第4章 主は冷たい土の中 (明かされる過去と癒えない痛み)
「星野……天音」
ポツリと呟いた駈くんの指が、鍵盤の上でぴたりと止まった。
放課後の静かなショッピングモールに、私たちの足音だけがかすかに反響する。ピアノの前に座ったまま、駈くんはゆっくりと上半身をねじり、私の顔をじっと見つめていた。その瞳の奥には、いつもの優しい笑顔の裏側に隠された、深く沈んだ暗がりが静かに揺れている。
「ど、どうしたの……駈くん?」
私は急に胸のあたりがざわめくのを覚え、少しだけ身を引くように体をこわばらせた。
駈くんは視線を自分の膝へと落とし、乾いた笑みをひとつこぼした。
「ううん……なんだか、すごく綺麗な名前だなと思ってさ。星野、天音……。星の野原に、天の音……まるで、音楽のために生まれてきたような名前だろ?」
「そ、そんなことないよ……! 普通だよ、私の名前なんて……」
照れくささと、急に真面目な雰囲気に気圧されたことで、私は両手で自分の真っ赤な頬を隠した。
でも、駈くんは静かに首を横に振る。
「普通なんかじゃないよ。……だって、その名前を聞いたとき、母さんのことを急に思い出してしまったんだ」
空気がふっと冷たくなった気がした。
駈くんは小さく息を吸い込むと、これまで私には絶対に触れさせようとしなかった記憶の扉を、自分の手でそっと、けれど重そうに開けようとしていた。
「10年前のあの日、この場所で母さんが『草競馬』を弾いたあと……俺たち、すぐには家に帰らなかったんだよ」
駈くんの声は、驚くほど静かで、どこか何光年もの彼方を見つめているように響いていた。
「ショッピングモールの外に出たら、ちょうど夜空に満天の星が出ていてさ。母さんが空を指差して、『あそこに天国の星があるんだよ。お父さんと駈を見守ってくれてるんだ』って、おかしそうに笑って言ったんだ。……それが、母さんと最後に交わした会話になった」
私の胸が、ギュッと締め付けられるように痛んだ。
「……最後、って」
「その日の夜中、母さんは急に倒れて……そのまま、二度と目を覚まさなかった。心臓の病気だったらしい。前日まであんなに元気で、あんなに楽しそうにあの一台のピアノを弾いていたのに、嘘みたいに、いなくなっちまったんだ」
駈くんの肩が、微かに、けれど激しく震えていた。
10年間、彼がたったひとりでずっと背負い続けてきた喪失の重さが、言葉の端々から痛いほど私の心に流れ込んでくる。
「それからずっと、俺は怖かった。ここでピアノを弾くたびに、楽しかった記憶の裏側から、母さんがいなくなった時の冷たい絶望が何度も蘇ってくるんだ。俺のせいで母さんに無理をさせたんじゃないか、あの時もっと違う言葉を言っていればよかったんじゃないかって……ずっと、自分を責め続けてた」
駈くんは両手で自分の顔を覆い、言葉を詰まらせた。
いつも明るく振る舞っていた彼の底にある、決して消えることのない深い傷痕。その痛みを、私は今まで何も知らずに「素敵な音だね」と無邪気に笑っていたのだと思うと、自分の無神経さが怖くて、胸が引き裂かれるように痛んだ。
たまらなくなって、私は震える足を一歩だけ踏み出し、彼の背中にそっと手を伸ばした。
震える背中を包み込むように、小さく丸まった彼の肩に、恐る恐る手を置く。
「駈くん……」
「っ……怖いんだ、天音ちゃん」
駈くんは顔を覆ったまま、絞り出すような、掠れた声を漏らした。
「いつか、大切なものは全部突然いなくなっちまう気がして……。ピアノを弾くのも、本当は怖くて苦しかった。なのに、どうしてか、ここで弾くのをやめられなかった。母さんの面影を探してたのかも知れない。……でも」
駈くんはゆっくりと、ためらうように顔を上げた。
潤んだ瞳が、まっすぐに私を捉えて離さない。
「星野天音って名前をきいたとき、なんだか胸の奥が温かくなったんだ。まるで、母さんが……『この子なら大丈夫だよ』って、俺のところに連れてきてくれたみたいに思えてさ」
――天国の、お母さんが引き合わせてくれた。
その言葉を聞いた瞬間、私の目からも熱い涙があふれ出し、とめどなく頬を伝い落ちた。
10年前、本屋でぶつかり、ストリートピアノの音に心を奪われたあの瞬間から、私たちの運命は目に見えない温かい糸で結ばれていたのだとしたら。
あの日の優しいお母さんが、悲しみに暮れてうつむいていた小さな駈くんの手を引くように、私たちの未来をそっと導いてくれたのだとしたら。
「……うん」
私はあふれる涙をぬぐうこともせず、力強く首を縦に振った。
「きっと、そうだよ……。お母さんは、一人でずっと頑張っていた駈くんを見ていられなくて、『この子と一緒に、前を向きなさい』って、私をここに連れてきてくれたんだよ」
「天音ちゃん……」
「だから、もう怖がらなくていいよ……! 駈くんは、一人じゃないから。私はずっと、駈くんの隣で、そのピアノを聴いてるから……!」
私の必死な声に、駈くんはもう我慢できなくなったように、私を引き寄せるようにしてその場にうずくまった。
子どものように泣きじゃくる彼の大きな温もりを感じながら、私は彼の背中に両腕を回し、壊れてしまわないよう優しく、何度も何度も撫で続けた。
夕暮れの光が、二人を包み込むように柔らかく沈んでいく。
冷たかった過去の記憶が、今、温かな涙と一緒に少しずつ溶けていくのを感じながら、私たちはしばらくの間、そのままで寄り添っていた。




