第9話 庭の外の眼差し
那古野の庭を下がったあとも、犬千代の胸の内は静まらなかった。
木刀を握っていた掌には、まだじんとした熱が残っている。
腕も重い。肩も痛む。
だが、それ以上に頭の中で何度も繰り返されるものがあった。
一点を取った場面。
そこから取り返された場面。
場を読まれ、戻る線を塞がれ、最後に胸元を取られたあの一瞬。
そして、信長の言葉。
――前へ出るだけでは足りぬ。
そう、言葉通りに言われたわけではない。
だが、あの庭で叩き込まれたのはまさにそれだった。
犬千代は控えの間へ戻る途中も、無意識に足の運びを確かめていた。
半歩。
四半歩。
重心の置き方。
自分がどこで場の真ん中を失い、どこで焦って前へ出すぎたのか、体で思い返している。
「おい」
不意に声をかけられ、犬千代は顔を上げた。
廊下の角に立っていたのは、先ほど庭で最初に戦った、あの目つきの鋭い若者だった。
背は高くない。
だが、立ち姿がすでに整っている。
木刀を手にしていない今でさえ、気を抜けばこちらの懐へ滑り込んできそうな気配がある。
犬千代は少しだけ身構えた。
「何だ」
若者はその返しに眉一つ動かさなかった。
「お前、名は犬千代だけか」
「……何だそれは」
「呼びにくい」
ぶっきらぼうな言い方だった。
喧嘩を売っているのかと思ったが、目はそうではない。
犬千代は少し考え、それから言った。
「今は犬千代だ」
「今は、か」
若者の目がわずかに細くなる。
犬千代も負けじと見返した。
「お前は何て呼ばれてる」
「佐脇」
「それだけか」
「今はそれで足りる」
似たような返しをされて、犬千代は少しだけ口の端を動かした。
こいつ、気に食わぬようでいて、どこか話が通じる。
佐脇は廊下の柱へ軽く背を預けた。
「お前、前よりましになった」
「……この前も似たこと言ったな」
「今日はもう少しはっきり言える」
犬千代はむず痒いような、妙な気分になった。
那古野に来てから、褒められること自体が珍しい。しかも、ただ面白いではなく、“ましになった”と中身を見て言われるのは、思った以上に腹へ響いた。
だが、それをそのまま顔へ出すのは癪だった。
「でも負けた」
「負けたな」
「それならまだ駄目だ」
佐脇はその言葉を聞いて、ほんの少しだけ笑った。
「そこは気に入った」
犬千代が眉をひそめる。
「何がだ」
「一点取ったくらいで得意にならぬところだ」
そう言われて、犬千代は一瞬だけ黙った。
得意にならぬ。
確かに、心のどこかでは熱くなっていた。取れた、届いた、と。
けれど、その直後に二つ取り返されている。そんなもので浮かれているようでは、那古野ではやっていけぬのだろう。
佐脇はそこで、少しだけ声を落とした。
「だが、ひとつだけ言っておく」
「何だ」
「お前が一点取った時、庭の外で見ていた連中の目が変わった」
犬千代の胸が、どくりと鳴る。
「……変わった?」
「ああ。荒子から来た、若殿が珍しがっているだけの小倅ではなくなった」
犬千代は喉の奥が少し熱くなるのを感じた。
それは欲しかった言葉だった。
勝つこと。
認められること。
相手として見られること。
そのどれもが、犬千代には那古野へ来る前から飢えるほど欲しかった。
佐脇は続ける。
「だから次は、もっと面倒になる」
「面倒?」
「見られるようになるというのは、そういうことだ。面白いと思う者も出る。気に入らぬと思う者も出る。若殿が目をかけるなら、なおさらだ」
犬千代はゆっくりと息を吐いた。
嬉しい話のはずなのに、同時に胃の底が少し重くなる。
那古野の庭で見られるということは、庭の外でも見られるということだ。
戦う時だけではない。歩き方も、言葉も、誰とどう交わるかも。
「……面倒だな」
思わずこぼすと、佐脇は鼻で笑った。
「今さらか」
「今さらだ」
その返しに、佐脇はまた少しだけ口元を緩めた。
「よい。お前はそのくらいでちょうどいい」
そこまで言って、佐脇はすっと体を起こした。
「次までに、足を直せ」
「足?」
