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うつけ者と笑われた若き前田利家、槍働きと義理人情で織田家を駆け上がり、やがて百万石の祖となる  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第7話 那古野の庭で削られる

「始めるぞ」


信長の声が庭へ落ちた瞬間、那古野の空気はまた一段、張りつめた。


犬千代は木刀を手に取った。

前回と同じ庭。

同じ若殿。

同じように並ぶ若者たち。


だが、まったく同じではない。


自分の足の裏が前より地を感じている。

木刀の重みも、ただの武具の重みではなくなっていた。

それでも、ここではまだ自分が一番下だということも、嫌というほど分かっている。


信長は縁側へ腰を下ろし、庭に立つ若者たちを見回した。


「今日は、ただ打ち合うだけではつまらぬ」


その一言で、何人かの若者の目が動く。

犬千代も背筋を伸ばした。


信長は指先で庭の一角を示した。

そこには低い木杭が三本、等間隔に打たれている。前回はなかったものだ。


「この間合いの中で、先に二度、明確に入れた方を勝ちとする」


犬千代はすぐに意味を呑み込めなかった。

ただ当てるのではなく、限られた場の中で、二度、明確に入れる。

つまり、偶然の一太刀では足りぬ。

間合いも、立ち回りも、続けて取らねばならぬ。


信長は続ける。


「追い回して勝つな。逃げ回っても勝ちではない。場を使え」


場を使え。


犬千代の胸の奥に、その言葉が重く沈んだ。


荒子の喧嘩なら、足場も何もあったものではない。

前へ出て、ぶつかって、殴り倒した方が勝ちだ。

だが那古野では違う。

立っている場所、動く幅、相手を追い込む形――そういうものまで見られている。


信長は若者たちの中から二人を選び、まずは見せるように戦わせた。


犬千代はそれを食い入るように見た。


打ち合いの速さよりも、驚いたのは足だった。

若者たちは狭い場の中でぶつからない。詰まりもしない。

半歩、四半歩、わずかなずれで互いの木刀の線を外し、自分の打ち筋を通していく。


まるで、狭い場所の中にも広さがあるみたいだった。


犬千代は無意識に自分の足元を見た。

自分なら、あんなふうに動けるか。

無理だ。

今のままでは、すぐに足がもつれる。追い込みたい一心で前へ出過ぎ、逆に場を失うだろう。


悔しい。

だが見ているうちに、その悔しさが次第に熱へ変わっていく。


あれを覚える。

自分のものにする。

まだ無理でも、だからこそ見ておく。


二組ほど終わったところで、信長の目が犬千代に向いた。


「犬千代」


「は」


「出よ」


胸が鳴る。

犬千代は木刀を握り、杭で囲まれた狭い場へ入った。


相手は――前回、二度目に戦ったあの目つきの鋭い若者だった。


若者は犬千代を見るなり、ほんのわずかに口元を上げた。


「また俺か」


「嫌か」


犬千代が返すと、若者は首を振る。


「いや。お前は前よりましになっておる」


その言い方に、犬千代の胸が少しだけ熱くなった。

那古野の若者にそう言われるのは、思った以上に嬉しい。


だが、だからといって気が緩むわけではない。

むしろ、前よりましになったなら、今度はもっとはっきり見られるということだ。


二人は礼を交わす。


杭の中は狭い。

一歩外へ出れば終いだ。

犬千代は足裏で砂の具合を確かめた。


「始めよ」


声と同時に、相手がすぐには来なかった。


前回と同じだ、と犬千代は思う。

焦れた方が食われる。

だが今日は、自分もそれを知っている。


犬千代は深く息を吸い、目だけを動かした。


肩。

手首。

膝。

木刀の先。


見ろ。

見て、相手の形を読め。

前回、少しだけそれができた。


相手がわずかに右へ寄る。

犬千代もずらす。

杭の位置が視界の端で揺れる。

狭い。

だが、狭いからこそ相手の逃げ道も限られる。


その時、ふっと気づいた。


