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うつけ者と笑われた若き前田利家、槍働きと義理人情で織田家を駆け上がり、やがて百万石の祖となる  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第11話 噛み合わぬ刃、繋がる一手

河尻が「分かっている!」と吐き捨てた声は、庭の空気をぴり、と細く裂いた。


犬千代はその棘を真正面から受けたが、言い返しはしなかった。

今ここで噛みつけば、若殿の前で組を崩すだけだ。

それくらいのことは、もう分かる。


だが、分かることと腹が立たぬことは別だった。


河尻与一郎。

気に食わぬ。

物の言い方も、目つきも、最初からこちらを下へ置こうとするあの冷たさも、何もかもが癪に障る。


向こうも同じだろう。

荒子から来た小倅が若殿の目に留まり、庭へ通っている。しかも今、こうして自分と組まされている。

それが気に入るはずがない。


だが、その気に食わなさを抱えたままでも、勝負は続く。


一つずつ。

こちらも相手も一つ。


次の一手が重い。


信長は縁側で何も言わず、ただ見ている。

その「ただ見ている」が、かえって犬千代の背を押した。

若殿は、この噛み合わぬ二人がどう動くかも含めて見ているのだ。


佐脇が木刀を構え直す。

その横には、年長の若者。名はまだ知らぬが、足の運びも目の配り方も、やはり犬千代たちより一枚上だ。


河尻が低く言った。


「次は私が前へ出る」


犬千代は横目で河尻を見た。


「また出すぎるなよ」


河尻のこめかみがぴくりと動く。


「お前は口を出すな」


「出さなきゃ、また脇が空く」


一瞬、河尻が本気で木刀をこちらへ向けそうな気配になった。

だが、それをぐっと飲み込む。


そこだけは、犬千代も少し見直した。

こいつもただの坊ちゃんではない。腹は立てている。だが、今ここで勝負を壊せば自分が損だと分かっている。


河尻は低く、押し殺すように言った。


「なら、お前は後ろで見ていろ」


「見てるだけなら来てねえ」


「……面倒な奴だな」


その言葉に、犬千代はほんの少しだけ口の端を上げた。

それはお互い様だ、と思った。


「始めよ」


声が落ちる。


今度は河尻が慎重に入った。

さっきの失点が効いているのだろう。押し込みすぎない。だが引きすぎもしない。

犬千代は半歩後ろで、河尻の肩と、佐脇の目と、年長の若者の足を同時に見ようとした。


難しい。


一人見るだけでも大変だったのに、今は三人の流れの中で自分の出るところを探さねばならぬ。

それでも、ほんの少しだけ分かることがある。


河尻は、自分から仕掛ける時は鋭い。

だが、相手に一拍ずらされると、そこで腹が立つのか気が前へ走る。

佐脇はそれを見ている。

しかも、明らかに誘っている。


佐脇が一歩引く。

河尻が詰める。

その瞬間、犬千代の胸の中で何かが弾けた。


「右!」


思わず声が出る。


河尻が反応したのは、ほとんど同時だった。

右――正確には、年長の若者が佐脇の動きに合わせて右から入ってくる、その気配を犬千代は見たのだ。


河尻が咄嗟に体を切る。

年長の若者の木刀が空を打つ。


佐脇の目がほんのわずかに動いた。


その瞬間、河尻が返した。


さっきまで佐脇を追っていた木刀ではない。

今度は、横から入ろうとした年長の若者の肩口へ鋭く払う。


「二つ」


信長の声。


一瞬、庭が静まり返った。


勝った。


河尻と犬千代の組が、取ったのだ。


河尻は木刀を下ろし、荒い息を吐いた。

犬千代の胸も熱く鳴っていた。


今のは、自分の声が通した一手だ。

河尻がそれに乗った。

気に食わぬ相手と、ほんの一瞬だけ噛み合った。


それが、思っていた以上に奇妙な感触だった。


信長が顎を少し上げる。


「河尻」


「は」


「今のはどう取った」


河尻は呼吸を整えながら答えた。


「佐脇殿が私を引いたところへ、横から重ねてくる気配がありました」


信長の目が細くなる。


「自分で見たか」


河尻は一瞬だけ黙った。

庭の空気がまた張る。


犬千代は横で息を詰めた。

ここで河尻がどう答えるかで、少し変わる。


やがて河尻は、低く言った。


「……犬千代の声で、気づきました」


ほんの小さな沈黙。


そして次の瞬間、信長の口元がふっと歪む。


「そうか」


