第5章 オールド・ブラック・ジョー (哀しみの受容と過去との決別)
あの日の夕暮れ、駈くんが初めて私に本当の涙を見せてから、私たちの距離は以前とは少しだけ――けれど決定的に違うものになっていた。
言葉を交わさなくても、お互いが今何を考えているのかが、なんとなく肌で伝わるような気がする。そんな静かで温かな空気感が、私たちの間に優しく流れるようになっていた。学校の廊下ですれ違うとき、彼はふっと柔らかな笑みを向け、私もそれに小さくうなずき返す。それだけのことが、内気で人と目を合わせるのも苦手だった私にとって、どれほど眩しく、愛おしい日常だったことか。
けれど――。
人の心に深く根を張った過去の呪縛というものは、一度涙を流して抱きしめ合ったからといって、すべてが魔法のように消えてなくなるわけではなかった。
「……駈くん?」
放課後のショッピングモール。
いつものようにストリートピアノの前に座った駈くんの背中は、あの日に涙を流してくれたときよりも、なぜかひどく遠く、小さく感じられた。
彼は、鍵盤に向かう手にぐっと力を込めたあと、迷うように一度息を整え、静かに弾き始めた。
流れてきたのは、スティーブン・フォスターの『オールド・ブラック・ジョー』だった。
(……また、この曲だ)
聞き慣れたそのメロディーは、いつ聴いても深い哀愁と、失われた日々への切なさに満ちている。
昔の友や、もう二度と戻らない懐かしい日々を偲ぶ、老人の歌。
けれど、今の駈くんが奏でる音は、ただの「哀愁」ではなかった。どこか自分自身を逃げ場のない暗闇へと追い詰めるような、冷たい鎖を引きずるような、痛々しいほどの重さを纏っていた。
(どうして……そんなにつらそうな顔をして弾くの……?)
私は少し離れた柱の陰から、彼の横顔をじっと見つめた。
歯を食いしばり、眉間に深いしわを寄せた駈くんの瞳は、目の前の鍵盤ではなく、10年前のあの日の「暗闇」だけを見つめているように見えた。
過去の痛みを私に打ち明けたことで、かえって彼は、自分がどれだけお母さんの死という呪縛に囚われていたのかを、改めてまざまざと思い知ってしまったのかもしれない。
――『いつか、大切なものは全部突然いなくなっちまう気がして……』
あの日の夜、彼が震えながら漏らした言葉が、私の胸をチクリと鋭く刺す。
彼は今、その恐怖と――たった一人で再び戦っているのだ。
「過去の思い出」という温かい光ではなく、母親を失った「喪失感」という古い記憶の底にしがみつき、自らを罰するように哀しい音を鳴らし続けている。
曲の終わりが近づくにつれ、駈くんの指の動きはどんどん硬くなっていった。
最後の和音が、まるで重く冷たい鐘のようにモールの静まり返った空間に沈み込む。
ペダルから足を離したあとも、彼はぐっと俯いたまま、小刻みに震える両手を自分の膝の上で強く、白くなるほど握りしめていた。
私はいてもたってもいられなくなって、柱の陰から飛び出し、彼のそばへと駆け寄った。
「駈くん……!」
「……来るなよ、天音ちゃん」
顔を上げもしないで、駈くんは低く、そして絞り出すような掠れた声を漏らした。
「え……?」
「俺は……ダメだ。結局、何も変わってない。母さんが死んだあの日の夜から、俺の時間は止まったままなんだよ」
駈くんがゆっくりと、まるで重い枷を引きずるように顔を上げた。
その瞳には、かつての優しい輝きではなく、自己嫌悪と絶望の色が痛いほど滲んでいた。
「毎日ここでピアノを弾けば、いつか母さんに追いつける気がしてた。あの日の続きができるような気がしてた。でも違う……俺はただ、過去にしがみついてるだけの臆病者だ。『オールド・ブラック・ジョー』の老人みたいに、昔の思い出だけを頼りに、一人でここで朽ち果てていくつもりなのかも知れない」
「そんなこと……言わないで、駈くん!」
私は自分の小さな声を振り絞り、彼の目の前にしゃがみ込んだ。人見知りで、普段なら絶対にこんな風に人の目をまっすぐ見ることなんてできないのに、今はそんな臆病さを忘れていた。
「思い出にしがみついているだなんて、そんなの嘘だよ……! だって、あなたのピアノは……あの日からずっと、私の胸に温かいものを届けてくれたじゃない。それは過去の思い出なんかじゃない、今ここで生きている駈くんの音だよ!」
「温かいもの……?」
駈くんは自嘲気味に唇を歪ませ、情けなそうに笑った。
「嘘をつけ。今の俺の音なんて、聴いてるだけで暗くなるような、呪いみたいなもんだろ。……お願いだから、これ以上俺に近づかないでくれ。また、いつか天音ちゃんまでいなくなっちまったら……俺、今度こそ耐えられないから」
「――ッ!」
その言葉に、胸が引き裂かれるように痛んだ。
彼は私を拒絶しているのではない。大切な人を失うのが怖いから、私をこれ以上傷つけたくないから、自分で自分に分厚い鍵をかけて閉じこもろうとしているのだ。
私は震える手を伸ばし、彼の冷たく冷えた大きな手に、そっと自分の小さな手を重ね合わせた。
「いやだ……」
消え入りそうな、けれど震える声ではっきりと告げた。
「離れないよ。一人になんて、させない……!」
「天音ちゃん……」
「私はね、過去の幽霊なんか聴いていないの。今、目の前でこうして震えながら、必死に生きようとしている駈くんの音を聴いているの……っ」
涙声になりながらも、私は必死に言葉を紡いだ。
「お母さんがあなたを私に引き合わせてくれたのは、一人でずっと泣き続けなさいって言いたかったからじゃないはずだよ……。『この子と一緒に、前を向きなさい』って、そう言ってくれたんだよ、きっと……」
駈くんの瞳が、大きく、激しく揺れた。
私の手のひらから、彼の大きな手に温かい体温が少しずつ、ゆっくりと伝わっていく。
「私を見て、駈くん。過去じゃなくて、今ここにいる私を見て……」
しばらくの沈黙が、私たちの周りを優しく包み込んだ。
モールの遠くのざわめきだけが、まるで見えない異世界のことのように遠くでぼんやりと響いている。
やがて、駈くんはふるふると小さくかぶりを振った。
そして、私の小さな手を優しく包み込むように、自分の大きな手でしっかりと握り返してくれた。冷たかったその手の温度が、嘘のように温かくなっていくのがわかる。
「……ずるいよ、天音ちゃん」
駈くんは、泣きそうな、けれどほんの少しだけその瞳の霧が晴れたような、そんな切なくも温かい笑みを浮かべた。
「そんな顔でまっすぐ言われたらさ……もう、逃げ出せないじゃないか」
「逃げなくていいの……。ずっと、そばにいるから」
私の言葉に、駈くんは深く、大きく息を吐き出した。まるで、これまでの胸のつかえをすべて下ろしたように、ふっと肩の力を抜く。
『オールド・ブラック・ジョー』が残した冷たい影が、私たちの繋いだ手の温もりによって、少しずつ、確実に溶けていくのを感じていた。
当たり前のように隣にいた人が突然いなくなる。
ー駈の母親ですが。
特に幼い頃にそういう思いをすると、今そばにいる人まで突然いなくなるのでは?という恐怖に駆られるのかも知れないですね。
会者定離という言葉がありますね。
死別は両親くらいですが、さよならだけが人生だということもありますよ。




