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うつけ者と笑われた若き前田利家、槍働きと義理人情で織田家を駆け上がり、やがて百万石の祖となる  作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第一話 荒子の若槍

尾張の空は、春でもどこか乾いていた。


夜明けの薄青い光が田と畦をなめるように広がり、荒子の村はまだ半ば眠ったまま静かだった。

藁屋根の上には白く浅い朝靄が残り、遠くで鶏が鳴き、用水の流れる音だけが細く響いている。


だが、その静けさをぶち破る音があった。


「待ちやがれ!」


まだ幼さの残る、しかし妙に腹の底から響く声である。


次の瞬間、土の道を駆けていた二人の子どものうち、一人が背中から突き飛ばされた。


「うわっ!」


相手は前のめりに倒れ、口の中まで泥を食った。

泣きそうな顔で振り返る。


「い、犬千代! 何するんだ!」


突き飛ばした方――前田家の小倅、犬千代は、荒い息をしながら相手を見下ろしていた。


まだ少年と呼ぶにも少し幼い年頃だった。

だが目つきが妙に鋭い。頬は日に焼け、髪は乱れ、着物の裾は泥だらけで、どう見ても朝から大人しくしていた顔ではない。


「何するだと?」


犬千代は鼻を鳴らした。


「てめえが先に言ったんだろうが。“四男坊は気楽でいい”ってな」


「だ、だって本当じゃないか! 兄上たちは毎日習い事だの役目だのって言われてるのに、お前は好き勝手してるって――」


最後まで言わせなかった。


犬千代は倒れた相手の胸ぐらを掴み、そのまま地面へ押しつけた。


「好き勝手だと?」


目が、ひどく据わっていた。


幼い子がする目ではなかった。

村の悪童の顔でも、癇癪を起こした武家の小僧の顔でもない。

腹の中に、自分でも持て余す火を抱えている者の目だった。


「俺はな、好き勝手してるんじゃねえ。やることがまだ回ってこねえだけだ」


「い、痛い、犬千代、離せ!」


「だったらてめえが回せ。俺に城でもくれるのか。家でもくれるのか。何もくれねえくせに、気楽でいいだと?」


「犬千代!」


別の声が飛び、村の子らが一斉に身を引いた。


小走りでやってきたのは、前田家に古くから仕える中年の男だった。

名を又兵衛という。犬千代がもの心ついた頃から見知っている顔で、世話役でもあり、叱り役でもある。


又兵衛は額に皺を寄せると、犬千代の肩をひっつかんで引きはがした。


「離せ、犬千代!」


「離してる!」


「それを言うなら最初から掴むな!」


犬千代は舌打ちし、相手を放した。

押さえつけられていた子どもは、半泣きのまま転がるように逃げていく。周りの子も蜘蛛の子を散らすように去った。


又兵衛はその背中を見送り、深く息を吐いた。


「朝っぱらから何をしておる」


「喧嘩だ」


「見れば分かるわ!」


犬千代は腕を組み、ふてくされたように顔を背けた。

頬に泥がついている。だが本人は気にもしていない。


又兵衛は少し声を落とした。


「また“立場”のことで言われたか」


犬千代は答えない。

それが答えだった。


前田家の四男。

武家の子として生まれた以上、行く末が何もないわけではない。だが長子のように家を継ぐでもなく、次男三男のように早くから役目を当てられるでもない。

幼い犬千代自身、言葉にはしきれぬまでも、その曖昧さを誰より嫌っていた。


守られている。

子ども扱いされている。

だが、何者にもなれていない。


その宙ぶらりんな身の上が、胸の奥をいつも苛立たせる。


又兵衛は諭すように言った。


「よいか、犬千代。口に腹が立つのは分かる。だが武家の子が、いちいち言葉尻に噛みついていては身がもたぬ」


犬千代はやっと振り返った。


「噛みつかれたくねえなら、最初から言わなきゃいいだろ」


「そういうことではない」


「そういうことだ」


短く言い切ると、そのまま歩き出そうとする。


又兵衛がまた肩を掴んだ。


「待て。今日はこれから兵法の見習いだ。逃げるなよ」


「逃げるかよ」


「昨日は逃げた」


「あれは退いたんだ」


「何が違う」


「気分だ」


又兵衛は頭を抱えたくなった。

前田家の子らはそれぞれ癖があるが、この犬千代に関しては、癖というより火薬玉に近い。転がっているうちはまだよいが、どこで爆ぜるか分からぬ。


だが又兵衛は知っていた。

この子はただ乱暴なだけではない。人に侮られることを異様に嫌い、何かを奪われるような気配にすぐ牙を剥く。

それは弱さでもあり、妙な強さの種でもあった。


「来い」


又兵衛が先に歩き出す。


犬千代も舌打ちしつつ、その後ろについていった。


荒子の前田家は、豪壮というほどではないが、土地の武士としての体面を保つ屋敷だった。土塀に囲まれた中には母屋があり、納屋があり、稽古用の空き地もある。