「お前は上へ気が行くと、すぐに足が先走る。打ちたい気持ちが先に出る。だから、場の真ん中を失う」
犬千代の顔が引き締まる。
図星だった。
佐脇はそれだけ言い残し、廊下の向こうへ去っていく。
追いかけてもっと聞きたい気もした。
だが、今はその言葉を自分の中で噛む方が先だと思えた。
足を直せ。
犬千代は廊下に立ったまま、そっと足先を見下ろした。
又兵衛とともに荒子へ戻る道中、犬千代は前回とは違う静けさで黙っていた。
ただ、前回の静けさが「もっと強くなりたい」という熱だけで満ちていたのに対し、今日はそこへ別のものが混じっている。
見られる。
庭の外でも。
一点取ったことで、目が変わった。
次はもっと面倒になる。
嬉しい。
だが、少し怖い。
そして、その怖さを口にするのはまだ悔しい。
又兵衛は横でそんな犬千代の様子を見ていたが、あえてすぐには何も言わなかった。
荒子を出て那古野へ通い始めてから、犬千代の中で何かが変わり始めている。
以前なら悔しければすぐ顔に出し、腹が立てばその場で爆ぜていた。
今は、飲み込むことを覚えつつある。飲み込んで、腹の中で熱に変えることを。
やがて犬千代の方から口を開いた。
「又兵衛」
「何だ」
「俺、見られてるらしい」
又兵衛は少しだけ目を細める。
「庭でか」
「庭だけじゃねえ。庭の外でもだ」
それだけで、又兵衛にはだいたい事情が知れた。
「誰かに言われたか」
「佐脇ってやつだ」
「ほう」
「庭の連中の目が変わったって」
又兵衛は小さく息を吐いた。
「ならば、本当に変わったのだろうな」
犬千代は少しだけ不満そうに言う。
「何だよ、その言い方は」
「お前が自分で感じたことより、他人にそう言われたことの方を真面目に受け取っておる顔だったからだ」
図星だった。
犬千代は口を尖らせる。
「……別に」
「よいではないか。自分で勝手に思い上がるより、誰かに見たままを言われる方がよほどよい」
又兵衛は少し歩を緩めた。
「だが、これでお前は本当に“通う者”になった」
「何が違う」
「ただ若殿に珍しがられた小倅なら、面白かったで終わる。だが、那古野の若い者たちが目を変えたのなら、お前はその中へ半歩入ったということだ」
半歩。
犬千代は、その言葉に妙な実感を覚えた。
まだ一人前ではない。
まだ内輪でもない。
だが、門の外で眺めるだけの者でもなくなった。
半歩だけ、入った。
それがたまらなく嬉しく、同時に腹の据わらぬような怖さもあった。
「半歩か」
「そうだ。半歩だ」
又兵衛はきっぱりと言った。
「一歩入ったと思うなよ。そこを取り違えると、すぐに足を掬われる」
犬千代は頷いた。
「……分かってる」
その返事が妙に素直だったので、又兵衛は少しだけ笑った。
荒子へ戻ると、屋敷の中にはいつも通りの空気があった。
台所からは煮炊きの匂いが漂い、厩では馬が鳴き、庭では下男が掃き清めている。
なのに、犬千代の目には少し違って見えた。
荒子は小さい。
だが、その小ささを以前のように息苦しいとだけは感じなくなっていた。
ここは自分の根だ。
ここで生まれ、ここで喧嘩をし、ここで槍を覚えた。
だからこそ、那古野へ持っていけるものがある。
ただの遅れた四男坊ではない。
荒子で積んだ飢えも悔しさも、全部が自分の足になる。
その夜、犬千代は珍しく兄と長く話した。
縁側で風に当たっていると、兄の方からやってくる。
「また那古野へ行ってきたそうだな」
犬千代は頷く。
「行ってきた」
「どうだった」
前にも似た問いを受けた。
だが、今度は少し答え方が違った。
「負けた」
兄が少しだけ眉を上げる。
「勝たなかったのか」
「一人には勝った。でも、その後で負けた」
兄はその言い方を聞いて、小さく笑った。
「なるほど。少し喋り方が変わった」
犬千代が顔をしかめる。
「何だそれは」
「前なら勝ったことだけ先に言ったか、負けたことだけで不機嫌になっていた」
犬千代は少しだけ黙り、それから視線を庭へ流した。
確かにそうかもしれない。
今は、勝ったことも負けたことも、どちらも同じくらい重い。
勝ったから嬉しい。
負けたから悔しい。
