第13話 声をかけられる側へ
「今日は庭に出ていなかったな」
佐脇にそう言われた時、犬千代は一瞬だけ、何と返すべきか迷った。
前なら迷わなかっただろう。
命じられた用だ、若殿の仰せだ、それだけを鼻息荒く言っていたかもしれぬ。
けれど今は、そういう言い方がどれほど浅いかも少し分かっている。
若殿が何を見ているか。
庭の外で何を試したか。
それを、自分の口で軽くしてしまうのは違う気がした。
だから犬千代は、少しだけ考えてから答えた。
「別の用を命じられた」
佐脇はそれ以上すぐには聞かなかった。
ただ、犬千代の顔を少し長く見ていた。
「ほう」
その一言は、興味の色を含んでいた。
からかいでも、棘でもない。
“庭に立たぬ日にも、こいつは何かをさせられていた”――その事実を、佐脇はそのまま受け取ったのだろう。
それが犬千代には少しだけ嬉しく、同時に腹の奥をむず痒くもした。
「妙に静かだな」
佐脇が続ける。
「……木刀を振るうより、腹が減った」
そう返すと、佐脇は小さく笑った。
「なるほど。少しは分かってきたらしい」
犬千代はその時、珍しく言い返さなかった。
分かってきた。
たしかに、そうなのだろう。
木刀を振るう時の疲れは、腕や肩に来る。
打ち合いの最中は胸も熱くなり、勝ち負けで腹が煮える。
だが、今日のような用は違った。
歩き方。
返し方。
言わぬこと。
慌てぬこと。
それらを崩さぬようにし続ける疲れは、腹の奥にじわじわ溜まる。
その違いを、犬千代は初めて自分の身で知った。
佐脇はそれ以上何も言わずに去っていった。
だが、その後ろ姿を見送りながら、犬千代はひとつだけ思った。
那古野の庭でやり合う者は、庭の外でもこちらを見ている。
しかも、ただ木刀の強い弱いだけではなく、どう動き、どう戻ってくるかまで。
見られている。
それはもう、若殿だけではない。
その夜、荒子へ戻った犬千代は、夕餉のあともすぐには眠らなかった。
縁側へ出て、春の夜気に当たる。
昼はあれほど人と気配があった那古野から戻ると、荒子の静けさはむしろ深く感じられる。
虫の声。
遠くの水の音。
誰かが戸を閉める小さな響き。
その静けさの中で、今日のことを思い返した。
箱の重み。
廊下で問われた時の腹の冷え。
離れの女の目。
そして、若殿の「庭だけが那古野ではない」という一言。
庭だけが那古野ではない。
ならば逆に言えば、庭もまた那古野の一部なのだろう。
武だけでは足りぬ。
だが、武がなくてよいわけでもない。
庭での一手と、庭の外での一言や一歩が、どこかでつながっている。
犬千代は膝を抱えるように座り、夜気を吸った。
若殿は、どこまで見ているのだろう。
荷車の前で泥だらけの自分を見つけた時から、那古野の庭で負けた時の顔も、勝ち切れぬ悔しさも、組んだ時の声も、今日の運び方も。
何もかもを、少しずつ別のものとして見ている気がした。
「難しい顔をしておるな」
又兵衛だった。
犬千代は顔を上げる。
「難しいことを考えてる」
「お前がか」
「最近そればっかりだな」
「最近は本当に考えておるからな」
又兵衛はそう言って、犬千代の隣へ腰を下ろした。
「今日は、どうだった」
犬千代は少し考えた。
「武じゃない用だった」
「ほう」
「箱を運んだ」
「それで」
「それだけだ」
又兵衛は黙って先を待つ。
犬千代は、しばらく言葉を探してから続けた。
「それだけなのに、庭で木刀を振るう時と違う疲れ方をした」
又兵衛の目が、ほんの少しだけ細くなる。
「どう違う」
「ずっと見られてる感じがした。腕じゃなくて、腹の中まで」
「そうか」