幼い犬千代にとって、その屋敷は広くもあり、同時に窮屈でもあった。


兄たちはそれぞれ、すでに家の空気の中に自分の位置を持っている。

誰が何を学び、誰が家中でどう見られているか。

だが犬千代はまだそこに収まりきらない。いや、収まるつもりがないと言った方が近かった。


稽古場には、すでに木刀や弓が並べられていた。

年長の子らが何人かいて、こちらを見るなりひそひそと何か言う。


「また喧嘩だってよ」


「犬千代は朝から元気だな」


「元気っていうか、野犬だろ」


最後の一言に、犬千代の足が止まった。


又兵衛が振り返るより早く、犬千代はその声の主へ飛びかかっていた。


「誰が野犬だ!」


「うわっ、こ、こいつ!」


今度の相手は同じ子どもではない。少し年上の、下級武士の子である。

それでも犬千代は躊躇しなかった。腹へ頭からぶつかり、体勢を崩させると、そのまま押し倒して馬乗りになる。


拳が一発、二発。

相手も負けじと犬千代の頬を殴り返す。

乾いた音が連続し、周りがどよめいた。


「やめろ、犬千代!」


「離れろ!」


「犬千代!」


又兵衛と他の者たちが駆け寄る。

だが犬千代は止まらない。顔を殴られて鼻血がにじんでも、むしろ余計に目をぎらつかせて突っ込んでいく。


倒されても、起きる。

蹴られても、食らいつく。

腕を取られても、噛みつくように前へ出る。


そのしつこさに、今度は相手の方が気圧され始めた。


「こ、この……!」


「まだだ!」


犬千代は叫んだ。

ただ勝ちたいのではない。

引きたくないのだ。

負けを認めた瞬間、自分の中の何かが本当に小さくなってしまう気がする。その恐怖に突き動かされていた。


だが、さすがに何人もの手がかりで引きはがされると、体格差もあって動けなくなる。


「離せ!」


「離さん!」


「もう一発だ! あいつが先に――」


「もうよい!」


雷のような声が響き、場が一瞬で凍った。


その場にいた全員が振り返る。


母屋の縁に立っていたのは、前田家の年長者だった。

名を呼ばずとも、その視線だけで空気が変わる。犬千代もさすがに口をつぐんだ。


「またか、犬千代」


低く押さえた声だった。

怒鳴ってはいない。だが、その静かさがかえって怖い。


犬千代は押さえつけられたまま、血のにじんだ口元を袖で拭った。


「向こうが先に――」


「理由は聞いておらぬ。見れば分かる」


その言い方に、犬千代の喉が詰まる。

血が上っていた頭が、逆に冷えた。


「武士の子が、口一つでいちいち手を出すな」


「……侮られた」


「侮られたら殴るのか」


「殴り返さねえと、また言う」


「では、お前は一生、己を馬鹿にする者を殴って回るつもりか」


犬千代は黙った。

本音を言えば、そのつもりだった。

少なくとも今の犬千代には、それ以外のやり方が分からない。


年長者はゆっくりとこちらへ歩いてくると、犬千代の前で立ち止まった。


「よいか。強いだけでは家は残らぬ」


犬千代は反射的に顔を上げた。


「なぜだ」


「家は一人で立つものではないからだ」


「でも弱けりゃ奪われる」


「そうだ。だから強さは要る」


「だったら――」


「だが、強さだけでも駄目だ」


言葉を断ち切るように言われ、犬千代は唇を噛んだ。


「武士は己一人の腹で動くな。背後に家があり、名があり、人がいる。怒りを振るうにも、守るものを見て振るえ」


犬千代には、その半分も分からない。

いや、分かりたくなかった。


家、名、人。

そんなことを言われても、今の自分にはどれも中途半端にしか与えられていない。

兄たちには役目があり、期待があり、進む道がある。

自分には何がある。


あるのは、この体と、この腹の底の火だけだ。


年長者は犬千代の目をじっと見つめた。


「お前は気性が前へ前へと走る。悪くない。だが、そのままではただの狂犬だ」


狂犬。


朝から二度も犬呼ばわりされた。

犬千代の喉の奥で、怒りがまたぶくりと膨らむ。


だが今度は噛みつけなかった。


ただ、その言葉を丸呑みし、腹の底へ沈める。


狂犬で終わるものか。


ならば何になるのか。

まだ分からない。

だが、ただ飼われるだけの犬では終わらない。

それだけは、はっきりしていた。


その日の稽古の後、屋敷の裏手にある武具蔵の前で、犬千代は一人立ち止まっていた。


鼻の頭には乾いた血が残っている。頬も少し腫れていた。

だがそんなことはどうでもよかった。


蔵の扉が半ば開いている。

中には弓、鎧の部品、古い太刀、そして壁に立てかけられた何本もの槍。


犬千代は吸い寄せられるように中へ入った。


太刀も嫌いではない。

だが、犬千代の目を強く引いたのは、真っ先に槍だった。


長い。

