14.辺境伯、帰還 (※イーサン視点)
馬車から暗い色の壁が見えた。
自領へ戻るたび目にする関所の壁だ。
しかし今回はとても重たく陰鬱に感じる。
まるで、自分の心がそう見せているようだ。
*
「——辺境伯。そろそろ領地へ戻るがよい」
「……は」
領地に到着する十日前、俺は国王陛下の御前へ呼び出されていた。
「この半月、騎士達に良い鍛錬ができたと近衛騎士団長が喜んでいた」
結婚式の翌日から、陛下と近衛騎士団長の頼みで王都に留まり、騎士達の実戦稽古に付き合っていた。
俺一人に三人がかりでも歯が立たぬとは……王宮の守りがいささか不安になる。
「ほんの数日のつもりだったのだが、まさか半月も付き合ってくれるとは思わなんだ」
陛下が苦笑混じりに言った。
「そろそろ本来の責務に戻れ。それに、そなたは新婚だろう?妻が寂しがっているのではないか」
——妻、か。
異母妹の代わりとして嫁がされた娘。
『夫婦生活をするつもりはない』
そう言って冷たく突き放し傷つけた女性。
あの時、彼女が浮かべた戸惑いの表情。
震える声で「さようでございますか」と答えた寂しげな笑顔。
思い出すと胸の奥に小さな痛みが走る。
「……寂しがるなど、あり得ません」
短くそう答えた。
——むしろ、俺がいない方が彼女には都合が良いだろう。
あんな言葉を吐いた男など、いない方が良い。
そう思って訓練を理由に王都に留まった。妻と会うのを避けるために。
しかし、どういうわけか一人で行かせた彼女のことが気になり、頭から離れなかった。
領地の者たちは彼女を邪険に扱わない。それはわかっているが。
知らない土地で不便はないか。心細くはないか。
便りがないので何もわからない。
——俺は何を考えているんだ。
頭の中の考えを何度振り払っても、あの娘の顔が浮かんでくる。
今さら、どんな顔をして会えというのだ。
再び馬車の外に視線を移す。
石造りの壁は相変わらず重苦しく、俺は小さく息を吐いた。
*
「お帰りなさいませ」
俺の帰還を迎えたのは、家令のサイモン一人だけだった。
「じい様は?」
「大旦那様は、談話室でお待ちでございます」
その一言で察した。
おおかた、半月以上も領地を空けたことについての小言だろう。
「わかった。このまま向かう。……妻は?」
「奥様は厨房にいらっしゃいます」
厨房?
料理長が献立の相談でもしているのだろうか。
顔を合わせずに済んで安堵すると同時に、ふと感じた寂しさに戸惑う。
「お呼びいたしましょうか?」
「いや、いい。後で行くとしよう」
家令の申し出を断り談話室へと向かった。
家令が談話室の扉を開ける。
中に入り、中の違和感に思わず足が止まる。
ソファやテーブルを端に避けて作られた広い空間。
その中央に一つだけ置かれた椅子に、じい様が座っていた。
「ようやく帰ってきたな。この馬鹿孫が」
じい様がそう言ってゆっくりと立ち上がった。
左手には見慣れた杖が握られている。
「新妻を、たった一人で領地に向かわせて」
ぽつり、ぽつりと静かに言葉が落とされていく。
「お前は王都で何をしていた?」
低く抑えられた声。
ーーこれは相当機嫌が悪い。
「陛下と近衛騎士団長の頼みで、あちらの訓練に参加を」
「ホッホ。随分と楽しかったようじゃのう」
言葉に反して目は笑っていない。
これは、まずいな。
「……帰還が遅くなって、こちらの軍務を疎かにしたのは」
「違う」
謝罪の言葉を遮られる。部屋に沈黙が落ちた。
「儂が怒っとるのは」
じい様がゆっくりと右手で杖に触れる。
「アンを一ヶ月近くも放っておいた事だ!!」
ーー来る!
乾いた音が聞こえると同時に体が動いた。
風を切る音と共にじい様の刃が先ほどまでいた場所を薙いだ。
「避けるな!!」
「避けるだろう!」
「黙れ馬鹿孫が!」
間髪容れずにもう一撃。
かわせばすかさず二撃目。
じい様は引退した軍人とは思えない俊敏さで容赦なく斬りかかる。
ふと、視界の隅に騎士団長とメイサの姿が見えた。
「見てないで止めろ!」
そう叫ぶと二人は顔を見合わせた後、ゆっくりと首を振る。
「無理です」
「たぶん殺されないと思うので」
「『たぶん』てなんだ!?」
思わずそう叫んだ。
その隙をついてまた一撃。
「——クッ!」
反撃するわけにもいかず、ひたすらに攻撃を避け続けるしかなかった。
「——大旦那様。もうそのくらいで」
割って入った声はサイモンのものだった。
「これ以上はお体に障りますので」
さすがのじい様も息があがっている。
「——チッ」
じい様が舌打ちをして杖を収める。
——最初から止められただろう。
喉まで出かかった言葉をどうにか飲み込む。
サイモンが持ってきた椅子に腰掛け、じい様は息を吐いた。
呼吸を整えている間も鋭くこちらを睨みつけている。
「お前にどんな思惑があるかは知らん」
じい様が静かに口を開く。
「だが、ここまで来てくれたあの子に」
一度言葉を区切り、こちらを見つめる。
「夫としての礼は尽くせ」
短く告げられた言葉が胸の奥に重たく響いた。
返す言葉もなく、俺は立ち尽くす。
「——わかったなら、さっさと厨房へ行け」
長い沈黙のあと、じい様がため息をついて言った。
「厨房?」
そう言えば、家令も妻が厨房にいると言っていた。
「厨房で、妻は何を?」
「移民の村で育てとる豆から甘味を作ってる」
甘味を?
——領主夫人が自ら?
「なぜ、そんなことを」
「たまたま、甘味の作り方をアンが知ってたからだ」
じい様の口元が緩む。
「まさか、あの豆があんな美味い甘味になるとは」
楽しげな声でそう言った。
後ろの三人も揃って頷いている。
「アンは、この領地の為になることをしたいと言っておった」
遠くを見るかのように目を細める。
「嫁いで一ヶ月近く——十分すぎる働きじゃ」
じい様の声はどこか誇らしげだった。
「じい様、アンというのは」
「……アンジェリーナのことだ!」
一瞬の沈黙の後、叩きつけるような怒声が響く。
「お前、妻の名前もわからんのか!」
——知らなかった。
顔を合わせた初夜ですら、その名で呼んでいない。
「まったく……情けないのう」
呆れたじい様の言葉が鋭く胸に刺さる。
「ほれ、早う行け。夫として、あの子を労って来い」
じい様が手を払いながら促した。
*
俺は、重い足取りで厨房へ向かう。
——どんな顔をして会えばいいんだ。
そう思いながら、厨房の扉をそっと開けた。
甘い匂いがふわりと鼻をくすぐる。
奥の調理台に、彼女が立っていた。
こちらに気づかず、静かに鍋と向き合っている。
——こんな顔をするのか。
口の端を僅かに上げ、慈しむような表情で鍋を見つめている。
俺はその横顔に目を離せなかった。
「——戻られたんですか?味見をお願いしたいのですが」
鍋を見つめたまま、妻が言った。
……料理長と勘違いしているのか。
呼ぶべきか躊躇する。
しかし——。
「——アンジェリーナ」
静かに名前を呼ぶ。
彼女の肩が大きく揺れた。
弾かれたように振り向いた彼女は、驚きと戸惑いが入り混じったような表情で俺を見つめた。
次回更新は
6月23日(火) 20時です




