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うつけ者と笑われた若き前田利家、槍働きと義理人情で織田家を駆け上がり、やがて百万石の祖となる  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第12話 庭の外で試される

「ようやく“使える小倅”になってきたな」


その一言は、荒子へ戻ってからも犬千代の腹の底で何度も燃え返った。


使える小倅。


まだ“小倅”だ。

まだ一人前ではない。

若殿の傍にいる若侍たちと並べば、腕も、立ち方も、物の見方も、まだまだ足りぬ。

それでも、“使える”と言われた。


若殿がそう言った。


その事実だけで、犬千代は何度でも木刀を握れたし、何度でも足を運べた。


だが、その熱に浮かれてよいわけでもないことは、犬千代自身が一番分かっていた。


那古野では、一つ誉められたそのすぐ後に、次の足りなさを突きつけられる。

一手通ったと思えば、その次で崩される。

一人に勝てば、次の相手はもっと深い。

そういう場所だ。


だから犬千代は、前にも増して朝の川原へ通った。


木刀を持ち、地に線を引く。

半歩。

止まる。

横へずれる。

出る時だけ出る。

そして今は、その足に目が引っ張られすぎぬように、視線の置き方まで気にする。


前なら、ただ前へ出ることだけ考えていた。

今は違う。


見る。

場を見る。

相手を見る。

そして、自分が今どこにいるかも見る。


それが難しい。

ひどく難しい。

けれど、その難しさが、犬千代には少しずつ面白くなってきていた。


ある朝、川原で木刀を握っていると、いつものようにあの武士が現れた。


頬に細い傷のある、名も告げぬ男。

相変わらず足音が軽い。

来たと気づいた時には、もうそこにいる。


「今度は、立つだけでは足りぬ顔をしておるな」


犬千代は木刀を下ろした。


「何だよ、それ」


「前より腹が前に出ておる」


「腹?」


男は頷いた。


「前へ出たいだけの顔ではない。何か来るのを待って、それを取りに行く顔だ」


その言い方に、犬千代は少しだけむず痒い気持ちになった。

自分でも、前とは違う何かがあるのは分かる。

だが、それをこうも言葉にされると、妙に照れくさい。


「若殿に、使える小倅だって言われた」


思わず口にしていた。


男の眉がわずかに動く。


「ほう」


「……笑わねえのか」


「なぜ笑う」


「だって、小倅だぞ」


男は少しだけ口元を緩めた。


「その前についた言葉の方が大きい」


犬千代は黙った。


使える。


確かに、自分が何度も思い返しているのもそちらだ。

だが、真正面からそう言われると、胸の中の熱がまた少しだけ増す。


男は川面の方へ目をやりながら言った。


「使えると言われたなら、その次は何だと思う」


犬千代は少し考えた。


「……もっと使えるようになることか」


「半分だ」


「また半分か」


「残り半分は、何に使われるかを知ることだ」


犬千代は眉を寄せた。


何に使われるか。


今の自分は、庭で声を出し、場を見て、一手を通した。

それが“使える”の意味の一つなのだろう。

だが庭の外ではどうだ。

武だけでない使われ方とは何だ。


犬千代がその答えを考えていると、男はそれ以上は言わずに去っていった。

相変わらず、肝心なところだけ置いていく。


だが、その言葉は犬千代の頭に深く残った。


何に使われるかを知ること。


その意味を知るのは、それから三日後だった。


その日、犬千代は那古野へ上がったものの、いつものようにすぐ庭へは出されなかった。


控えの間へ通され、しばらく待たされる。

障子の向こうを人が行き交う気配はある。

だが木刀の音は遠い。

庭ではなく、もっと館の奥が動いているような空気だった。


犬千代は膝をついて待つ。

落ち着かない。

だが、昔のようにそれをそのまま足先へ出すほどではなくなった。


やがて小姓が現れた。


「犬千代」


「は」


「若殿がお呼びだ」


犬千代の胸が鳴る。


庭ではない。

呼ばれた。

若殿が直接。


又兵衛が横で目を伏せ、小さく頷いた。行け、ということだ。


犬千代は立ち上がり、小姓の後に続いた。


通されたのは、庭ではなく一つの広間だった。

広いといっても、儀式の場というほどではない。