けれど、その両方が次の足になる。
兄は、犬千代の横に腰を下ろした。
「若殿は何と」
犬千代は思い返す。
悔しがり方が変わった。
少し、戦い方を覚え始めた。
次までに、今日の負けを腐らせるな。
その言葉を、一つひとつ胸の中で転がしてから答えた。
「……まだ見てやるって」
兄はそこで、ふっと息をついた。
「それは大きいな」
「皆そう言う」
「実際、大きいからな」
兄は少しだけ遠くを見る目をした。
「若殿は、気まぐれに見えて、人を見る時は妙に深いところまで見るという話を聞く」
犬千代の耳がぴくりと動く。
「深いところ」
「ああ。ただ腕が立つとか、ただ口が回るとか、そういう表だけではなくな」
兄はそこで、犬千代の横顔をちらりと見た。
「お前の何が若殿の目に留まったのか、今はまだ分からん。だが、少なくとも“面白いだけ”ではないのだろう」
その言葉に、犬千代の胸の奥が静かに熱を帯びた。
面白いだけではない。
そうでありたい。
そう見られたい。
そのために、もっと変わらねばならぬ。
翌朝、犬千代はいつも以上に早く川原へ出た。
空はまだ青みが薄い。
草に夜露が残り、川の水面に朝靄が漂っている。
その中で、犬千代は一人、木刀を持って立った。
槍ではない。
今日はまず足だ。
佐脇の言葉。
足を直せ。
気が前へ走ると、足が先走る。
犬千代はそれを何度も思い返しながら、地に線を引いた。
狭い場を真似て、小さく四角を作る。
その中で動く。
半歩。
止まる。
四半歩。
横へずらす。
前へ出そうになる足を抑える。
打ちたい衝動を抑える。
抑えたうえで、出るべき時だけ出る。
難しい。
ひどく難しい。
ただ前へ突っ込む方が、よほど楽だ。
だがそれでは、那古野で二度と先へは行けぬ。
犬千代は息を吐き、また足を運ぶ。
何度も。
何度も。
やがて、川原の向こうから声がした。
「今度は木刀か」
あの武士だった。
頬に細い傷を持つ、名も告げぬ男。
犬千代はすぐに木刀を下ろした。
「見てたのか」
「通りがかっただけだ」
「そればっかりだな」
男は犬千代の足元の線を見た。
「場を作っておるのか」
「那古野でやった」
犬千代は短く答える。
男は少しだけ目を細めた。
「ほう」
「前は前へ出ることしか考えてなかった。でも、それだけじゃ駄目だって分かった」
男は、犬千代の言葉を黙って聞いていた。
それから、低く言う。
「少しは己の足を見始めたか」
犬千代はむっとする。
「“少し”ばっかりだな、皆」
男はわずかに笑った。
「その少しを積まぬ者は、大きくなどなれぬ」
犬千代は返す言葉を飲み込んだ。
悔しいが、その通りだと思ってしまう。
男は線の中へ視線を落とす。
「やってみせよ」
犬千代は頷き、木刀を握り直した。
半歩。
止まる。
横へずらす。
重心を崩さぬ。
前へ出るのをこらえ、今だという瞬間にだけ踏み込む。
男は見ている。
しばらく見た後で、ぽつりと言った。
「前より、足が喋らぬようになったな」
「足が喋る?」
「心が急くと、足が先に喋る。今はまだうるさいが、前よりは黙り始めた」
その言い方に、犬千代は少しだけ笑った。
変な言い方だ。
だが、妙によく分かる。
前は、前へ出たい、取りたい、負けたくないという気持ちがそのまま足へ出ていた。
今は、まだ完全ではないが、その騒ぎを少しだけ押さえられる。
男は続ける。
「よい傾向だ。だが、足が黙ると今度は目が騒ぐ」
犬千代が眉をひそめる。
「何だそれは」
「次はそこだ」
そう言って、男はそれ以上は教えなかった。
相変わらず名も名乗らぬまま、川沿いの道を去っていく。
犬千代はその背を見送りながら、木刀を握る手に力を込めた。
少し。
半歩。
前よりまし。
悔しがり方が変わった。
足が黙り始めた。
どれも大きな言葉ではない。
だが、その小さな変化を積み上げていくしかないのだろう。
那古野で前へ出るために。
若殿に見続けられるために。
そして、いずれは――
犬千代は、朝の光が少しずつ川面を照らしていくのを見ながら、もう一度線の中へ足を入れた。




