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うつけ者と笑われた若き前田利家、槍働きと義理人情で織田家を駆け上がり、やがて百万石の祖となる  作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第一話続 荒子の犬千代

その日の夕餉の席で、犬千代は珍しく静かだった。


いつもなら箸を動かしながらでも何か言う。兄の言葉に口を挟み、家人の視線を気にも留めず、面白くないことがあればすぐ顔に出る。

だが今日は違った。


椀の中の汁を口へ運び、米を噛み、また汁を飲む。

ただそれだけを繰り返している。


母屋の灯はやわらかく揺れ、春先の夜の冷えを追い払うように部屋を照らしていた。

兄たちは兄たちで何やら話している。田のこと、年貢のこと、誰それの使いがどうしたといった話だ。犬千代にはまだ、その半分も正式には聞かされない。


聞こえている。

だが、輪の中には入っていない。


それが腹立たしかった。


「犬千代」


不意に名を呼ばれ、犬千代は顔を上げた。


正面ではなく、少し横。

母方の縁に近い女房衆の席からだった。年の頃は若くはないが、まだ老いてもいない。前田家に長く仕える女で、犬千代が幼い頃からよく知る顔だ。


「今日はえらく静かではありませんか」


犬千代はふんと鼻を鳴らした。


「腹が減ってるだけだ」


「それだけなら、いつもはもっと騒がしいでしょう」


周りで小さく笑いが起きる。

犬千代はむっとしたが、反論するとまた笑われそうで黙った。


女は少しだけ声を落とした。


「顔が腫れておりますよ。朝、また何かしたのでしょう」


「されたんだ」


「犬千代様は、いつもそう仰いますね」


その言い方が妙に優しかったので、犬千代は逆に居心地が悪くなった。


「……俺は悪くねえ」


「ええ、たいていそうなのでしょう」


「何だよ、それ」


「けれど、犬千代様は損な気性をしておいでです」


犬千代の箸が止まる。


損な気性。


その言い方は、ただ叱られるよりも胸に引っかかった。

周囲の誰かが「喧嘩ばかり」「落ち着きがない」「四男坊のくせに血の気が多い」と言うのとは違う。まるで、自分の中身を覗かれたような気がしたからだ。


「……どういう意味だ」


女は椀を置き、少しだけ微笑んだ。


「怒るより前に、傷ついておられるのでしょう」


犬千代は即座に顔をしかめた。


「傷ついてなんかいねえ」


「そういうお顔です」


「どんな顔だ」


「今にも噛みつきそうなお顔です」


また犬呼ばわりか、と犬千代は思ったが、さすがに夕餉の場で立ち上がるほど子どもでもなかった。

ただ、むくれたまま飯を掻き込む。


女はそれ以上言わなかった。

だが犬千代の胸には、その言葉が奇妙に残った。


怒るより前に、傷ついている。


そんなはずはない。

侮られれば腹が立つ。ただそれだけだ。

けれど、その「侮られたくない」がどこから湧いてくるのかと問われれば、自分でもうまく答えられなかった。


夕餉の後、犬千代は屋敷の縁先に一人座った。


夜の荒子は暗い。

風が田を撫で、虫の声が細く続く。遠くの家の灯がぽつ、ぽつと見えるばかりだ。


小さな世界だ。


そう思った瞬間、自分でも驚いた。

つい昨日まで当たり前だった景色が、急に狭く感じられた。


昼に槍を握ったせいかもしれない。

あるいは、蔵の中で感じた「もっと先へ」という感覚がまだ消えていないのかもしれない。


「何をふてくされておる」


背後から聞こえた声に、犬千代は振り返る。

又兵衛だった。


「ふてくされてねえ」


「では何だ」


「考えてる」


「お前がか」


犬千代は眉を吊り上げた。


「何だ、その言い方は」


「お前は考えるより先に飛び出す方だと思っておった」


「今日は違う」


又兵衛は少し感心したような顔をしたが、すぐその隣に腰を下ろした。


しばらく二人で黙っていた。

こういう沈黙は珍しい。犬千代が黙っている時はたいてい怒っている時だが、今はそれとも少し違った。


「又兵衛」


「何だ」


「外は、どうなってる」


又兵衛は犬千代を見た。


「外?」


「荒子の外だ。尾張の外でもいい。戦は、どこで起きてる。どこの武士が強い。織田の家中はどうなってる。そういうことだ」


又兵衛はすぐには答えなかった。

この小倅が急にそんなことを聞くとは思っていなかったのだろう。


「……急にどうした」


「別に急じゃねえ。前から思ってた」


「嘘をつけ」


「半分くらいは本当だ」


又兵衛は小さく笑った。


「そうさな。外は、荒子みたいに静かではない」


「ふん」


「尾張一つとっても、皆が同じ方向を向いているわけではない。織田の家中も一枚岩ではない。那古野の若殿を快く思わぬ者もいれば、あの御方にしか尾張はまとめられぬと見る者もおる」


