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うつけ者と笑われた若き前田利家、槍働きと義理人情で織田家を駆け上がり、やがて百万石の祖となる  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第8話 前へ出るだけでは足りぬ場所

「参る」


小さくそう呟いた時、犬千代は自分の声が思っていたより静かなことに気づいた。


前なら違っただろう。

気勢を上げ、噛みつくように前へ出ていた。

だが今は違う。


那古野の庭。

杭で区切られた狭い場。

若殿の目。

周囲の視線。

それら全部が、犬千代にただ熱くなるだけでは足りぬと教えていた。


相手の若者は、犬千代に先に一点を取られたことで、かえって顔つきが締まっていた。


侮りが消えている。

甘く見て押し切れる相手ではないと知ったのだ。


犬千代はその変化を、胸のどこかで嬉しくも思った。

ようやく本気で来る。

那古野の者に、真正面から相手と見られた。


だが、嬉しがっている余裕はない。

相手が本気で来るということは、それだけ苦しくなるということだ。


若者が動く。


今度は最初の一歩から、犬千代の逃げを許さぬ踏みだった。

大きく見えて、実は崩れない。

重いのに、雑ではない。


犬千代は木刀を合わせる。

甲高い音が鳴り、腕へ重みが通る。


重い。

一度目よりも、さらに。


さっきのように真正面で受け続ければ、いずれ押し潰される。

だが、横へずらすにも場は狭い。

下がる半歩も、もうそう何度も使えぬ。


犬千代は歯を食いしばり、相手の肩を見た。

次はどこへ来る。

上か。

胴か。

押して崩すか。


相手は、犬千代が“見ている”ことを分かっているようだった。

わざと肩を揺らし、木刀の線を曖昧にする。

嫌な手だ。

目で追えば追うほど、引きずられる。


犬千代の胸に、焦りが差した。


来る。


そう思った瞬間、相手の木刀が横へ払われた。

受ける。

だが本命はそこではなかった。


払われた勢いで犬千代の木刀が外へ開いた瞬間、若者の体が半歩だけ内へ滑り込む。

近い。

詰められた。


犬千代は反射で肩を引き、相手の二の太刀を避ける。

避けた、が、それで場の端へ追い込まれた。


しまった。


杭がすぐそこだ。

あと半歩で外へ出る。


若者はそこを逃さなかった。

押し切るのではなく、犬千代の戻る線へ木刀を置いてくる。

動けば当たる。

止まれば追い出される。


犬千代は一瞬で悟った。


取られた。


その認識が胸に浮かんだと同時に、木刀が肩口へ入った。


「一つ」


信長の声が静かに響く。


犬千代はすぐに立て直した。

だが内心では舌打ちどころでは済まなかった。


見えていたつもりだった。

相手の力を受けて、逃がして、返す。

そこまではやれていた。

だが、その先――相手が“自分をどこへ追い込もうとしているか”までは、まだ見えていなかった。


那古野は深い。


ただ打ち筋を読むだけでは足りぬ。

相手がどう場を使い、自分の足をどこへ運ばせたがっているか、そこまで読まねば食われる。


犬千代の腹が、じりじりと焼ける。

悔しい。

さっき一点を取って浮かれたつもりはなかった。

だが、どこかで“やれる”と思っていたのだろう。


若者の目は冷えていた。

そこに侮りはない。

ただ、「ここからだ」と言っている。


犬千代は木刀を握り直した。


もう一点でも取られれば終わりだ。

だが、まだ終わっていない。


「まだだ」


自分に言い聞かせるように呟いた時、若者の眉がほんの少し動いた。


その反応を見て、犬千代は逆に落ち着いた。

聞こえたのだ。

ならば相手も、人形ではない。

こちらの息遣い、間、目の揺れを見ている。

それなら、自分もそれを返せるはずだ。


始まる。


今度は犬千代から、ほんのわずかに木刀の先を揺らした。

打つぞ、と見せるほど大きくはない。

だが相手の目が、その先へ一瞬だけ落ちる。


そこだ。


犬千代は打たない。

そのまま足だけを横へずらし、場の中央へ戻る。


若者の木刀が来る。

犬千代は今度は受けない。

浅く外して、すぐに柄に近いところで短く打ち返す。


相手が避ける。

犬千代も追わない。

追えばまた外へ誘われる。


その我慢が、犬千代には一番きつかった。

前へ出たい。

ここで取りたい。

食らいつきたい。

その衝動を、那古野の庭は何度も抑えつける。


相手が詰める。

犬千代は場をずらす。

木刀が触れ合うたびに、腕へ痺れが溜まる。


どちらが先に崩れる。


その勝負になり始めていた。


犬千代は息を整える。

焦るな。

前へ出るな、ではない。

前へ出る“時”を違えるな。


若者の木刀がまた来る。


今度は上から。

犬千代は受けにいく――と見せて、途中で木刀を沈めた。


若者の打ち込みが一瞬だけ空を切る。


犬千代はそこへ、下から小さく木刀を跳ね上げた。

脇を狙ったつもりだった。

だが、ほんの少し浅い。


若者はそれをぎりぎりで外し、逆に体を寄せてきた。


近い。


犬千代はすぐに体を開く。

その瞬間、足の裏に杭の感触が触れた。


外だ。


やばい、と思った時には、若者の木刀がぴたりと犬千代の胸元で止まっていた。


「二つ」


信長の声。


勝負は決まった。


庭の空気がすっとほどける。

犬千代は、しばらくその場に立ち尽くした。


負けた。


一点は取った。

