て、朝の光が少しずつ川原を照らし始めるのを見た。

胸の中の焦りは消えない。だが、今の一歩でほんの少しだけ、その焦りに形がついた気がした。


その日の昼、前田家の屋敷には再び那古野の使いの話が持ち上がった。


今度は噂ではない。

正式な沙汰として、年長の兄たちから順に那古野へ参上する日取りが定まりつつあるという。


犬千代は廊下の陰で、その話を聞いていた。


また立ち聞きか、と言われればその通りだ。

だが犬千代にとって、今や家中の話は他人事ではなかった。


「まずは――」


年長者の声が聞こえる。


「兄たちを順に出す。その後、様子を見る」


その“その後”の中に自分がいるのだと分かっていても、犬千代には腹立たしかった。

順。

また順だ。


拳を握りしめた時、後ろから静かな声がした。


「聞いておられるのですか、犬千代様」


振り返る。

夕餉の席で言葉を交わした、あの家中の女だった。


犬千代は少しだけ気まずくなったが、すぐに顔をそむけた。


「聞いてねえ」


「廊下の陰で耳をそばだてておられるのに?」


「耳が勝手に聞いたんだ」


女はくすりと笑う。

その笑い方が、犬千代には妙に腹立たしい時と、妙に安心する時があった。今日は後者だった。


「待つのが嫌なのでしょう」


犬千代は黙った。

黙るということは、認めているのと大差ない。


女は少しだけ声を落とした。


「けれど、犬千代様。待たされる者は、待たされる間に何をするかで違ってまいります」


「説教か」


「いいえ。慰めでもありません」


犬千代はちらりと女を見た。

女はまっすぐこちらを見返していた。


「先に呼ばれる方もおられます。後からでなければならぬ方もおられます。ですが、先に行った者が必ず先に残るとは限りません」


その言葉に、犬千代の目がわずかに動く。


「……どういう意味だ」


「犬千代様は、順を奪えぬとお思いなのでしょう」


「違うのか」


「順そのものは奪えませぬ。けれど、目に留まるかどうかは、順だけでは決まりませぬ」


犬千代は、思わず息を呑んだ。


目に留まるかどうか。


それは犬千代が今、一番欲しているものだった。

兄の後ろで呼ばれるにしてもいい。

ただ、呼ばれた時に「この小倅は違う」と思わせられればいい。


女は微笑を消し、少しだけ真面目な顔になった。


「犬千代様は、荒々しいだけではもったいないお方です」


その言い方に、犬千代は妙にむず痒くなった。


「何だよ、それ」


「損な気性をしておられますが、目は真っ直ぐです。だからこそ、今のうちに立ち方を覚えなさいませ」


「立ち方?」


「はい。怒る時の顔だけではなく、黙っておられる時の顔も見られます。若殿のようなお方なら、なおさら」


犬千代は、はっとした。


川原で会ったあの武士も似たようなことを言った。

前へ出る者は、見られる。

武も、言葉も、立ち方も。


あの言葉と今の言葉が、胸の中で一つに重なった。


女はそれ以上は言わず、一礼して去っていった。


犬千代はその場に一人残る。

廊下の先では庭の木が揺れている。風は強くない。だが、葉先がさやと鳴った。


見られる。


ならば、怒鳴って座敷に飛び込むだけでは足りない。

槍だけでも足りない。

立っているだけで、黙っているだけで、目に留まるような何かが要る。


それは犬千代にとって、喧嘩に勝つことより難しいことのように思えた。

けれど、難しいからこそやる価値がある。


「……上等だ」


誰にも聞こえぬ声で呟く。


その夜、犬千代は珍しく鏡代わりの水面を見た。

井戸水を張った桶の中に、自分の顔が揺れている。

まだ子どもだ。

頬もどこか丸く、眼だけがやたら強い。喧嘩の跡の薄い痣も残っている。


「見られる、か」


呟いてみると、言葉の重みが少し分かった気がした。


ただ前へ出るだけではない。

見られるに足るものになる。

そう考えると、胸の奥の火はさらに静かに、深く燃え始めた。


そして数日後。


那古野へ向かう兄たちの支度が進む中、犬千代は屋敷の門前に立っていた。


兄たちの馬具が整えられ、供の者たちが慌ただしく行き来する。

自分はまだ行けない。

まだだ。


悔しさがないと言えば嘘になる。

腹の底は煮えている。


けれど、ただ歯噛みしているだけではない。

犬千代は今、その悔しさを飲み込みながら、兄たちの立ち方、供の者への声のかけ方、馬へ乗る所作、その一つひとつを焼きつけるように見ていた。


見て、盗んで、いずれ自分のものにする。


門の外へ視線を向ける。


道は那古野へ続いている。

その先には若殿がいる。

織田の家中がある。

戦の匂いのする場所がある。


犬千代は、胸の内で静かに言った。


待っていろ。


今すぐではない。

だが、遠くもない。

俺は必ず、そこへ行く。


風が吹いた。

荒子の土の匂いを巻き上げ、そのまま那古野の方角へ流れていく。


犬千代は、その風を見送るように目を細めた。


荒子の小倅。

四男坊。

喧嘩ばかりの犬千代。


今はまだ、それでいい。


だがその名は、いずれ変わる。

立場も変わる。

呼ばれ方も、見られ方も、全部変わる。


その始まりが、もう来ている。


犬千代は唇の端をわずかに上げた。


「……俺の番も、すぐだ」

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