「木刀を振るう時は、前へ出るか出ないか、取るか取られるかだ。けど今日は、何も起こさずに終える方が難しかった」
又兵衛はそこで、小さく笑った。
「ようやく知ったか」
犬千代は少しむっとする。
「何だ、その言い方は」
「武家の用とは、そういうものだ。何も起こさぬように運び、何も崩さぬように届かせる。それでいて、肝心な時には迷わず動く」
又兵衛は夜の庭を見ながら言った。
「目立つ働きばかりが役目ではない。むしろ、目立たぬままきちんと果たされる用の方が、家中では重かったりもする」
犬千代はその言葉を、胸の奥で何度か転がした。
目立たぬまま、きちんと果たす。
それは、自分が今まで一番苦手としてきたことかもしれぬ。
喧嘩でも、言葉でも、いつも前へ前へと出たがる。
見つけられたい。
覚えられたい。
そういう飢えが、犬千代にはあまりにも強かった。
だが、若殿の近くでは、それだけでは足りぬ。
又兵衛がふと犬千代を見た。
「怖くなったか」
犬千代は一瞬だけ黙る。
それから、正直に答えた。
「……少しだけ」
「何がだ」
「若殿の近くへ行けば行くほど、やることが増える」
又兵衛は鼻を鳴らした。
「それは怖いのではなく、重みが見えてきただけだ」
犬千代はその言葉に、少しだけ救われる気がした。
怖い。
だが逃げたいわけではない。
ただ、今までより重いものを見始めているだけなのだ。
「なら、いい」
犬千代がそう言うと、又兵衛は笑った。
「何がいいのだ」
「重いなら、持てるようになるしかねえ」
その返しに、又兵衛は何も言わず、ただ少しだけ目を細めた。
数日後、犬千代が再び那古野へ上がると、これまでと少しだけ違うことが起きた。
控えの間へ向かう途中、廊下の角で小姓に呼び止められたのだ。
「犬千代」
犬千代は足を止める。
呼んだのは、前に廊下ですれ違ったことのある小姓頭格の男だった。年は若くはない。だが老いてもいない。目がよく利き、物の言い方に余計な揺れがない。
「は」
犬千代が頭を下げると、男は短く問うた。
「お前、字はどこまで読める」
犬千代は一瞬だけ目を瞬いた。
「多くはありませぬ。習ってはおりますが、まだ遅うございます」
男は頷く。
「よい。読めぬなら、読めぬとすぐ言えるのはよい」
犬千代の胸が、わずかに鳴る。
またそれだ。
見えぬことを見えぬと言う。
知らぬことを知らぬと言う。
分からぬのに分かった顔をするな。
若殿の近くでは、それが大事なのだと何度も突きつけられる。
男は続ける。
「後で、庭へ出る前に一つ用があるかもしれぬ。呼ばれたら来い」
「は」
それだけで男は去っていく。
犬千代は、呼び止められたその事実に、しばしその場で固まりそうになった。
声をかけられた。
自分から聞きに行ったのではない。
若殿に直々というわけでもない。
それでも、那古野の中で、用があるかもしれぬと“声をかけられる側”になったのだ。
荒子での四男坊。
若殿に面白がられた小倅。
使える小倅。
そこへまた、少し違う何かが加わる気がした。
控えの間に入ると、佐脇がすでにいた。
犬千代の顔を見るなり、佐脇は言う。
「何だ、その顔は」
「どんな顔だ」
「呼ばれた犬みたいな顔だ」
犬千代はむっとしたが、すぐに思い返す。
また犬か。
だが今は噛みつくより先に言葉を返せる。
「呼ばれたんだ」
佐脇の眉が上がる。
「ほう」
「小姓頭に」
「庭の前にか」
「たぶん」
佐脇は少しだけ口元を緩めた。
「それはよい」
「何がだ」
「声をかけられるのは、それだけで一つの見られ方だ」
犬千代は、佐脇にまで似たようなことを言われたので、少しだけ可笑しくなった。
皆、似たような目で見ている。
