第7章 故郷の人々 (母の面影から新しい居場所へ)
「ねえ、駈くん……今日の夜、少しだけ時間、あるかな……?」
放課後の教室に、夕暮れの金色の光が斜めに差し込む静かな時間。私は自分の机に座ったまま、斜め前にいる駈くんの背中をそっと見つめ、意を決して彼の制服の袖をトントンと指先で引っぱった。
駈くんはふわりとまぶたを持ち上げ、寝ぼけ眼のような、けれどどこか甘さを含んだ優しい笑みを私に向ける。
「ん……? 天音ちゃんの誘いなら、いつだって、どんな予定よりも優先して空けてるけど」
「もう……冗談言わないの。ちゃんと、真面目に聞いてよ。今日はね、特別なお願いがあるの」
私が少しだけ頬をふくらませて見せると、駈くんは「はいはい、なんでしょう?」と面白そうに体を軽く起こした。制服のシャツの第一ボタンが少しだけ外れていて、そのどこか無防備で大人びた姿に、私の心臓はトクンと小さく跳ね上がった。
交際が始まってから、私たちの距離は以前とは比べものにならないほど近くなっていた。学校の廊下ですれ違うときや、教室で少しだけ言葉を交わすとき、周りのクラスメイトから「最近、二人の雰囲気すごく甘くない?」なんて小声で冷やかされることも増えた。そのたびに顔から火が出るほど恥ずかしかったけれど、今の私はその冷やかしすら、どこか胸の奥がくすぐられるような、嬉しさとして受け止めていた。
「あのね、今日の夕方……あのショッピングモールに行きたいの。駈くんのピアノを、改めて最初から最後まで、ちゃんと近くで聴かせてほしいんだ」
私の言葉に、駈くんはわずかに目を丸くした。
「俺のピアノを? いつも、そこで聴いてくれてるじゃん」
「ううん、そうじゃなくて……」
私は少しだけ言葉を選び、自分の気持ちを確かめるように、彼のまっすぐな黒目をそっと覗き込んだ。
「駈くんはこれまで、お母さんの思い出や、自分のなかの深い怖さと戦いながらあのピアノを弾いてきたでしょう? でも、これからは違う。私と……未来に向かって弾く駈くんの音を、ちゃんと聴きたいの。もちろん、準備ができたらでいいんだけど……」
最後まで言い切る前に、駈くんはふっと、これ以上ないほど優しい笑みを浮かべた。その表情には、かつて彼を縛り付けていた暗い翳は、もう微塵も残っていなかった。
代わりにそこに宿っていたのは、一人の青年としての力強い決意と、深い愛おしさに満ちた光だった。
「分かった。……じゃあ、今日の夕方、いつものあの場所で待ってる」
駈くんは優しく私の頭をポンと軽く撫でると、少しだけ照れくさそうに立ち上がった。その大きな手の温もりが、私の髪から胸の奥へとじんわりと染み込んでいくようだった。
* * *
夕暮れのショッピングモールは、いつもと同じように穏やかな活気にあふれていた。
ガラス張りの高い天井から差し込むオレンジ色の光が、ストリートピアノの黒いボディを艶やかに照らし出している。
約束の時間に少し遅れて、息を切らせながら駆けつけた私を見つけると、ピアノの前に座っていた駈くんは、ホッとしたような、待ち遠しかったと言いたげな笑顔を浮かべて小さく手招きをした。
「遅いぞ、天音ちゃん。待ちくたびれて、もう帰っちゃおうかと思ったところだよ」
「ご、ごめんね……! 来る途中で、自転車のチェーンが外れちゃって、直すのに手間取っちゃって……」
私は息を整えながら、彼のすぐ隣に用意されたベンチの端っこにそっと腰を下ろした。
周囲にはいつの間にか、買い物の途中で足を止めた人たちが何人か集まり始めていた。
高校生が奏でるストリートピアノとして、このモールではちょっとした有名人になりつつある駈くん。けれど、今日の彼の佇まいは、いつものどこか遠くを見つめるような儚い雰囲気とはまったく違っていた。背筋がまっすぐと伸び、その姿には確かな自信と落ち着きが宿っている。
「……じゃあ、弾くね」
駈くんは私を一瞥し、小さくうなずくと、鍵盤の上に両手をそっと置いた。
深呼吸をして、姿勢を正す。その背中は、以前よりもずっと広く、頼もしく見えた。
そして、彼が奏で始めたのは――。
――『故郷の人々(スワニー河)』。
スティーブン・フォスターの代表曲であり、誰もが知る「故郷」への切なさと愛惜を歌った名曲。
イントロの優しい和音が響いた瞬間、私の胸が熱くなった。
(この曲を……選んだんだ……)
昔の駈くんなら、この曲はきっと「もう戻らない母との日々」を嘆くための、哀しみのためのものになっていたかもしれない。
けれど、今彼の指先から紡がれるメロディーは違っていた。
音の粒は驚くほどクリアで、温かく、聴く者の心を優しく包み込むような豊かな響きを帯びていた。それは過去を悼むための音楽ではなく、「失ったものを受け入れた上で、今ここにある温もりを大切に生きる」ための、静かな賛歌のようだった。
(――お母さん、見ていてくれますか?)
