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うつけ者と笑われた若き前田利家、槍働きと義理人情で織田家を駆け上がり、やがて百万石の祖となる  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第10話 那古野で向けられる棘

次に那古野へ上がる朝、犬千代は目が覚めた瞬間から胸の奥が熱かった。


前の二度とは少し違う熱である。

初めて呼ばれた時の、ただ嬉しくてじっとしていられぬ熱。

二度目に通う時の、見られた後だからこそ怖い熱。

それらとは違う。


今度は、待っているものが少しだけ見えている熱だ。


那古野の庭。

杭で区切られた場。

木刀の音。

若殿の目。

佐脇の鋭い視線。

あの年嵩の若侍の、音もなく喉元へ届いた木刀。

そして、庭の外でも自分を見始めた者たちの気配。


怖さがなくなったわけではない。

むしろ、前より中身のある怖さになった。

だがその分、犬千代の中の何かも、前より少しだけ芯を持ち始めている。


布団を抜け出し、まだ薄暗い庭へ出る。

空気はひやりとして、草には露が残っていた。


犬千代は川原へ行く前に、まず縁先で足を止めた。

木刀は持たない。槍も持たない。

ただ立つ。


左右の足の開き。

重心。

肩の高さ。

目線。


足が喋るな。

その次は、目が騒ぐ。


名も告げぬあの武士に言われた言葉が、まだ腹の中に残っていた。

足を抑えたつもりでも、目が先に飛びつけば意味がない。

取れそうだ。打てそうだ。そこだ。

そういう内側の騒ぎは、結局ぜんぶ外へ漏れるのだろう。


犬千代は息を吐いた。


立つ。

見る。

だが食いつきすぎない。

ただ、相手の全部を呑み込むように見る。


それは木刀を振るうより難しかった。

前へ出るのを抑える方が、殴りかかるよりずっと難しい。

だが今の犬千代には、それが必要だと分かる。


「起きておったか」


又兵衛の声がした。


振り返ると、いつものように寝起きとは思えぬ顔で立っている。

犬千代は素直に頷いた。


「寝てられねえ」


「だろうな」


又兵衛は縁先の柱にもたれ、しばらく犬千代の立つ姿を見ていた。


「……少し、変わったな」


犬千代は眉を寄せる。


「また“少し”か」


「大きく変わったと言うと、お前はすぐ天井まで伸びる」


「伸びねえ」


「伸びる」


又兵衛はきっぱり言い切った。


犬千代は少しだけむくれたが、すぐ真顔に戻る。


「何が変わった」


「前は待つ時に、待つ顔ができなかった」


「待つ顔?」


「そうだ。前へ出られぬ時でも、顔だけ先に飛び出しておった」


犬千代は少しだけ考えた。

確かにそうかもしれぬ。

喧嘩をする前も、怒る前も、面白くない時も、自分の顔はすぐに全部を喋っていた気がする。


「今は?」


「まだ喋る。だが前よりは、腹の中に置けるようになった」


犬千代は、ほんの少しだけ胸が温かくなるのを感じた。

又兵衛にそう言われるのは、何だかんだで嬉しい。

子どもの頃からずっと見てきた男が、自分の変わり目を見ているのだ。


「今日は、もっと見せる」


犬千代が言うと、又兵衛は鼻を鳴らした。


「そうやって最初から肩に力を入れるな」


「入ってねえ」


「入っておる」


「少しだけだ」


「それを入っておると言う」


二人のやり取りはいつも通りだった。

だが犬千代の胸は、その“いつも通り”に少し救われてもいた。

那古野へ行くたび、自分は少しずつ変わっていく。

けれど、荒子へ戻れば又兵衛がいる。

そこが根だと思えるから、外へ出ていける。


支度を終え、那古野へ向かう。


道中、犬千代は前ほどきょろきょろはしなかった。

見ぬわけではない。

だが、見ることと騒ぐことは違うと、ようやく少し分かり始めていた。


那古野の城下へ入ると、やはり空気が変わる。

人の多さ。

匂いの多さ。

声の重なり。

それでも、前ほど呑まれはしない。

胸は熱くなるが、その熱を顔へそのまま出さぬくらいのことは覚えた。


館へ入り、控えの間へ通される。


障子の向こうを人が行き交う気配。

控えの間に置かれた香の淡い匂い。

遠くで打ち合いの木が響くような、空耳のような記憶。


犬千代は膝に手を置き、静かに座っていた。

だが、その静けさの中で、心はじっと耳を澄ませている。


やがて呼びがかかる。


庭へ出ると、すでに若者たちが何人か集まっていた。

前回顔を合わせた者もいる。

見ぬ顔もいる。