自分が今どこにいて、何が変わりつつあるのかを。
佐脇は壁へ背を預けたまま続ける。
「だが、そこで浮つくなよ」
犬千代は鼻を鳴らす。
「浮ついてねえ」
「今、少し浮ついた」
「少しだけだ」
「それを浮ついておると言う」
そのやり取りに、二人ともほんの少しだけ笑った。
以前なら、佐脇とこんなやり取りをするとは思っていなかった。
気に食わぬわけではない。
だが、楽に話せる相手でもなかった。
今は違う。
庭で打ち合い、言葉を交わし、互いに見たことの積み重ねが、ほんの薄い線を作り始めている。
やがて本当に呼びがかかった。
庭へ出る前に、犬千代は小姓頭の男に別室へ通された。
部屋の中には、帳面と短い書付がいくつか置かれている。
男はそれらを手早くまとめながら言った。
「難しいことではない。庭へ出る前に、これを庭番へ渡せ」
犬千代は差し出された細長い紙を受け取る。
「渡すだけでよい」
「は」
「だが、渡す相手を違えるな。途中で誰かに聞かれても開くな。もし庭番がいなければ、誰に預けるべきか、よく見て決めろ」
犬千代の胸が、また少しだけ熱くなる。
前の箱ほど重くはない。
だが、やっていることの芯は同じだ。
ただ運ぶだけに見えて、見られている。
間違えぬか。
慌てぬか。
誰へ渡すべきかを見分けられるか。
男は犬千代の目を見て言った。
「庭で立てる者は多い。だが、庭へ出る前に人と物の流れを乱さぬ者は少ない」
その言葉は、犬千代にとってまた新しい響きだった。
人と物の流れ。
ただ自分が前へ出るだけではない。
周りの流れを乱さぬことも、若殿のもとでは役目になる。
犬千代は深く頷いた。
「心得ました」
紙を懐に入れ、部屋を出る。
廊下を歩きながら、犬千代は自分の歩幅が自然と一定になっていることに気づいた。
急がぬ。
だが遅れぬ。
見る。
誰がどこで何をしているか。
庭番らしい者は誰か。
やがて庭へ出る手前で、道具を整え、木刀や杭の具合を見ている男が目に入った。
年は四十に届くかどうか。派手ではないが、庭全体の気を一本で束ねているような男だ。
この人だ。
犬千代はそう思い、近づいて紙を差し出した。
「お預かりしたものにございます」
男は犬千代を一瞥し、紙を受け取る。
封の形を見ただけで、中を確かめもせず懐へ入れた。
「若殿のところの小倅か」
犬千代の胸が少しだけ鳴る。
「荒子の犬千代にございます」
男はふっと鼻を鳴らす。
「名乗りは悪くない」
それだけ言うと、もう庭の方へ目を戻した。
用は済んだのだろう。
だが、その“用が済んだ”という感覚が、犬千代にはどこか嬉しかった。
余計なことは聞かれず、余計なことは言わず、渡すべきところへ渡した。
ただそれだけ。
だが、その“ただそれだけ”が、那古野では意味を持つ。
庭へ入ると、今日は河尻が先に来ていた。
河尻は犬千代を見るなり、前ほど露骨な棘は見せずに言った。
「遅かったな」
犬千代は少しだけ肩をすくめる。
「別の用だ」
河尻の目が一瞬だけ細くなる。
「……またか」
その声には、前のような苛立ちだけではなく、少し別の色が混じっていた。
気に食わぬ。
だが、若殿が犬千代へそういう用を回していること自体は無視できない。
そんな色だ。
犬千代は河尻を見返した。
「何だ」
河尻は少しだけ間を置いてから言った。
「庭に出る前に用を果たしてくる顔になっていた」
犬千代は一瞬だけ目を見開き、それから口の端をわずかに上げた。
「お前、よく見てんな」
河尻は鼻を鳴らす。
「見たくなくても目に入る」
その返しに、犬千代はなぜか腹が立たなかった。
見たくなくても目に入る。
それは、前よりずっと良い言葉に思えた。