犬千代の目がわずかに光った。


「若殿」


「織田三郎信長様だ」


その名を、犬千代は何度か聞いたことがある。

派手好き。奇妙な格好をする。常識外れ。うつけ。

そういう噂ばかりが先に立つ若殿。


けれど、噂の裏で「あの人は只者ではない」と囁く声もあった。


「うつけなんだろ」


「そう言う者は多い」


「本当は違うのか」


又兵衛は夜空を見た。


「分からぬ」


「何だ、それ」


「本当に分からぬのだ。だが、あの御方の周りは妙に騒がしい。人を怯えさせもするし、惹きつけもする。静かなままでは終わらぬ気配がある」


静かなままでは終わらぬ。

その言葉は、犬千代に妙によく馴染んだ。


まるで、自分と同じではないか、と一瞬思ったのだ。

もちろん、相手は織田の若殿、自分は荒子の四男坊。比べること自体が不遜だろう。

だが、周りに扱いづらいと思われ、笑われ、それでもそのままでは収まりきらぬ何かがある――その点だけは似ている気がした。


「会ってみてえな」


犬千代がぽつりと言う。


又兵衛は苦笑した。


「お前はすぐそれだ」


「何が悪い」


「悪いとは言わぬ。だが相手は若殿だ。お前の喧嘩相手ではない」


「喧嘩するなんて言ってねえだろ」


「お前が“会ってみたい”と言う時は、だいたい碌なことにならぬ」


犬千代は返事の代わりに鼻を鳴らした。

だが胸の奥では、その名が小さく残り続けていた。


織田三郎信長。


外は動いている。

荒子の外には、もっと大きな場所がある。

その感覚が、じわじわと犬千代を内側から押し始めていた。


翌朝、犬千代は日が昇る前に起き出した。


まだ屋敷の者が本格的に動き始める前だ。

空気は冷たく、地面には夜露が残っている。

犬千代は足音を忍ばせながら裏手へ回り、武具蔵の戸をそっと開けた。


昨日の槍が、そこに立てかけてある。


犬千代は躊躇なく手を伸ばした。


今日はただ振るだけではない。

もっとちゃんと扱いたい。

もっと遠くへ突きたい。

あの長さを、自分のものにしたい。


だが大人用の槍は、やはり子どもの体には無理があった。

構えようとしても石突が地を擦り、穂先はふらつき、踏み込めばよろける。


「くそ……!」


昨日より悔しかった。

昨日はただ重いと知っただけだった。

今日は、自分がこの槍に届いていないことを思い知らされる。


犬千代は周囲を見回した。

蔵の隅に、古びた練習用の短めの槍が立てかけてある。子ども向けというより、見習い用だろう。


それを見つけた瞬間、犬千代の顔が変わった。


「これだ」


勝手に持ち出してよいものではない。

だがそんな理屈が犬千代の頭に残る余地はなかった。


練習用の槍を抱えると、そのまま屋敷の裏門を抜ける。

向かう先は川原だった。


朝靄の中、犬千代は一人で槍を振った。

今度は昨日より幾分ましだった。

短い分だけ扱いやすい。踏み込みもできる。穂先も昨日ほど暴れない。


一度、二度、三度。


だが、振っているだけでは足りない。


相手が欲しい。

動く相手。

逃げる相手。

こちらへ向かってくる相手。


その衝動に押されて、犬千代は川原の向こうに放してあった馬へ目を留めた。


前田家の下働きの者が水を飲ませるためにつないでいた若馬である。

まだ人に慣れきってはいないが、だからこそ犬千代の血が騒いだ。


あれに乗れたら。

槍を持って走れたら。

きっと今とは違う景色が見える。


犬千代は槍を置き、するすると馬へ近づいた。


若馬が鼻を鳴らす。

犬千代は手を伸ばした。

大丈夫だ、行ける、と思った。


次の瞬間、馬が身をよじって跳ねた。


「うわっ!」


犬千代はとっさにたてがみを掴んだが、支えきれず、見事に泥の上へ転げ落ちた。

背中を打ち、息が詰まる。痛みより先に、情けなさが来た。


「何をしておるか!」


鋭い声が飛んだ。


顔を上げると、川原の上手から一人の武士が歩いてきていた。


前田家の者ではない。

少なくとも犬千代は見覚えがない。


男は旅装とまではいかぬが、長居する姿でもない軽装の武士だった。

しかし、その佇まいが違う。

無駄がない。