それだけだった。

だが、その「そうか」は軽くなかった。


河尻は面白くなさそうな顔をしている。

そりゃそうだろう。自分の手柄を自分一人のものとして言い切れなかったのだから。

だが、嘘はつかなかった。

そこだけは犬千代も認めざるを得ない。


信長は今度は犬千代を見る。


「犬千代」


「は」


「今のは、なぜ見えた」


犬千代はすぐには答えなかった。

なぜ見えた。

ただ何となくではない。そう答えれば、次に繋がらない。


犬千代は自分の目の動きを思い返した。


河尻。

佐脇。

年長の若者。

三人の足と肩と木刀の線。


「……佐脇が、河尻を少しずつ前へ引いておりました」


信長は頷かない。

ただ聞いている。


犬千代は続けた。


「それで、河尻が前ばかり見ていたら、横から重ねるつもりだと思いました。前に似たような形で俺が取られたので」


言ってから、自分でも少し驚いた。

前に似たような形で取られたから。

那古野での負けが、そのまま今の手になっている。


信長の目が、ほんのわずかに和らぐ。


「負けを使ったか」


犬千代の胸が熱くなる。


それは、自分でやりたかったことだった。

負けて終わるのではない。

噛みしめて、次に使う。

さっき若殿に言われた通りに。


「は」


短く返すと、信長は笑った。


「悪くない」


その一言で、犬千代は腹の底がじんとするのを感じた。


悪くない。

若殿がそう言った。

しかも今度は、ただ面白いとか、悔しがり方がよいとかではない。

戦いの中の一手に対して言った。


それが何より嬉しかった。


河尻が横目で犬千代を見る。

その目にはまだ棘がある。

だが、さっきまでとは少し違う。


値踏みだけではない。

認めたくないが認めざるを得ぬ、という色が混じっていた。


「次」


信長は容赦なく続けた。


今度は組を入れ替えず、同じままもう一番やらせるらしい。


犬千代の胸がまた高鳴る。

同じ組で、もう一度。


つまり、さっきの一手が偶然かどうか、すぐに見られるということだ。


河尻が低く言った。


「今度は、お前が声を出す前に見る」


犬千代は少しだけ笑った。


「見えるなら、それでいい」


「だが、お前も遅れるな」


思わぬ言葉だった。


犬千代は一瞬だけ河尻を見た。

河尻は前を見たままだ。

こちらを見もしない。


けれど、その一言だけで十分だった。

今この場では、少なくとも組なのだ。


「分かった」


犬千代も短く返す。


二人の間に、妙なものが生まれていた。

仲良くなったわけではない。

気が合うわけでもない。

だが、庭の中では同じ勝ちを取りにいく、そのための線が一本だけ通った。


二度目の組み手は、さっきより激しかった。


佐脇も年長の若者も、今度は最初から犬千代たちを“組として”見てくる。

河尻だけを引けば犬千代が声を出す。

犬千代ばかり見れば河尻が前へ出る。

その嫌らしさを、相手もすぐに掴んだのだろう。


木刀が何度もぶつかる。

狭い場の中で四人がずれ、詰まり、ほどけ、また寄る。


犬千代は何度も危うく場を失いかけた。

だが今度は河尻が短く言う。


「左へ寄るな」


「分かってる」


「分かっておらぬから言う!」


腹が立つ。

だがその通りだった。

犬千代はすぐ修正する。


逆に、河尻が前へ出すぎかけた時は犬千代が言う。


「今、深い!」


河尻が舌打ちしつつも踏みとどまる。


そんなやり取りが、いつの間にか自然に出始めていた。


そして、三度目のぶつかり合いの時だった。


佐脇が明らかに犬千代へ意識を寄せた。

犬千代の声と目を封じれば、この組は崩れる。そう読んだのだろう。


犬千代は、その視線を感じた瞬間に背筋が熱くなった。


見られている。

狙われている。

それはつまり、そこを要だと見られたということでもある。


怖い。

だが嬉しい。

そんな感情が一瞬で胸を駆ける。


佐脇が来る。


犬千代は受けるふりをして、ほんの少しだけ引いた。

前へ出たい足を抑え、相手が届くぎりぎりで待つ。


そこへ河尻が横から入る。


佐脇がすぐに切り返す。

だが、その切り返しの線はさっき犬千代が引かせた。


「そこだ!」


犬千代の声と同時に、河尻の木刀が伸びる。


「一つ」


信長の声。


今度は完全に、組として取った一手だった。


庭の空気が動く。

さっきよりも明らかに。


河尻が息を吐く。