だが、二つ目を取り切るだけの深さがなかった。

最後は、また場を読まれて追い込まれた。


若者が一歩引いて礼をする。

犬千代も返すが、胸の中は煮えたぎっていた。


悔しい。


さっき一人に勝ったことで、那古野でやれる気が少しだけした。

その鼻先を、今度はきっちり叩き折られた。


まだだ。

まだ全然足りない。


それでも、前回の負けとは違った。

見えぬまま終わったのではない。

少し見えた上で、それでも足りなかった。

その差が、犬千代にはかえって堪えた。


信長の声が落ちる。


「犬千代」


「……は」


「今の負けは、最初の負けと何が違う」


その問いに、犬千代はすぐには答えられなかった。

悔しい。

息も苦しい。

肩も痛い。

だが、答えねばならない。


信長はそこを見ている。


犬千代はゆっくりと顔を上げた。


「最初の負けは……俺が何も分かっておりませなんだ」


「うむ」


「今のは、少し分かってきたつもりで、まだ足りぬところを取られました」


信長の目が細くなる。


犬千代は続ける。


「一つ取れたから、同じようにいけると思ったわけではありませぬ。けれど、どこかで“通る”と思っておったのだと思います」


自分で口にして、犬千代はそれがいかに痛いことかを知った。

慢心。

そこまで大げさでなくとも、一度通った形に頼った。

那古野の相手は、そんなものを二度は許さぬ。


信長は静かに頷いた。


「そうだ」


その一言が、犬千代の腹へ深く入った。


「一度通ったものが二度通るとは限らぬ。戦も、人も、同じだ」


犬千代は息を詰める。


「お前は少しずつ覚えておる。だが覚えるほど、相手もお前を見る。そこを忘れるな」


その言葉に、犬千代は深く頭を下げた。


「……は」


信長はそこでふっと笑った。


「だが、悪くない」


犬千代が思わず顔を上げる。


信長は縁側に肘を置き、少し楽しそうに言った。


「最初の負けより、今の負けの方がよい顔をしておる」


庭の端で見ていた若者たちの間に、小さなざわめきが走る。

犬千代自身、耳が熱くなるのが分かった。


「悔しがり方が変わった」


信長は続ける。


「ただ噛みつきたいのではなく、次にどう食うかを考える顔だ」


その言葉は、犬千代には何より嬉しかった。


若殿は見ている。

ちゃんと見て、自分の変わり方まで見ている。


そのことが、負けの苦さを少しだけ違うものに変えた。


相手をした若者が、一礼して去りかけた時だった。


「待て」


信長の声で、若者が足を止める。


「お前、犬千代をどう見た」


若者は少しだけ意外そうな顔をしたが、すぐに正した。


「荒子の小倅、と聞いておりましたが……それだけではありませぬ」


犬千代の胸がどくりと鳴る。


若者は犬千代を見ずに続けた。


「まだ粗く、我が強く、前へ出たがるところが目立ちます。ですが、一度言われたことをその場で呑み、戦いの中で直そうとする癖があります」


信長の口元がわずかに上がる。


「つまり」


「放っておくと面倒ですが、伸びるなら厄介です」


庭の端で、何人かが小さく笑った。

犬千代はむっとしたが、同時に妙な嬉しさもあった。


厄介。

面倒。

だが、それは「何もない」者への言葉ではない。


信長は笑う。


「そうか。ならば、なおよい」


若者が下がると、庭の空気はほんの少しだけやわらいだ。


さっきまで犬千代へ向けられていた視線の棘が、少しだけ違うものになっている。

全部が好意ではない。

全部が敵意でもない。

ただ、確かに“相手”として見始めている目だ。


犬千代はそれを肌で感じた。


那古野の庭はまだ遠い。

だが、足を踏み入れたばかりの時よりは、ほんの少しだけ場所を作れた気がした。


信長が立ち上がる。


「今日はそこまでだ」


犬千代は木刀を下げた。

腕が重い。

足も少し震えている。

けれど、胸の中の火は消えていない。むしろ前より静かに、深く燃えていた。


信長は去り際に、犬千代へ言った。


「次までに、今日の負けを腐らせるな」


犬千代はすぐに頭を下げる。


「は」


「噛みしめろ。呑みこめ。次に使え」


「はっ」


その答えは、前よりずっと真っ直ぐに出た。


信長が去る。

若者たちも散り始める。

だが今日は、誰も犬千代を露骨に見下したりはしなかった。


あの鋭い目つきの若者が、通りすがりにぽつりと言う。


「一点取った時、少し嫌だったぞ」


犬千代が顔を上げると、若者はそれだけ言って去っていった。


嫌だった。

それはつまり、効いたということだ。


犬千代の口元が、わずかに上がる。

那古野の庭で、初めて“効かせた”のだ。

勝ち切れずとも、確かに。


又兵衛が近づいてきた。


「どうだ」


「悔しい」


「そうか」


「でも……前より、悔しさの形が違う」


又兵衛は少しだけ目を細めた。


「ほう」


犬千代は木刀を見下ろした。


「前はただ負けたのが悔しかった。今は、どこで負けたかが分かるから、その分だけもっと悔しい」


又兵衛は、そこで静かに笑った。


「それでよい」


犬千代は木刀を握り直す。


那古野の空は高い。

荒子と同じ空のはずなのに、ここではもっと遠く見えた。


前へ出るだけでは足りぬ。

噛みつくだけでは足りぬ。

覚え、呑み、変わり、それでもなお前へ出る。


その場所に、自分は来てしまったのだ。

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