静かに歩いているのに、足元から浮ついた気配が一つもない。


犬千代は泥だらけのまま、その男を見上げた。


年は若くはない。だが老いてもいない。

頬に細い傷があり、日に焼けた顔つきには、村の男とは違う張りつめたものがあった。

腰の太刀は使い込まれ、鞘の擦れ具合一つにも場数が見える。


犬千代は直感した。


本物だ。


喧嘩の強い男ではない。

刀を差しただけの武士でもない。

人を斬り、人に斬られ、それでも生きて戻ってきた者の匂いがする。


男は泥まみれの犬千代と、少し離れた場所に転がっている練習槍、それから荒ぶる若馬を順に見た。


「武具蔵から勝手に持ち出したな」


犬千代は答えなかった。

答えるより先に、その男の目に圧されたのだ。


怒鳴っているわけではない。

だが犬千代には分かった。

この男は、自分が今まで殴り合ってきた誰とも違う。


「名は」


男が問う。


犬千代は泥を拭い、ゆっくり立ち上がった。


「……犬千代」


「前田の小倅か」


「そうだ」


「何をしていた」


「見りゃ分かる」


言い返した瞬間、自分でも少し遅れたと思った。

だがもう遅い。


男は一瞬だけ目を細めた。

それで終わりだった。怒りもしない。笑いもしない。


その反応が、犬千代には余計に悔しかった。


自分の言葉など、相手にとってはいちいち腹を立てるほどの重みもないのだ。


「槍を握ったことは」


「昨日からだ」


「昨日」


男の口元が、ほんの少しだけ動いた。笑ったようにも見えた。


「それで馬に乗ろうとしたか」


「できると思った」


「できぬと思わなかったのか」


「思ったらやらねえ」


男はしばらく犬千代を見ていた。

その視線には侮りも呆れもあっただろう。だがそれだけではない。犬千代の奥にあるものを測るような、妙に鋭い目だった。


「前へ出たがる気性だな」


「悪いか」


「生き急ぐぞ」


犬千代は顎を上げた。


「生き急いだって、何もしねえよりましだ」


その言葉に、男の目が少しだけ変わった。

初めて、犬千代を単なる子どもとしてではなく見た気配があった。


男は若馬へ歩み寄ると、手綱を静かに取った。

馬はさっきまで荒れていたのに、その手にはすぐ従う。

犬千代は目を見張った。


「……何でだ」


「何がだ」


「何でおとなしくなる」


「馬も人も同じだ。無理にねじ伏せれば暴れる。先にこちらが崩れぬことだ」


犬千代にはよく分からなかった。

だが、その分からなさが悔しい。


男は若馬を木につなぎ直すと、今度は地面に転がっていた練習槍を拾った。


「構えろ」


「……は?」


「槍だ。握ってみせよ」


犬千代は一瞬呆けたが、すぐに駆け寄って槍を受け取った。


胸が高鳴る。

試されるのだと分かった。


男の前で、犬千代は昨日から何度も試した構えを取る。

まだ粗い。だが、必死で整える。


「踏み込みが浅い」


いきなり言われた。


「膝が浮いておる。穂先が遊ぶ。手だけで扱うな」


犬千代は歯を食いしばり、構えを直す。

男は容赦なく言葉を重ねる。


「それでは届く前に払われる。相手の前で止まる槍など、ただの棒だ」


ただの棒。


犬千代の顔が熱くなった。

悔しくて、情けなくて、だが耳を塞ぎたくはなかった。


「もう一度」


言われるまま踏み込む。


「遅い」


もう一度。


「腰が逃げる」


もう一度。


「目が槍先に行くな。相手を見ろ」


何度も、何度も。


犬千代の腕はすぐに重くなった。

足も痛い。掌も擦れてきた。

それでもやめると言えなかった。


男の声は淡々としている。

怒鳴りもしないし褒めもしない。

だが、一つひとつの言葉が、犬千代を今までより少しだけ前へ押し出していく。


やがて、男は「よい」と言った。


犬千代は肩で息をしながら槍を杖のように突いた。


「……何なんだ、あんた」


「通りすがりだ」


「嘘つけ」


「半分は本当だ」


どこかで聞いたような言い回しだったが、今はそこへ噛みつく余裕もない。


男は川面へ目をやった。


「お前は前へ出たがる。悪くない。だが、前へ出る者ほど、己の位置を知らねば死ぬ」


