第一話続々 村の時代の終わりの予感
那古野から使いが来る。
その噂は、荒子の屋敷の中を思ったより早く駆け回った。
大声で触れ回る者はいない。けれど、台所で湯を沸かす女たちの声が少しだけひそまり、庭を掃く下男の手つきが妙にそわつき、厩で馬を見ている者の目が何度も門の方へ向いた。
犬千代は、そういう空気の変化に敏かった。
何かが来る。
誰かが来る。
しかも、それはただの客ではない。
昼を少し過ぎた頃だった。
乾いた蹄の音が、荒子の道に響いた。
犬千代は真っ先に立ち上がった。
屋敷の縁から土塀の隙を覗く。
来た。
馬は三頭。
先頭の武士は細身だが、軽く見えない。供の二人も気配が締まっている。荷を運ぶための一行ではなく、用向きをまっすぐ果たしに来た顔だ。
門番が姿勢を正し、屋敷の者が慌ただしく動く。
犬千代は廊下の陰へ滑り込んだ。
また立ち聞きだ、と言われればそれまでだ。
だが、こういう時に大人しくしていられるほど、犬千代は利口ではなかった。
使者は座敷へ通された。
遠くて顔まではよく見えぬ。だが、声は聞こえる。
「……那古野より参った」
「ご足労、忝い」
「若殿より言伝がある」
その一言で、座敷の空気がぴんと張ったのが、廊下の外にいる犬千代にまで分かった。
若殿。
織田三郎信長。
犬千代の喉が、ごくりと鳴る。
使者の声は平板だったが、その平板さがかえって怖い。余計な言葉を足さぬ者の声だった。
「荒子前田家の若き者ども、その働きぶりと気性について、若殿は前々より聞き及ばれている」
犬千代は思わず身を乗り出した。
若き者ども。
その中に、自分も入るのか。
「このたび、那古野へ上がらせ、顔を見たいとの仰せだ」
廊下の板がきしみそうになるほど、犬千代は拳を握った。
顔を見たい。
その一言だけで、胸の奥が熱くなる。
戦に出ろとはまだ言われていない。召し抱えると明言されたわけでもない。
ただ、顔を見たい。
それだけだ。
だが、それだけで十分だった。
荒子の外にいる若殿が、自分たちの存在を知っている。
その事実が、犬千代には稲妻みたいに響いた。
「年嵩より順に、折を見て参上させよとのことだ」
犬千代の胸に、一瞬だけ冷たいものが落ちた。
年嵩より順に。
それなら自分は後だ。
兄たちが先に行く。
自分はまた、後ろに回される。
ふつ、と熱が怒りに変わりかける。
だが次の言葉が、その怒りを別の形にした。
「……ただし」
使者はわずかに間を置いた。
「若殿は、荒子におる“気の荒い小倅”のことも面白く聞いておられる」
座敷の中が、ほんの一瞬、沈黙した。
犬千代の鼓動が耳に響く。
「名は、犬千代と言ったか」
その時、犬千代は自分の足が勝手に動くのを止められなかった。
廊下の陰から飛び出し、障子の脇まで一気に走る。
さすがに座敷へ踏み込む寸前で又兵衛が肩を掴んだが、もう遅い。
「俺だ!」
張り上げた声が、座敷中へ響いた。
一瞬、全員の視線が刺さる。
前田家の者たちの顔には驚きと青ざめが浮かび、供の武士はすぐに腰へ手をやった。
使者だけが、座ったまま犬千代を見た。
その眼差しは冷たい。
だがどこか、値踏みするような光もある。
「犬千代」
前田家の年長者が低く唸るように名を呼んだ。
今にも雷が落ちる声だった。
だが犬千代は下がらなかった。
又兵衛の手を振り切り、座敷の縁へ膝をつく。
「俺が犬千代だ。若殿が俺のことを聞いてるってのは本当か」
「犬千代!」
「黙れ!」
年長者の叱声が飛ぶ。
しかし使者は片手でそれを制した。
「無礼は無礼だが……」
使者は犬千代をじっと見た。
「なるほど、話に違わぬ」
「話って何だ」
「気が早く、口も早い。礼法は足りぬが、目だけは死んでおらぬ」