相手は自分を外へ出そうとしている。


打つためではなく、圧でじわりと。

自分が焦れて大きく動けば、すぐに杭の外へ追い出される。


犬千代は、その瞬間だけ動きを小さくした。

前へ出たくなる足を抑え、ぎりぎりで場の中央を保つ。


若者の目が少しだけ細くなる。


来る。


そう思った瞬間、若者が一気に踏み込んだ。


犬千代は正面では受けず、半身にずれて木刀を合わせる。

甲高い音。

そのまま押される。

だが押し負ける前に、犬千代は体を斜めに切るようにして外した。


若者の木刀がわずかに流れる。


今だ。


犬千代は返す。

肩口を狙う。

若者は受ける。

だが、その受け方にわずかな遅れがあった。


浅い。

けれど、入った。


「一つ」


信長の声が飛ぶ。


犬千代の胸が跳ねた。


取った。

ただ当てたのではない。

若殿が「一つ」と数えた。

今の一撃は、明確に入ったのだ。


だが喜ぶ暇はない。

若者の目つきが一段変わった。

今までは測っていた。今は取りに来る顔だ。


犬千代はそれを見て、逆に少しだけ笑いそうになった。


ようやく、本気で来る。


若者が詰める。

速い。

犬千代は一歩退きかけ、はっとする。


違う。

退けば杭の外だ。


足を止め、横へずらす。

若者の木刀が頬の前を掠める。

痛いほど近い。


犬千代はすぐ打ち返さず、木刀を短く構え直した。

狭い場では大きく振る方が遅れる。

今見たばかりだ。

ならば、小さく、速く。


若者が二の太刀を振るう。

犬千代は受けながら体を寄せ、ほとんどぶつかるような近さから木刀を跳ね上げた。


若者が避ける。

その動きが一瞬だけ大きくなった。


外へ出る。


犬千代は反射で追った。

そこで又兵衛の稽古が脳裏をかすめる。


追いすぎるな。

前へ出るだけでは犬のままだ。


犬千代は追い切る寸前で足を止めた。

代わりに、相手が戻る線へ木刀の先を置く。


若者が戻ってくる。

そこへ犬千代の木刀が伸びる。


「……っ」


若者が辛うじて受けた。

明確ではない。

だから信長の声はない。


だが、今のは相手を慌てさせた。

犬千代にも分かった。


その瞬間、若者が逆に一歩深く入ってきた。


しまった、と思うより早く、胴に衝撃が走る。


「一つ」


今度は信長が若者に数を与えた。


犬千代は息を詰め、すぐに構え直す。


一つずつ。

互いに一つ。

次に取った方が大きい。


庭の空気が、前回よりずっと濃く自分の周りへ集まってくるのが分かる。

見られている。

那古野の若者たちも、信長も、前より確かに自分の戦いを見ている。


それが嬉しく、同時に苦しい。


若者がもう一度来る。

今度は犬千代から半歩踏み込んだ。


相手の目が動く。

その一瞬の揺れに、犬千代は思いきって木刀を振るう。


上からではない。

横へ払う。

広くはない。

狭い場で、相手の木刀の線だけを崩すつもりで。


当たる。


若者の木刀がわずかに外れる。


犬千代は、そのまま体ごと入った。

近い。

近すぎる。

だが今はそれでいい。


木刀の柄に近いところを使うような短い打ちで、若者の胸元を捉える。


「二つ」


信長の声。


犬千代は、聞いた瞬間にはもう一歩下がっていた。

息が荒い。

腕が痺れる。

だが、胸の奥では何かが弾けていた。


勝った。


那古野の若者に。

あの鋭い目つきの相手に。

しかも、若殿の前で、二度取って勝った。


若者は一瞬、悔しそうに眉を寄せたが、すぐに木刀を下げて礼をした。


犬千代も、荒い息のまま礼を返す。


信長は縁側で顎を少し上げた。


「ほう」


その一言が、犬千代には何より重かった。


褒めたわけではない。

だが見た。

ちゃんと見て、そのうえで「ほう」と言った。


若者が下がると、庭の端が少しざわめいた。

犬千代はそこへ顔を向けなかった。

向けたら、きっとにやける。

今はまだそれを見せるべきではない。


だが、心の中では叫びたいほど熱かった。