高い。

真っ直ぐだ。


刀は腰の内側で生きる武器だ。

だが槍は違う。腕の先、体の先、もっと先まで伸びていく。

自分の届かなさを、そのまま押し広げるような形をしている。


犬千代は、一番手前にあった槍へ手を伸ばした。


重い。


子どもの腕にはまだ長すぎる。

持ち上げただけで穂先がぐらつき、体が振られる。だが、その不格好さがかえって腹立たしい。


「くそっ……」


握り直す。

両手を少しずらす。

脇を締める。

真似事でもいいから構えてみる。


槍の穂先が、蔵の薄暗がりを指した。


不思議な気がした。

急に、自分の先が遠くへ伸びたような気がする。

拳では届かないところへ。

喧嘩では触れられない場所へ。


「何をしておる」


背後から声がして、犬千代は飛び上がりそうになった。


振り返ると、又兵衛が呆れ顔で立っていた。


「勝手に蔵へ入るな」


「開いてた」


「だから入るな」


「見てただけだ」


「見ながら構えるか」


犬千代は黙った。

だが槍は手放さない。


又兵衛は少し近づき、その様子をじっと見た。

子どもが大人用の槍を持っているのだから滑稽なはずなのに、犬千代の目は妙に真剣だった。


「……刀ではないのだな」


犬千代は小さく鼻を鳴らした。


「刀は近い」


「近い?」


「届く前に、相手も届く」


又兵衛は眉を上げる。


「槍は違う。もっと前に出られる。もっと先を刺せる」


その言い方は子どもじみていて、同時に妙に本質を食っていた。

又兵衛はしばらく黙ったあと、壁に寄りかかった。


「お前は昔から、前へ出たがる」


「悪いか」


「悪いとは言わぬ。だが前へ出るなら、その分だけ後ろも背負うことになる」


「またそれか」


犬千代は不機嫌そうに言った。


又兵衛は苦笑する。


「今は分からんでよい。だが覚えておけ。槍は長い。届く分だけ、引けぬ武器でもある」


犬千代はその言葉の意味をよく考えなかった。

ただ、手の中の槍の重さだけは妙にはっきり感じていた。


長くて、重い。

だが嫌ではない。

むしろ、この重さを振り回せるようになった時、自分は今よりずっと遠くへ行ける気がした。


犬千代は蔵の外へ出ると、庭の隅へ回り、誰もいないことを確かめて槍を構えた。


夕暮れ前の光が、少年の頬と槍の穂先を淡く照らす。


一歩踏み込む。

うまくいかない。

二歩目で足がもつれ、穂先がぶれる。

自分でもひどいと思う。だがやめたくない。


もう一度。

もう一度。

もう一度。


拳で殴るのとは違う。

届く場所が違う。

見える景色が違う。


犬千代は夢中で槍を振った。


子どもの腕はすぐに悲鳴を上げた。

肩が重い。掌が痛い。息も上がる。

それでもやめない。


まるで、自分の中の苛立ちや飢えを、槍の先に乗せて前へ前へと突き出しているようだった。


その姿を、少し離れた廊下の陰から又兵衛が見ていた。


「……なるほどな」


誰に言うともなく、ぽつりと漏らす。


喧嘩ばかりの小倅。

腹が立てばすぐ殴る。

負けず嫌いで、意地だけは山ほどある。


だが、今こうして槍を振るう後ろ姿には、それだけではない何かがあった。

まだ粗く、まだ幼い。

しかし、何かに飢えた獣のような執念がある。


ただの悪童で終わるなら、ここまで一つの武具に食らいつきはしない。


「犬千代」


呼ばれて、犬千代が振り返る。

額に汗を浮かべ、息を荒げながらも目だけはぎらぎらしている。


「何だ」


「日が暮れる。今日はそこまでにせよ」


犬千代は不満そうな顔をした。


「まだ振れる」


「明日も振れ」


「今日の俺と明日の俺は違う」


又兵衛は思わず笑った。


「何を言い出すかと思えば」


「本当だ。明日になったら、今日の悔しさは少し薄くなる」


その言葉に、又兵衛は少しだけ目を細めた。


悔しさ。

なるほど、この子を動かしているのはそれなのだろう。

家の中での曖昧な位置。侮られることへの怒り。まだ何者でもない自分への苛立ち。

それら全部が、槍の先へ向かっている。


「……そうか」


又兵衛はそれだけ言って歩き出した。


犬千代はしばらく槍を見つめ、それからようやく穂先を下ろした。

夕空が赤く染まり始めている。

荒子の村は相変わらず小さい。

屋敷も、田も、道も、全部見慣れたものだ。


だが犬千代の胸の中には、そこに収まりきらぬものがあった。


いつかこの槍で、もっと遠くへ届く。

誰にも小さく見られぬところまで行く。

家が自分に何もくれぬなら、自分が家へ名を持って帰る。


まだ誰にも言えぬ誓いだった。

けれど、その火は確かに灯っていた。


後の前田利家。

槍の又左と呼ばれる男の、その最初の火が。

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