その中で、いくつかの視線がはっきり犬千代へ刺さった。


前より露骨だ。


値踏み。

興味。

面白くなさ。

そして、はっきり棘のある目。


犬千代は、その棘の主をすぐ見つけた。


一人の若者だ。

犬千代より少し年上。背は高く、鼻筋が通っていて、いかにも家の良さそうな顔立ちをしている。着ているものの整え方も、立ち姿も乱れがない。

だが、その整い方が、かえって犬千代には冷たく見えた。


若者は犬千代を見るなり、隠しもせずに言った。


「なるほど。これが荒子の小倅か」


声は大きくない。

だが周囲に十分聞こえる調子だった。


庭の空気が、ほんの少しだけ止まる。


犬千代は相手を見返した。

喧嘩腰になるな。

庭の外でも見られる。

そう自分へ言い聞かせる。


「そうだ」


短く返す。

それで終えればよかったのかもしれぬ。

だが若者は終えなかった。


「若殿も、珍しいものを拾われたものだ」


棘がある。

いや、棘というより、薄く笑いながらこちらを値踏みし、最初から下へ置こうとする声だ。


犬千代の胸の奥で、昔の火がぼっと顔を出しかけた。

荒子の川原なら、もう飛びかかっていた。

だがここは那古野だ。


犬千代は一歩も動かずに言った。


「拾われたんじゃねえ。見つけられたんだ」


若者の眉が、わずかに動く。


周囲の何人かが小さく息を呑んだ。

那古野の庭で、そこまで言うか。

そういう空気だった。


だが犬千代はもう口にしていた。

しかも、言ってから後悔するより先に、自分の腹にその言葉がすとんと収まるのを感じた。


拾われたのではない。

見つけられた。

それは傲りかもしれぬ。

けれど、荷車の前で、泥だらけの自分を見たのは確かに若殿だ。

その事実にだけは、妙な誇りがあった。


若者の口元が冷たく歪む。


「口は達者らしい」


「お前ほどじゃねえ」


犬千代が返した時、庭の端で佐脇が小さく鼻で笑ったのが見えた。

それで少しだけ、犬千代の気が楽になる。


だが、気の合わぬ若者は笑わなかった。


「名を聞こうか」


「犬千代」


「子どもの名だな」


その言い方は、明らかな見下しだった。


犬千代の喉の奥が熱くなる。

だが、熱くなった瞬間に思い出す。

人物の名も呼ばれ方も、いずれ変わる。

今の自分はまだ犬千代だ。

それを恥じる必要はない。


だから、今度は少しだけ低く返した。


「今はな」


若者の目が細くなる。


「今は、か」


「お前もそういうのがあるんじゃねえのか」


ほんの少し、庭の空気が変わる。

図星を突かれたのかもしれぬ。

武家の若者は、立場や齢や働きとともに呼ばれ方が変わる。

それを知らぬはずがない。


若者は返事の代わりに、冷たく言った。


「私は織田家中の河尻与一郎だ。お前のように、どこからともなく転がり込んだ者とは違う」


ああ、と思った。


犬千代はそこでようやく、相手の棘の正体を少し理解した。


こいつは自分が気に食わぬのだ。

荒子の小倅が若殿の目に留まり、庭へ通い、あまつさえ何人かには“見込みあり”のように見られ始めていることが。


そう思うと、腹立たしさと同時に少し可笑しくもなった。

自分は何も持たぬ四男坊だと思っていた。

だが那古野では、その“何も持たぬ者が急に目に入った”こと自体が、誰かの棘になる。


半歩入った、とはこういうことか。


犬千代は河尻を見返す。


「違うな」


河尻の眉が動く。


「何がだ」


「どこからともなくじゃねえ。荒子からだ」


周囲で何人かが吹き出しそうになる気配がした。

河尻の顔がわずかに強張る。


「揚げ足を取るな」


「取ってねえ。本当のことだ」


「……本当に面倒な小倅だな」


その言葉は、なぜか少しだけ犬千代には嬉しかった。

面倒。

厄介。

そういう言葉が、那古野では“相手にせざるを得ない”に近い響きを持ち始めている。


そこへ信長が現れた。


空気がすっと引き締まる。


皆が頭を下げる中、犬千代も一歩退いて礼を取った。

信長の目は、庭をひと巡りしたあとで、河尻と犬千代の間に一瞬だけ留まった。


見ていたのか。

いや、見ていなくとも、この空気なら分かるのだろう。


信長は何も言わず、縁側へ腰を下ろす。


「今日は組でやる」


その一言に、庭の若者たちの目が動く。


信長は続ける。


「二人一組。入れ替わりで打つ。片方が前へ出ている時、片方はどこを見る。どこで助ける。どこで邪魔になる。そこを見たい」


犬千代の胸が少しざわついた。


一人で戦うのではない。

組む。

誰かと。