私は心の中でそっとつぶやいた。
10年前、この場所で母のピアノに憧れていた小さな男の子は、今、大切な人と出会い、過去の呪縛を自分の手で解き放ち、自分の足で未来へ歩き出そうとしている。
天国で見守っているであろうお母さんも、きっと今の駈くんの姿を、あの日のように誇らしげな目で微笑みながら見つめているに違いなかった。
旋律はさらに優美に、そして力強さを増していく。
スワニー河の流れのように滑らかな音の波が、モールの吹き抜け全体を満たしていく。
通りすがりの人たちが足を止め、うっとりとその音色に聴き入っていた。小さな子どもが母親の手を引いてピアノの近くまで歩いてきて、きらきらした目で駈くんを見上げている。
――その光景は、10年前の駈くんの姿と重なって、私の目頭を熱くさせた。
曲の終盤、駈くんの指先がひと際鮮やかに鍵盤を舞う。
そして、すべての感情を慈しむような最後の和音が、ゆっくりと、美しい余韻を残して静かに消えていった。
コン、とペダルから足が離れる音。
その瞬間、周囲から割れんばかりの温かい拍手が巻き起こった。
「ブラボー」「すごく上手ねぇ、感動しちゃったわ」という声があちこちから聞こえてくる。
駈くんは少しだけ照れくさそうに頭を下げたあと、ゆっくりと顔を上げ、まっすぐに私を見た。
その瞳には、涙ではなく、これ以上ないほどの晴れやかな光が宿っていた。
「……どうだった、天音ちゃん?」
周りの喧騒が遠ざかるように、駈くんが私だけに聞こえる声で、優しく囁くように尋ねる。
私は胸いっぱいの愛おしさをこらえきれず、自然と顔に笑みがこぼれた。
「すごく……すごく素敵だった。世界で一番、温かい音色だったよ……」
私の言葉に、駈くんは本当に嬉しそうに、花が咲くような笑顔を浮かべた。
「よかった。……俺さ、やっと分かったんだ」
彼はピアノの鍵盤から手を離し、私のほうへ体を少し向けた。内気だった私に向けるその目は、いつだって包み込むような優しさに満ちていた。
「母さんが残してくれたこのピアノは、過去にしがみつくためのものじゃなくて、俺がこれから前を向いて生きるためのものだったんだって。そしてさ……俺にとっての『故郷』は、思い出の中だけにあるんじゃないんだ」
駈くんは私の小さな手をそっと取り、自分の胸元へと引き寄せた。
彼の確かな心臓の鼓動が、手のひらを通じて私の体にじんわりと伝わってくる。
「今、こうして俺の隣で微笑んでくれる天音ちゃんがいる場所。そこが、俺の新しい『我が家』なんだって、この曲を弾きながら気づいたんだ。……本当にありがとう、天音ちゃん。俺を見つけてくれて、そばにいてくれて」
熱いものが、ついに私の目からあふれ出し、ぽろりとこぼれ落ちた。
けれどそれは悲しみの涙なんかじゃなく、あふれ出る幸福感でいっぱいの、温かい涙だった。
「こちらこそだよ、駈くん……。私をあなたの隣に連れてきてくれて、本当にありがとう」
私たちは周りの視線もすっかり忘れて、夕暮れの光の中でしっかりと手を握りしめ合った。
母の面影という古い記憶のなかにずっと留まっていた少年は、愛する人を見つけ、本当の意味で大人への一歩を踏み出していた。
二人の新しい未来が、このスワニー河の優しいメロディーの向こう側から、穏やかに、そして力強く始まろうとしていた。
10代くらいの少女にとって、少年は何でもできてクラスの人気者が良いなんて理想を抱きますよね。
でも、実際の少年は駈のように哀しみや脆さを抱えているのでしょうね。