犬千代は一瞬、返す言葉を失った。
褒められているのか、叱られているのか、よく分からない。
「若殿は、そういう者をお嫌いではない」
その言葉に、犬千代の胸がまた跳ねた。
若殿は、そういう者をお嫌いではない。
荒子ではしょっちゅう「損な気性だ」と言われる。
短気だ、荒っぽい、喧嘩が過ぎる、落ち着きがない。
だがその気性を、遠く那古野にいる男は「嫌いではない」と言う。
それだけで、空が開けたような気がした。
「若殿に会わせろ」
犬千代は言った。
座敷に緊張が走る。
前田家の者たちは本気で顔色を失っていた。
だが使者は、むしろ口元をわずかに緩めた。
「順を違えるな」
「兄たちの後か」
「そうだ」
「遅い」
「急くな」
「急くに決まってるだろ」
犬千代は膝を乗り出した。
「俺は今すぐ行ける」
「犬千代、控えよ!」
「控えたら後になる!」
「後になるのが道理だ!」
「道理が腹を満たすか!」
叫んだ瞬間、座敷の空気が凍った。
さすがに言い過ぎたと、犬千代自身も分かった。
だが口から出たものは戻らない。
前田家の年長者が立ち上がる。
その顔を見て、犬千代もとうとうまずいと思った。
だがその時、使者が低く笑った。
「はは」
全員の視線がまた使者へ向く。
「面白い小倅だ」
供の武士がぎょっとする。
前田家の者たちも戸惑った顔をした。
使者は犬千代から目を離さずに言った。
「よい。今すぐというわけにはいかぬが、若殿へはありのまま伝えよう。荒子の犬千代は、順を待つのも惜しいほど前へ出たがる気性だ、と」
犬千代は唇を引き結んだ。
言い負かされたわけではない。
だが、これ以上ここで暴れても、若殿へ近づくどころか遠ざかるだけだと、かろうじて分かった。
「……必ず、伝えろ」
使者は頷きもしなかった。
ただ静かに見返すだけだった。
それだけで十分だった。
この男は、軽々しく約束する者ではない。だからこそ、一度口にしたことは届く気がした。
その後、犬千代は座敷から引きずり出された。
当然である。
屋敷の裏手まで来たところで、年長者が振り返った。
又兵衛も青い顔で立っている。
「犬千代」
声は怒鳴っていない。
だがその静けさに、犬千代は背筋が伸びた。
「お前は、どこまで勝手をする」
犬千代は少しだけ目を逸らした。
「……若殿の話だったからだ」
「だから何だ」
「俺のことを聞いてるって言った」
「それで座敷へ飛び込むか」
「飛び込まなきゃ、俺の話は終わってた」
年長者は深く息を吐いた。
怒りだけではない。呆れ、疲れ、そして少しの困惑が混ざっている。
「お前は前へ出たがる」
「知ってる」
「だが前へ出るには順がある」
「順を守ってたら、誰かの後ろのままだ」
その言葉に、年長者の目がわずかに細くなった。
犬千代は続けた。
「兄上たちは兄上たちで立派だ。分かってる。けど俺は違う。俺には俺の上がり方がある」
口に出して初めて、自分が本当にそう思っていたのだと気づく。
兄の道をなぞることはできない。
家が最初から用意してくれた道も、自分には薄い。
ならばどうするか。
自分でこじ開けるしかない。
年長者はしばらく犬千代を見つめていたが、やがて言った。
「その気性が家を立てるか、家を潰すか、今はまだ分からぬ」
「潰さねえ」
犬千代は即座に言い返した。
「俺は前田の名を大きくする」
それは、子どもの大言壮語に過ぎないはずだった。
だが、言葉にした瞬間、犬千代の腹の中で何かが定まった。
前田の名を大きくする。
家が自分をどう見るかではない。
自分が家へ何を持ち帰るかだ。
年長者はもう何も言わなかった。
ただ、又兵衛に目をやる。
「しばらく、目を離すな」
「はっ」
「それと――」
年長者は犬千代へ視線を戻した。