だが畳はよく整えられ、置かれているもの一つにも無駄がない。


信長はその奥にいた。


一人ではない。

近くには年長の家臣が二人。

他にも小姓が控えている。

だが、部屋の中心はやはり信長だった。


犬千代は深く頭を下げる。


「犬千代、参りました」


「うむ」


信長は短く応じた。


「今日は庭ではない」


「は」


「分かっておるな」


犬千代は顔を上げずに答えた。


「はい」


本当は、何をさせるのかまでは分からない。

だが庭ではない以上、木刀を振るうだけでは済まぬのだろうとは察していた。


信長は、犬千代の前に小さな木箱を置かせた。


犬千代は一瞬だけ目を上げる。

箱は片手で抱えられるほど。

飾り気はない。

だが、蓋にはしっかりと紐がかけられている。


「これを運べ」


犬千代は一瞬だけ息を止めた。


運べ。


それだけなら小姓でも下男でもよいではないか。

だが、若殿が自分を呼んで言う以上、ただの荷運びではない。


信長は犬千代の目を見て言った。


「届け先は館の西手にある離れだ。名を聞けば、お前でも知っておる家の者がいる」


犬千代の胸が少しざわつく。


「道は教える。だが」


信長の口元がわずかに動く。


「途中で、誰に何を聞かれても、箱を開けるな。中を言うな。急ぎすぎるな。遅すぎるな。落とすな。走るな。だが、間を違えるな」


矢継ぎ早に落ちる言葉に、犬千代は息を呑んだ。


武の試しとは違う。

だが、確かに試しだ。


中身を守る。

余計なことを言わぬ。

急ぎすぎず、遅れず、間を違えぬ。

それはただ箱を運ぶというより、“用を果たす”ということなのだろう。


信長は続けた。


「庭で見たものだけでは、人は使えぬ」


犬千代の胸へ、その言葉が深く落ちた。


何に使われるかを知れ。

あの武士の言葉が重なる。


「お前は前へ出たがる。悪くない。だが、前へ出る者ほど、余計なことをしたがる」


思い当たりすぎて、犬千代は返す言葉がない。


信長の目が少しだけ細くなる。


「今日は、余計なことをせずに用を果たしてみせよ」


「……は」


短く答える。

だが胸の中では、木刀を握る時とは別の緊張が広がっていた。


箱を抱える。

見た目より少し重い。

だが両手で持てば安定する。


小姓が道筋を簡潔に伝える。

犬千代は頭の中でそれを刻んだ。


そして広間を出る。


廊下を進みながら、犬千代はさっそく自分の足が前へ急ぎたがっているのを感じた。

若殿に言われた用だ。

早く着かねば。

きちんと果たさねば。


だが、急ぎすぎるな。

走るな。

間を違えるな。


その言葉を胸の内で反芻し、犬千代は歩幅を一つ抑えた。


落ち着け。

これは戦ではない。

だが、戦と同じく“崩れたら負け”だ。


館の中ですれ違う者が何人か、箱を抱えた犬千代に目を留めた。

荒子の小倅が、若殿の用で動いている。

それだけでも視線は向く。


一人、小姓頭らしき年長の男が立ち止まり、犬千代を見た。


「犬千代か」


「はい」


「何を運んでおる」


声は軽い。

だが、信長に言われたばかりの犬千代には、その軽さがかえって難しかった。


ここで素直に答えてよいものか。

だが“答えぬ”のも無礼かもしれぬ。


犬千代は一拍だけ置いて言った。


「若殿より、離れへ届けるよう仰せつかった物にございます」


男の目がわずかに細くなる。


「中は何だ」


犬千代は腹の底が少し熱くなるのを感じた。

聞かれる。

そう言われていた。

ここで余計なことを言えば終わりだ。


「承っておりませぬ」


半分嘘だ。

本当に中身は知らない。

だが知ろうともしていない、ということも含めての言葉だった。


男は、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「そうか。ならよい」


そのまま去っていく。


犬千代は胸の内で大きく息を吐いた。

木刀を合わせるより、こういうやり取りの方がよほど変な汗をかく。


だが今のは、通った。


犬千代は歩を進める。


館の西手へ向かう廊下は、庭へ向かう時より静かだった。

人も少ない。

風の音が廊下の端を抜け、襖の向こうから誰かの低い声がかすかに聞こえる。


離れの前へ着くと、小姓が一人立っていた。


「若殿の仰せにて」


犬千代がそう告げると、小姓は犬千代ではなく箱を見た。