取れた。

届いた。

前よりましどころではない。

確かに自分の一歩で取ったのだ。


信長が言う。


「犬千代」


「は」


「今のはなぜ取れた」


問いは短い。

だが、犬千代にはそれが一番難しい。


なぜ取れた。


力ではない。

速さでもない。

何かを少しだけ変えたからだ。


犬千代は呼吸を整えながら答えた。


「最初は、相手に外へ出されそうになりました」


「うむ」


「だから場の真ん中を捨てぬようにしました。……それと、前みたいに“勝てる形に入ったつもり”になるのをやめました」


信長の目がわずかに細くなる。


犬千代は続ける。


「近づくのは同じでも、今度は相手が嫌がるところへ先に木刀を置こうと思いました」


それはうまく言えているのか、自分でも分からない。

だが、今の自分に言えるのはそれだった。


信長はしばし犬千代を見つめ、それから静かに笑った。


「少し、戦い方を覚え始めたな」


その言葉に、犬千代は胸がいっぱいになるのを感じた。


少し。

また少しだ。

けれど今は、その「少し」がひどく嬉しい。


信長はそこで終わらせず、今度は庭の端にいた別の若者へ顎を向けた。


「次」


犬千代の胸がまた鳴る。


勝った。

だが終わりではない。

ここで終わらせてくれないところが、那古野であり、若殿なのだ。


今度の相手は、前より体格がある。

しかも木刀を持つ手に迷いがない。

犬千代は一目で思った。


さっきの勝ちは、もう通じぬかもしれない。


それでも前へ出るしかない。


礼を交わし、構える。


始まった瞬間、相手は正面から力強く打ち込んできた。

さっきの若者のような探りではない。

押し切るつもりの打ちだ。


犬千代は受けた。

重い。


腕がしびれる。

だが下がれば押し出される。


犬千代は足を踏ん張る。

一度、二度。

受けるたびに肩へ重みが溜まっていく。


強い。


さっきとは違う。

考える余地を押し潰してくる相手だ。


犬千代は横へずらそうとする。

だが相手はそれを許さぬように木刀を重ね、圧をかけてくる。


場の真ん中を保て。

だが力負けする。


どうする。


犬千代の頭が熱くなる。

そこでまた、前へ出たくなる自分が顔を出す。


突っ込め。

近づいてしまえ。

噛みつけ。


だがその瞬間、木刀が大きく弾かれた。


「――!」


犬千代の構えが半ば崩れる。

次の一撃が来る。


間に合わない。


そう思った瞬間、犬千代は足を引いた。

前へ出るのではなく、半歩だけ、あえて。


木刀が空を切る。


相手の目がわずかに動く。

犬千代は、その隙に体を入れ替え、杭の内の端から端へと滑るように逃れた。


庭の端で誰かが息を呑む。


今のは逃げだ。

那古野の庭で犬千代が初めて、自分から下がってみせた。


だが、その下がりは恐れからではない。

崩された形を立て直すための半歩だった。


相手が追う。

犬千代はそこで木刀を真っ直ぐ突き出すように使った。

打つのではない。

入ってくる相手の顔の前へ線を通す。


相手は反射で顔をずらす。


犬千代は、その一瞬のずれのまま横へ回り込み、胴を浅く払った。


「一つ」


信長の声。


犬千代は自分でも驚いた。

取った。

今の形で。


だが、喜ぶ暇はすぐに消えた。

相手の顔つきが変わる。


今まで押し切れると思っていた相手に、予想外の形で取られたのだ。

次は、もっと本気で来る。


犬千代の胸の中には、勝った熱と、次で食われるかもしれぬ冷たさが同時にあった。


信長はそれを見ている。


那古野の若者たちも見ている。


犬千代は木刀を握り直した。


痛い。

苦しい。

だが、それ以上に胸が躍っていた。


那古野で戦っている。

荒子の小倅ではなく、ここに立つ一人として。


「参る」


小さく呟いたその声は、自分でも驚くほど静かだった。

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