那古野へ来てから初めての形だった。


だが、その「誰か」が問題である。


信長は無造作に組を決めていく。

何組か名を呼んだ後、ほんの少しだけ口元を歪めて言った。


「河尻。犬千代」


庭の空気がぴんと張る。


河尻の顔が、見るからに面白くなさそうに固まった。

犬千代も一瞬だけ息を止めたが、すぐに腹の底で火がついた。


なるほど。

若殿は、面白いことをする。


河尻が進み出る。

犬千代も前へ出る。


二人の間には、明らかに柔らかさがない。

だが信長はそれを承知のうえで組ませたのだろう。


「不満か」


信長が、どちらにともなく聞く。


河尻はすぐ頭を下げた。


「いえ」


犬千代も負けじと答える。


「ありませぬ」


信長は、ふっと笑った。


「ならよい。庭では、気に食うかどうかは関係ない」


その言葉が、犬千代の腹へ落ちた。


気に食うかどうかは関係ない。

勝つために、前へ出るために、若殿に見せるために、組まされたなら組む。

そこに私情を持ち込むなということだ。


河尻も同じことを理解したのだろう。

ちらりと犬千代を見て、低く言った。


「足を引っ張るな」


犬千代は即座に返す。


「そっちこそな」


それだけで、ひとまず二人の間に奇妙な線が引かれた。

馴れ合いではない。

敵意はある。

だが今は、それを横へ置くしかない。


信長が顎をしゃくる。


「始めよ」


対する相手は、佐脇と、もう一人の年長の若者だった。


犬千代は一瞬だけほっとした。

少なくとも佐脇は、あからさまに潰しに来るだけの相手ではない。

だが、その“ほっとした”を顔へ出さぬよう、犬千代はすぐに息を整えた。


河尻が前へ出る。

犬千代は半歩後ろへ入る。


組みの勝負。

ならば、自分が一人で前へ飛び出していては駄目だ。

相手の二人を見る。

河尻の足も見る。

佐脇の目の動きも見る。


難しい。


一人を見るだけでも精一杯だったのに、今は四つの足と、四本の腕と、間合いと、場の形まで一度に見ねばならぬ。

頭が熱くなる。


河尻が佐脇へ打ちかかる。

鋭い。

気に食わぬ奴だが、腕は確かだ。

無駄がない。

ただ、その分だけ自分の形に自信があるのだろう。佐脇を押し込もうとする気配が強い。


犬千代は、もう一人の年長の若者と対するような位置へ回る。

だが、すぐには出ない。


見る。

河尻がどこで詰まり、佐脇がどこで逃がすか。


その時、佐脇がわずかに河尻を引き込みすぎた。

あれは、押しすぎると外へ流れる。


犬千代の胸が跳ねる。


今だ。


前へ出る。

半歩では足りない。

だが出すぎれば河尻とぶつかる。


犬千代はぎりぎりで斜めに入り、佐脇が返す前の線へ木刀を差し込んだ。


佐脇の目が一瞬だけ動く。


「……っ」


その隙に、河尻の木刀が肩口へ入った。


「一つ」


信長の声。


庭の空気がわずかに揺れる。


河尻が取った。

だが、それを通したのは犬千代の一手でもある。

河尻もそれは分かったようで、ほんの一瞬だけ犬千代を見た。


目が合う。


気に食わぬ。

だが今の一瞬だけは、互いに「見たな」と言い合ったに等しかった。


佐脇は木刀を引き、口の端をわずかに上げた。


「そう来たか」


その声に、犬千代の背中が熱くなる。


ただ噛みつくだけではない。

組みの中で、自分の一手が場を動かした。


それがひどく嬉しかった。


だが、その次の瞬間、今度は河尻が前へ出すぎた。


取れたことで熱くなったのだろう。

佐脇を押し切ろうとして、半歩深く入る。


犬千代の目が見開く。


深い。

戻れなくなる。


「河尻!」


思わず声が出る。

その声に河尻がわずかに反応したが、遅い。


佐脇ではなく、もう一人の年長の若者がそこへ滑り込み、空いた脇を打った。


「一つ」


今度は相手へ信長の声が落ちる。


河尻が歯を食いしばり、犬千代の方を睨みかける。

だがその睨みの奥に、ほんの一瞬だけ「見えていたのか」という色が混じった。


犬千代も睨み返したいのをこらえ、短く言う。


「前へ出すぎだ」


河尻の眉が吊り上がる。


「分かっている!」


声に棘はある。

だが返ってきた言葉は、言い争いではなく戦いの中身だった。


それだけで十分だった。


気に食わぬ相手でも、今は組む。

若殿の前で、場を作る。

それが今日の勝負だ。


犬千代は木刀を握り直した。


勝負はまだ終わっていない。

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