それから静かに頷き、中へ通す。


そこにいたのは、齢を重ねた武家の女だった。

ただの女ではない。

座しているだけで、部屋の空気がきちんと整っている。

犬千代は、その一目で相手が軽い身分ではないと悟った。


犬千代は深く頭を下げた。


「若殿より、こちらをお届けするよう仰せつかりました」


女は犬千代を見た。

その視線は鋭いが、信長のような探り方とは少し違う。

もっと静かに、全体を量る目だ。


「……荒子の犬千代か」


犬千代の胸が一つ鳴る。

ここでも、自分はもう“荒子の犬千代”として知られている。


「はい」


女は差し出された箱を受け取る前に、犬千代の持ち方をちらりと見た。


「落とさず持ってきたか」


「はい」


「走らなかったか」


「はい」


「中を見たか」


「見ておりませぬ」


女の口元が、ほんのわずかに和らいだ。


「そうか。ならよい」


そこで初めて箱を受け取る。


犬千代は、その瞬間にようやく自分の肩から一つ重みが降りた気がした。


用は果たした。

木刀も振るわず、誰も打たず、打たれもせず。

それなのに、妙に疲れた。


女は犬千代を見て、静かに言った。


「若殿は、面白い試し方をなさる」


犬千代は返す言葉に詰まった。

試しだったのか。

いや、そうだろうとは思っていた。

だが他人の口から言われると、改めて胸に落ちる。


女は続ける。


「武で前へ出たがる者に、まず“口を閉じて用を果たせ”とお命じになるのは、あの方らしい」


犬千代は思わず少しだけ顔を上げた。


女の目は冷たくない。

むしろ、どこか面白がってすらいる。


「犬千代」


「は」


「人の上に立つ者も、前へ出る者も、刀だけで用を果たすわけではない」


その言葉は、犬千代にとって新しい重さを持っていた。


「速く走るより、間に合うように着くこと。

 聞かれたからといって、何でも言わぬこと。

 役目が小さく見えても、軽んじぬこと。

 そういうものを、若殿は見ておられるのだろう」


犬千代は深く頭を下げた。


「……はい」


女はそこで、ようやく少しだけ柔らかな声になった。


「戻ってよい。若殿に“確かに届いた”と伝えよ」


犬千代は礼をし、離れを辞した。


戻る廊下で、胸の中が少しずつ整理されていく。


使える小倅。

何に使われるかを知ること。

庭の外でも見られる。

刀だけで用を果たすわけではない。


全部が、一本の線で繋がり始めていた。


若殿は、自分をただ木刀の庭に立たせて見ているのではない。

その外でも、どう用を果たすかを見ている。


庭の声。

場の見方。

黙るべきところで黙れるか。

運ぶべきものを、余計なことをせずに運べるか。


武だけではない。


それは犬千代にはまだ難しく、だがひどく面白い世界に思えた。


信長のもとへ戻り、広間の前で膝をつく。


「戻りました」


「うむ」


「確かに、お届けいたしました」


信長は犬千代を見た。


「途中で箱は軽くならなかったか」


犬千代は一瞬だけ目を見開いた。

からかいだ。

いや、ただのからかいではない。

中を見ていないか、口を滑らせていないかを最後にもう一度、軽く突いている。


犬千代は腹の中で少しだけ笑いそうになりながら答えた。


「重さは変わりませなんだ」


信長の口元が、ふっと歪む。


「そうか」


その短い返しだけで、犬千代には十分だった。

通った。

そう思えた。


信長は、それ以上は深く褒めも叱りもせず、ただ言った。


「今日はもうよい」


「は」


「庭だけが那古野ではない。忘れるな」


「はっ」


犬千代は深く頭を下げた。


広間を辞したあと、廊下の角で佐脇とすれ違った。


佐脇は犬千代の顔を見るなり、少しだけ眉を上げる。


「今日は庭に出ていなかったな」


「別の用を命じられた」


「ほう」


それだけ言って通り過ぎかけたが、足を止めた。


「どんな顔で戻ってきたかと思えば、妙に静かだな」


犬千代は少しだけ考えて、それから言った。


「……木刀を振るうより、腹が減った」


佐脇が一瞬だけ呆け、次いで小さく笑った。


「なるほど。少しは分かってきたらしい」


犬千代はそれに言い返さなかった。

言い返すより先に、自分でも本当にそうかもしれぬと思ったからだ。

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