「槍の稽古を増やせ」
犬千代は目を見開いた。
怒られると思っていた。謹慎を言い渡されてもおかしくなかった。
それなのに出てきたのは、別の言葉だった。
「本気で前へ出たいなら、子どもの喧嘩ではなく武を覚えよ。口で出るのではない。力で届くようになれ」
犬千代の胸の奥に、熱いものが広がった。
「……分かった」
「分かったなら、次に座敷へ飛び込む時は、せめて今より少しは見られる面になっておれ」
それだけ言い残し、年長者は去っていった。
又兵衛はその背を見送り、それから犬千代を見た。
「犬千代」
「何だ」
「お前は本当に、心臓に毛が生えておるな」
犬千代は鼻を鳴らした。
「そんなもん、生えてる方がいい」
「だが、今日ばかりはわしの寿命が縮んだ」
「縮んでもまだ生きてる」
「可愛げのない小倅め」
又兵衛はそう言いつつも、どこか笑っていた。
その日から、犬千代の朝は変わった。
誰より早く起きる。
槍を握る。
踏み込む。
突く。
戻す。
また踏み込む。
昼も、少しでも空けば振る。
夕方も振る。
掌の皮が擦れて破れ、血がにじんでもやめない。
那古野の若殿が自分のことを聞いている。
それだけで、昨日までの稽古とは意味が違った。
見られるなら、見られるに足るものになる。
会うなら、ただの悪童ではなく、名を覚えられる顔で会う。
その執念じみた集中に、屋敷の者たちも次第に口をつぐんだ。
喧嘩っ早い小倅が、今度は槍へ噛みつき始めた。
最初は呆れていた者たちも、やがて「何かが変わり始めている」と感じ始める。
そしてある朝、犬千代が川原で一人槍を振っていると、背後から声がした。
「昨日よりは、ましだな」
振り返る。
あの武士だった。
犬千代の目が輝く。
「また来たのか」
「通りすがりだ」
「またそれか」
男は少しだけ口元を動かした。
犬千代は槍を握り直す。
「見ろ。前より踏み込める」
「見ている」
「この前より、届く」
「まだ浅い」
犬千代は舌打ちしたが、悔しさと同時に妙な嬉しさがあった。
この男に見られると、自分がどこまで届いていないかが分かる。
それが苦く、同時にたまらなかった。
「俺は那古野へ行く」
犬千代が言う。
男の眉がわずかに動く。
「ほう」
「若殿が俺のことを聞いてる」
「そうか」
「驚かねえのか」
「驚くには早い」
犬千代はむっとした。
「俺は必ず、前へ出る」
男は犬千代をしばらく見ていたが、やがて静かに言った。
「ならば覚えておけ。前へ出る者は、見られる」
「見られる?」
「武も、言葉も、立ち方も、引き際もだ。小さい者ほど、むき出しで見られる」
犬千代は黙った。
「お前が本当に那古野へ行くなら、そこで試されるのは気の強さだけではない」
「……分かってる」
「分かってはおらぬ」
即座に返され、犬千代は悔しげに歯を噛んだ。
「だが、それでよい。分からぬまま進み、痛い目を見て覚える者もいる」
「俺のことか」
「他に誰がいる」
犬千代は、初めて少しだけ笑った。
男もそれを見て、ほんのわずかに目を細める。
「行けるものなら行ってみよ、犬千代」
その言い方は突き放しているようで、どこか背中を押す響きがあった。
犬千代は槍を握り直した。
空は高かった。
荒子の川は相変わらず静かに流れている。
村は小さい。
けれど、もう犬千代には、その小ささが息苦しいだけのものではなかった。
ここは始まりだ。
荒子で生まれ、荒子で育ち、荒子で喧嘩をしてきた。
だが終わりはここではない。
那古野へ。
もっと先へ。
戦のある場所へ。
名が生まれる場所へ。
犬千代は、少年らしい細い腕で、それでも真っ直ぐに槍を前へ突き出した。
穂先は朝の光を弾き、まっすぐ遠くを指していた。