犬千代も肩で息をしながら、木刀を握り直した。


まだ終わっていない。

だが今ので分かる。


自分はもう、ただ一人で噛みつく小倅ではない。

庭の中で、相手の流れを見て、声を入れ、場を動かせるようになり始めている。


それが、たまらなく熱かった。


だが那古野は甘くない。


次の瞬間、年長の若者が一気に間合いを詰め、河尻の木刀を押し上げた。

河尻が崩れる。

犬千代が入ろうとした、その足を佐脇がぴたりと止める。


しまった。


犬千代の木刀は間に合わない。


「一つ」


今度は相手に入る。


同点。


犬千代は、ぎり、と歯を鳴らした。


ほんの少し噛み合ったと思えば、すぐに取り返される。

これが那古野だ。

一つ覚えたくらいでは、相手もすぐその先を出してくる。


それでも、前よりは見えている。

前よりは、やれることがある。


信長の目は、その全部を見ていた。


やがて勝負はそこで止められた。

決着はつかなかったが、もう十分見たということなのだろう。


信長が立ち上がる。


「よい」


庭が静まる。


信長の視線が、まず河尻へ向く。


「河尻」


「は」


「お前は前へ出る力がある。だが、一人で勝ちたがる」


河尻の顔がわずかに固くなる。


「組でやるなら、勝ちを分けろ。独り占めにするな」


「……は」


次に、信長の目が犬千代へ向いた。


犬千代は背筋を伸ばす。


「犬千代」


「は」


「お前はようやく、庭の中で自分の役を持ち始めた」


胸が鳴る。


役。


面白い小倅でも、荒子の四男坊でもなく、庭の中での役。


信長は続ける。


「前へ出るだけではなく、見て、言って、通す。それは武だけではない。人の中でも同じだ」


その言葉は、犬千代の胸の奥へ深く落ちた。


人の中でも同じ。


それはつまり、これから那古野で生きていくうえでの話でもあるのだろう。

庭だけではない。

人の流れの中でも、自分は何を見るのか。何を通すのか。どこで前へ出るのか。


信長はそこで、ほんの少し口元を緩めた。


「ようやく“使える小倅”になってきたな」


庭の何人かが、わずかに息を呑んだ。


犬千代自身、胸の奥がどくんと強く鳴った。


使える小倅。


まだ小倅だ。

だが、“使える”と言われた。

若殿に。


それは、今の犬千代には何より重い褒美だった。


河尻が横で少しだけ顔をしかめた。

悔しいのだろう。

だが、その顔の奥にある感情は、最初の棘だけではなくなっていた。


犬千代は深く頭を下げる。


「はっ」


声は短かった。

けれど、胸の中では何度もその言葉が響いていた。


使える小倅。

まだそこまでだ。

だが、そこまでには来た。


今日はここまでだと信長が告げ、庭はゆっくり解けていく。


河尻は去り際、犬千代の横で足を止めた。


「……次は、もっとましにやれ」


言い方は相変わらずだ。

だが最初の棘だけの声ではない。


犬千代も負けじと返す。


「そっちもな」


河尻は鼻を鳴らし、そのまま去っていった。


佐脇がその背を見送りながら、犬千代に小さく言う。


「面倒が一人増えたな」


犬千代は思わず笑った。


「お前が言うな」


「俺は最初から面倒だと思っていた」


「知ってる」


佐脇は、ほんの少しだけ口元を上げた。


「だが、前より使いやすくなった」


その言葉に、犬千代の胸がまた熱くなる。

佐脇のような者にそう言われるのも、悔しいようで嬉しい。


又兵衛が近づいてきた時、犬千代は珍しく自分から言った。


「聞いたか」


「何をだ」


「使える小倅だと」


又兵衛は一瞬だけ黙り、次いで苦笑した。


「そこだけ切り取るな」


「でも言われた」


「言われたな」


「若殿が言った」


「言ったな」


犬千代は、そこでようやくにやけるのを止められなかった。


負けても悔しい。

足りぬところはいくらでもある。

だが、それでも今日はちゃんと前へ進んだ。


半歩ではなく、もう少し。

まだ一人前には遠いが、それでも前より確かに。


那古野の空は高かった。

荒子と同じ空なのに、ここではもっと遠くへ続いて見える。


犬千代はその空を見上げ、胸の内で静かに思った。


まだ行ける。

もっと前へ出られる。

そしていつか、この“使える小倅”では足りなくなるところまで。

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