犬千代は黙って聞いていた。


「自分が何者で、どこまで届き、何が足りぬか。それを知らぬまま突っ込むのは、勇ではなく浅はかさだ」


胸に刺さる言葉だった。

今朝の自分そのものだったからだ。


若馬に飛びつき、無様に転び、泥を食った。

槍を握っているつもりで、実際は振り回されていた。


悔しかった。

だが、悔しいからこそ飲み込める言葉がある。


「……じゃあ、どうすりゃいい」


犬千代は、気づけばそう聞いていた。


男は少しだけ犬千代を見た。


「まず、自分がまだ小さいと知れ」


その言葉に、犬千代は思わず睨み返しそうになった。

だが、睨み返せなかった。


小さい。

その通りだからだ。


家の中でも、外でも、戦のことも、武のことも、何もかも。

今の自分はまだ小さい。

その現実を初めて真正面から突きつけられた気がした。


男は続けた。


「だが、小さいまま終わる目ではない」


犬千代の息が止まる。


男はそれだけ言うと、踵を返した。


「待て!」


思わず叫ぶ。


男は振り返らない。


「名を!」


ようやく足が止まった。

男は肩越しに答えた。


「名など知らずともよい。今日のお前には、まだ重い」


そう言って、そのまま去っていく。


犬千代は追いかけなかった。

追いかけても追いつけぬと、本能で分かったからだ。


代わりに、握ったままの槍を見た。


掌が痛い。

腕も痛い。

泥もついている。

情けないほど未熟だ。


だが、胸の奥では別の火が燃えていた。


小さいまま終わる目ではない。


その一言が、骨の内側に残る。


その夜、犬千代は寝つけなかった。


布団に入っても、川原で会った武士の姿が何度も浮かぶ。

あの静かな足運び。

崩れぬ立ち姿。

怒鳴らずとも通る声。

何より、自分を見透かしたような目。


あれが本物の武士か。


喧嘩の強い兄たちとも違う。

村の男たちとも違う。

子どもの自分にはまだ届かぬ場所に立つ者。


そして同時に、犬千代はもう一つのことを思い知っていた。


自分は前田家の子でありながら、まだ何一つ手にしていない。

兄たちのように、すでに道が定まっているわけでもない。

役目もない。名もない。

あるのは、荒い気性と、引けぬ意地だけだ。


それが悔しい。


悔しいから、眠れない。


犬千代は布団の中で拳を握った。


家が俺に何もくれぬなら、俺が取る。

兄の後ろで黙って座るつもりはない。

名が欲しい。

戦が欲しい。

誰も俺を小さく見られぬところまで行きたい。


夜の闇の中、少年の誓いは誰にも聞かれなかった。

だが、その小さな体の中では、すでに村一つでは収まりきらぬ野心が根を張り始めていた。


そして数日後。

その風は、ついに屋敷の中へ入り込む。


昼の座敷で、年長の者たちが集まり、低い声で何事かを話していた。

犬千代は廊下の陰から、息を殺して耳をそばだてる。


「……那古野より使いが来るそうだ」


「若殿の?」


「ああ」


「まことか。荒子へ何の用で」


「分からぬ。だが近ごろ、若殿は妙な人の使い方をなさる。誰を召し抱えるか、誰に目を留めるか、まるで読めぬ」


犬千代の胸が、どくん、と鳴った。


那古野。

若殿。

織田三郎信長。


まだ自分に関わる話だとは限らない。

限らないが、それでも身体の奥が勝手に熱くなる。


静かなままでは終わらぬ。

あの夜、又兵衛が言った言葉が蘇る。


犬千代は廊下の陰で、そっと拳を握った。


荒子の空は、今日も同じように広がっている。

田も、土も、屋敷も、何も変わっていない。


けれど犬千代は知っていた。


何かが、来る。


まだ姿は見えない。

だが、遠くから吹いてくるその風の匂いだけは分かる。


村の中で喧嘩をして終わる時は、もう長くない。

自分の槍が、まだ見ぬ大きな場所へ向かって伸び始める時が、近づいている。


犬千代は、誰にも見つからぬように笑った。


獣のように。

けれど、ただの子どもではもういられぬ者の顔で。

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